ボクの特別なチョコレート(税抜き二十円)
ボクとサキちゃんは家が隣同士の、いわゆる幼馴染という間柄だ。
幼稚園に通っている頃からお互いの家を行き来し、遊んでいた。
その日もボクはサキちゃんの家に行き、積み木やおままごとなどをしていた。
そして日も暮れて、ボクが帰ろうとした時だった。
サキちゃんに手を出してと言われたので、その通りにすると、
「これ、あげる」
ボクの手の上にチョコレートが置かれる。
よくコンビニのレジの横で、二十円くらいで売っているやつだ。
「どうして?」
それまで、サキちゃんがボクにお菓子を渡すようなことは無かった。
だから何故そんなことをしたのか不思議だった。
ボクは疑問をそのままサキちゃんにぶつける。
「今日はね、バレンタインデーなんだって」
「バレンタインデー?」
「好きな人にチョコレートをあげる日なんだって。わたし、けーくん好きだから」
「チョコレート?」
「うん!」
ボクもサキちゃんもまだ幼く、恋愛というものがよく分かっていなかったように思う。
きっとサキちゃんも男として、というより家族的な意味で好きだと言ったのだろう。
だけどボクはこの時、彼女の笑顔を見て鼓動が早くなるのを感じていた。
これが、ボクの初めてのバレンタインデーだった。
小学生に上がり、ボクとサキちゃんの間に少し距離ができていた。
別に喧嘩した訳じゃない。
クラスメイトたちはみんな、男子と女子で分かれて遊んでいたから、ボクだけサキちゃんと遊んでからかわれるのが嫌だった。
どちらかというと、ボクがサキちゃんを避けていたのだが、彼女は特に何も言ってこなかった。
サキちゃんもまた、女子に混じって遊んでいた。
それでも、バレンタインデーの日になると毎年、サキちゃんはボクにチョコレートをくれる。
やっぱりあの二十円位で売ってる、正方形のチョコレートだ。
そのたびに、ボクは彼女にとって特別なんだと意識するようになった。
サキちゃんがボク以外の男子にチョコを渡すところは見たことなかったから。
けどそれも、高学年に上がる頃には幼馴染故の義務感みたいなものだろうと思い始めた。
だって、毎年ボクにくれるのは二十円ぽっちの安物のチョコレート。まさか本命チョコだなんて思いやしない。
幼稚園時代であれば微笑ましい年相応のプレゼントだけど、学年があがるにつれて手作りチョコが欲しいな、なんて考えたりする。
中学生になった時には、ボクとサキちゃんの心の距離はかなり離れていた。
中学生になって、ボクは陸上部に入った。
本当は陸上競技に興味はなかった。だけど、サキちゃんも陸上部に入ったので追いかけるように入部届を出した。
すぐ隣に住んでいるのにも関わらず、長い間まともに話をしていない気がしたから。何か、話すきっかけが欲しかった。
ちょうどこの時期、ボクはサキちゃんへの恋心を自覚し始めたところだった。
また、幼稚園生の時のように気の置けない間柄に戻りたかったのだ。
幸か不幸か、陸上部の活動は男女別に分かれていて、サキちゃんと話す機会には恵まれなかった。でも、その方がよかったのかもしれない。
急に彼女と話せと言われたら、きっとうろたえて変なことを口走っていただろうから。
中学生になってもサキちゃんは、バレンタインデーにチョコレートをくれる。
やっぱり手作りではなく、あの二十円程度のチョコレート。
ボクはそれが「あなたとはお友達ですよ」と言われているようで、すごく惨めな気持ちになった。
だから、中学二年生の時にこう言ってやった。
「来年はもうこれ、持ってこなくていいよ」
我ながら、突き放したような言い方だったように思う。
サキちゃんが少し悲しそうに家に帰るのを見て、ボクは激しく後悔した。
素直になれない思春期の男子に謝りに行く勇気なんてあるはずもなく、自室の布団にくるまって長時間悶々とし続けた。
サキちゃんは次の年のバレンタインもボクにチョコレートくれた。例のごとく、あの二十円で売ってるやつだ。
ボクがあれから毎日のように悩み続けたというのに、彼女といったらやけにけろっとしたもんだった。
さすがに少し腹が立ったけど、前年に失敗した手前余計なことは口外しない。
「ありがとう」
ボクは素直に感謝を述べた。
「来年も渡していい?」
「もちろん。こっちがお願いしたいくらいだよ」
きっと高校生になっても、サキちゃんはボクに同じものをくれるのだろう。
だけど、何故かすがすがしい気分で、以前のような惨めさはなかった。
このことがきっかけで、ボクたちはまた気軽に話をできる仲に戻ることができた。
ボクとサキちゃんは同じ高校に進学し、また同じ陸上部に入った。
今度は部内で男女に交流があり、中学の時に仲直りができてよかったと安堵していた。
けれど、そのおかげかサキちゃんはよく軽口を叩くようになり少しうっとうしい。
顔を合わせればやれ「今日も冴えてないなー」だの、「モテなくてかわいそー」だの、やたらボクを小馬鹿にしてくるのだ。
バレンタインデーの日にだって、
「どうせ冴えないけー君のことだ。今年もチョコ一個も貰ってないんでしょ? そんな憐れな君にこれを差し上げて進ぜよう」
なんて、上から目線でいつものあの安物のチョコレートを手渡してくれた。
憐れむなら彼女にでもなってくれればいいのに、まったく。
そんな高校時代もあっという間に過ぎていき、三年生の冬。
この年のバレンタインはいつもと毛色が違った。
それは一月、豪雪が降り注いだ次の日のことだ。
ボクはその日、第一志望の某有名大学の入試を受ける日だった。
ボクが出かけるのを見計らったように、隣の家のドアが開いた。……サキちゃんだった。
「おはよう。こんな朝早くどうしたの? サキちゃん、今日入試じゃないよね?」
「手、出して」
サキちゃんは質問に答えなかった。
ボクは首をかしげながら、言われた通りに手を伸ばした。
「頭脳労働には糖分がいいんだって」
ボクの手のひらにチョコレートが置かれた。
いつも、サキちゃんがバレンタインデーにくれるやつ。
「本当は今日渡そうか迷ったんだけど、今年は私受験日なんだよね。だから、前払い」
何の、とは聞かない。
だって、お互いわかってるから。
なんだか通じ合ってる気がして、嬉しい。
「ありがとう。試験頑張るよ」
試験を控えた不安と緊張が飛んで行った。
サキちゃんが見守ってくれているみたいで、胸の奥底から自信が沸きあがってくる。
ボクは見事第一志望に合格することができた。
大学生になってからは、ボクとサキちゃんは疎遠になっていた。
学校が違うので、顔を合わせる機会がなかった。
たまにはまた二人で遊んだりしたかったが、彼氏でもないのにそんなことを言うのはためらわれた。
でも、だからといって告白する気にはなれない。結果は分かりきっているのだから。
脳裏に浮かぶのは毎年貰う、どう見ても義理のチョコレート。
きっとボクは振られるんだろう。
このことを、同じ講義で知り合った友達に相談した。すると、
「そういうのは早めに玉砕して恋破れた方がいい。いつまでも初恋を引きずっているとな、気持ちだけは大きくなっていって伝える機会は永遠になくなってしまうんだ。きっとそんなやつは新しい恋もできず、一生独身のまま死んでいくんだろうなぁ」
という、アドバイスを貰った。
やけに実感のこもった、重みのある言葉だった。実体験だろうか。
ともあれ、ボクはこの話を聞いて事の重大さに気がついた。
いつまでもサキちゃんと一緒という訳にはいかないんだ。
サキちゃんも大学を卒業したら一人暮らしを始めるかもしれない。いや、その前に結婚する可能性だってある。
もちろん、ボクだっていずれは今住んでいる家を出ていくのだろう。
――――嫌だ。
強くそう思った。
ボクは、サキちゃんに思いの丈を伝えようと決心した。
伝えるのは、そう、バレンタインデーにしよう。
この日はサキちゃんと絶対に会うのだから。
彼女もこの日なら断りやすいだろう。
いつものあれを渡せばいいだけなんだから。
そう決めてからというもの、バレンタインデーは牛歩のように近づいていった。
まるで、死刑宣告を待つ囚人のような気分だった。
そして、当日。
春休みの真っただ中だったので、ボクは家でゆったりとしていた。
ボクはサキちゃんが我が家を訪ねるのを知っていたから。
午後一時頃、インターホンのチャイムが鳴る。――サキちゃんだ。
受話器越しに「ちょっと待ってて」と伝えて、鏡とにらめっこしながら身だしなみを整える。
幼馴染なんだからだらしないところは散々見られているし、どうせ振られるんだからこんなことしても無駄だろう。
そんなネガティブな思考が生まれるたび、ボクはかぶりを振る。
だって、直接振られた訳じゃないし、少しくらい夢見たっていいじゃないか。
ボクは身だしなみのチェックを終えて、ドアを開ける。
そして、サキちゃんが何か言うより先に口を開いた。
「好きです! 付き合ってください」
チョコを渡されてからじゃ遅いと思った。義理チョコを渡されてからこんなことを言えるほどボクは図太くない。
気がつけば、無我夢中で叫んでいた。
サキちゃんはボクの告白に一瞬目を見開いたと思えば、すぐに瞼を閉じてフリーズした。
……どうしよう、失敗したかな。
しばらくして、彼女はいつものようにこう言うのだ。
「手を出して」
ボクもまたいつものように手を差し出すと、乗せられたのはあの二十円ほどのチョコレート。コンビニのレジの横でよく売ってる例のあれだ。
やっぱこれ、義理チョコだよなあ。
「ボクじゃ、ダメかな?」
はっきりした答えが欲しくて、恐る恐る聞いた。
「ねえ、けー君。十五年前のこの日、私が言ったこと覚えてる」
唐突に、サキちゃんはボクに問いかける。
そういえば、この二人の恒例行事が始まったのもその位前だったかもしれない。
「えっと、なんだっけ?」
「今日はね、バレンタインデーなんだって」
「うん、知ってる」
毎年サキちゃんがチョコレートをくれるから、ボクはこの日を忘れたことがない。
でも、ボクの答えは不正解なようで、サキちゃんが頬を膨らます。
「そうじゃないでしょ。やり直し」
おそらく、サキちゃんがしたように、ボクも十五年前と同じ事を言わなきゃいけないんだろう。
たしか、ボクはサキちゃんに教えられるまでバレンタインデーを知らなかった。
だから。
「バレンタインデー?」
「好きな人にチョコレートをあげる日なんだって。私、けー君好きだから。これからもきっと、ずっと好き」
最後だけ、少し違った。
ボクはサキちゃんが何を言ってるのかよく分からなかった。
そして数秒経って、やっと彼女の意図が理解出来た。
「それって、オッケーってこと?」
「⋯⋯うん」
サキちゃんは恥ずかしさからか、俯きがちに頷いた。
ボクはといえば、オッケーを貰えたことが信じられず、今にも狂喜乱舞して走り回りたい気持ちだった。
だって、毎年義理チョコだと思っていたから。脈無しだと思っていたから。
後から聞いた話によると、本当はボクにちゃんとしたチョコレートを渡したかったらしい。
だけど急に張り切りだしたら、まるで告白してるみたいで恥ずかしかったのだと。
だからいつものチョコは照れ隠しで精一杯のチョコレート。
なんと、ボクが今まで義理チョコだと思っていたのは、全部本命チョコだったのだ。青天の霹靂である。
そんな事を語ったサキちゃんのいじらしい様子が可愛くて、思わず笑ってしまった。
一応サキちゃんにも釈明があるようで、ボク以外にチョコレートを渡したことはないので気がつくと思ってたのだと。
「バレンタインデーは好きな人にチョコレートを渡す日だからね。義理チョコなんて悪しき風習だよ」
とは、彼女の弁。
全国の義理チョコしか貰えない男子たちに謝るべきだと思う。
それと、まさかけー君がこんなに鈍感なのは計算外だったとかなんとか。余計なお世話だ。
いずれにせよ、晴れてサキちゃんとの交際が始まったことでボクは天にも登る気持ちだった。
たぶん、来年もサキちゃんはボクにいつものチョコレートをくれるんだろう。
たった二十円ぽっちの安物のチョコレート。
でも、大丈夫。
ボクにとっては特別な本命チョコレートだから。
季節感を無視していくスタイル。