第90話 爆弾魔は妖術師と親睦を深める
眼前に予期せぬ人間が立っている。
苦笑いする俺が取った行動は、やんわりと注意することだった。
「ここは男湯だが、見間違えたのかい?」
「あら、よそよそしくされては悲しいですわ」
「俺とあんたは、裸の付き合いをするほどの仲じゃないだろう」
「エウレアの未来に携わる者同士、親交を深めるのも良いものですよ。それとわたくしのことは、ネレアとお呼びくださいませ」
優雅に微笑みながら、妖術師ネレアは近寄ってくる。
そして、脚から湯に浸かって俺の隣に座った。
ネレアの頬はほんのりと紅く染まっている。
首筋から鎖骨までが艶めかしいラインを描いていた。
ふとした拍子に洩れる吐息にも色気がある。
どれも計算されたものだろう。
些細な動作に至るまでが完璧すぎるのだ。
惑わされてはいけない。
ネレアはこちらを向いて首を傾げる。
「わたくしの顔に何か付いておりますか?」
「いや。こんな場所で再会するとは思わなかったからな。少し驚いていたのさ」
これは本音である。
確かに旅行計画では、彼女と会う予定があった。
しかし、それは何日も後の話だ。
彼女の拠点の都市に俺達から来訪するはずだった。
それだというのに、まさかこんなタイミングで再会するとは。
俺は暗殺王から受けた仕事を思い出す。
この女には、悪事を企んでいるという疑惑がある。
真偽の調査と、場合によっては暗殺を命じられていた。
その対象が目の前にいる。
偶然ここにいたと考えられるほど、俺は楽観的にはなれない。
彼女の支配領域に入ってまだ数時間だ。
待ち伏せされていた可能性が高い。
勘付かれていたのだろうか。
ありえない話ではない。
妖術師もエウレア代表の一人だ。
多少の差こそあれ、他の代表と同格の力を持っているということである。
特に彼女は代表を務める期間も最長らしい。
それだけ一筋縄ではいかない人物ということだった。
(暗殺王の奴、厄介な仕事を押し付けやがったな……)
俺はため息を吐きながら胸中で愚痴る。
契約の都合上、断れない仕事だった。
決闘の際に取り決めていたからだ。
つまり元を辿れば、俺の軽率な行動が原因なのだ。
あまり強く文句を言えないのが辛いところである。
俺が密かに唸る一方、ネレアは口元に手を当てて笑っていた。
「うふふ、そんなに緊張しないでくださいまし。この地は、わたくしの支配領域ですのよ。湯に浸かっていたとしても、何ら不思議ではないでしょう?」
「……男湯でなければな」
相槌を打ちながら、俺は思考を巡らせる。
ここから一体どうしたものか。
今の俺は武器を持っていない。
すべてロッカーに預けてきたからだ。
手に持っているのは鍵とタオルだけで、殺し合いの上で頼るには心許ない。
向こうは妖術を扱うと聞く。
魔術の親戚だという話は聞いているので、厄介なことは確定していた。
何をされるか分かったものではない。
ひとまず様子見が一番だろう。
ネレアが何の目的で接触してきたのかを判断しなければ。
こちらの仕事がバレていない可能性もまだ十分にある。
自然を装って怪しまれないのが先決だ。
「それにしても、再びジャック様とお会いできて嬉しいですわ。一度、ゆっくりとお話ししてみたかったんですもの。集会の際はそれどころではありませんでしたから」
「あの時は迷惑をかけたな。今後は気を付ける」
俺が謝ると、ネレアは穏やかに首を振る。
「いえいえ。お二人の事情は聞いておりますので。過去の因縁はそう簡単に拭えるものではありません」
「そいつは同感だな。何度も失敗してきたよ」
どこの世界にも諍いや仲違いは存在する。
それらを穏便に解決できるのは、本当に幸運なことだと思う。
俺のような人間が生きる世界だと、大抵はどちらかの死で決着される。
握手一つで関係が元通りになることなど滅多になかった。
「そんな中、仲直りの旅行先にわたくしの支配領域を選んでいただき、光栄に思うばかりですわ」
「賢者におすすめされてね。あんたの統治する街は、どこも観光に適していると聞いた」
「ええ、観光には特に力を入れております。訪れた方々が楽しんでくださらなければ、発展も望めませんので。戦よりも娯楽。それがわたくしの信条ですわ」
ネレアは自信に満ちた顔で述べる。
元代表のドルグとは、とても相容れないスタンスだろう。
あいつは血と暴力を至上としていた。
各都市にはこれといった娯楽も無く、犯罪組織が跋扈するような始末である。
俺が来訪する前は、代表同士でさぞ衝突していたものと思われる。
その後、俺とネレアは二人きりの温泉で世間話に興じた。
基本的には聞き手に回り、ネレアの話を相槌を挟む。
彼女の語る内容には、俺に対する興味や好奇心が垣間見えた。
それとなく質問される時があったので、答えを濁して誤魔化しておく。
何気ない内容から口を滑らせては堪ったものではない。
話には付き合いつつも、下手に喋られないのがベターだろう。
そうして話題が途切れたタイミングで、不意にネレアが手を掴んできた。
彼女は上目遣いになると、静かな口調で俺に告げる。
「よろしければ、わたくしの部屋で話の続きをしませんか? あまり長くなるとのぼせてしまいますわ」
熱っぽい視線だ。
控えめながらも有無を言わせない口調である。
もちろん、ここで誘いに乗るのは不味い。
俺の直感が囁いている。
典型的なハニートラップであり、迂闊に引っかかると痛い目に遭うだろう。
ただ、探りを入れるチャンスでもあった。
せっかくターゲットのネレアと話をできるのだ。
彼女が悪事を企んでいないかを調べてもいい。
場合によっては、暗殺に有利な弱点なども見つかるかもしれない。
基本的にはミハナ殺害が最優先だが、与えられた仕事を無意味に手抜きすることもない。
その辺りは傭兵としてのプライドがある。
俺はネレアの潤んだ瞳を見つめ返しながら尋ねる。
「それなら俺達の部屋へ来ないか? 皆で話す方がきっと盛り上がる」
「――素晴らしいですわ。他の方々ともお話したいです!」
ネレアは笑顔で頷く。
しかし、一瞬ながらも間があった。
俺だけを誘い込むのが目的だったらしい。
まあ、わざわざ男湯に入ってきたのだから分かることだ。
やはり油断できない。
それから俺達は一緒に温泉を出た。
着替えてから部屋へ向かう。
部屋の扉を開けると、そこにはアリスとミハナがいた。
湯上りで寛いでいた二人は、ネレアを目にして動きを止める。
「え……あれっ!?」
ミハナは目を見開いて露骨に動揺する。
そういえば、彼女は突発的な事態に弱いのだった。
暗殺王から課せられた本来の仕事を連想しているのだろうが、あまり慌てると不審がられるのでやめてほしい。
「ジャックさん、どういうことかしら」
対照的にアリスは冷静だった。
彼女の追及の目を受けて、俺は淡々と事情説明を行う。
「――というわけで、親睦を深める会をすることになった。今日は皆で仲良く楽しもう」
「突然の来訪となり申し訳ありません。この場においてはエウレア代表ではなく、ただの友人――ネレアとして接していただけますと嬉しいですわ。ご迷惑かもしれませんが、よろしくお願い致します」
そう言ってネレアは二人を見ると、慇懃な調子で一礼した。




