逃げ出したい病
『田中さん、あなたは逃げ出したい病ですね。』
医者はくるりと椅子ごと振り返り、真顔で言い放った。
『え?』
随分と聞きなれない病名である。田中幸助は近頃体調が優れないがはっきりとした原因もわからず、神経内科を訪れていた。
『物事から逃げ出したいからだるけがとれないんですよ。治したいなら全てから逃げ出しなさい。』
医者は気だるげにカルテから視線を動かさず言った。聞いたことのない病名だが医者が言うのなら間違いなくないのだろう。
『わかりました。ありがとうございました。』
田中は一礼し、病室を後にした。
『お大事に。』
病院を出た田中は逃げ出したいと思うことを列挙してみた。両親の介護、社会に出る不安、恋人との関係、漠然としたその他不安。医者から言われたなら間違いない。全てから逃げ出そう。
財布と本の入ったリュックサックだけを持ち、どこか遠くへ行こうと最寄り駅から電車に乗り込んだ。遠くへ行くには当然乗り換えが必要だ。出町柳駅を降りて、京阪電鉄に乗り換えようとすると、改札の前で友人に出会った。
『よう幸助。どこへでかけるんだ。』
『遠くへ行こうと思っているんだ。全てから逃げ出そうと思って。』
『なるほど。それで電車か。』
なぜか友人は少し笑って頷いた。
『うんと遠くへいくといい。電車は続くよ、どーこまーでーも。』
調子外れに歌い出した友人に別れを告げ、淀屋橋行きの特急に乗り込む。電車は私が乗り込んでからすぐ出発し、しばらくすると、車掌による車内アナウンスが流れ出した。
『電車はレールに沿って運行しております。同じように人生の運命からは逃れられません。ご注意ください。』
はっとして、よくよくアナウンスを聞くと友人の声であることに気付いた。
『わかるもんか。駅から降りれば歩いてどこだってどこへだっていける。』
田中は大声で叫んだ。周りからの視線が一斉に田中に集まるが、丁度タイミングよく電車のドアが開いた。どこの駅かもわからなかったが荷物をつかんで走り出た。このまま駅から遠くへ行こう。
しかし、降りるとそこは見慣れたホームだった。
『ここは…出町柳駅…?』
呆気にとられて、立ち尽くしていると肩を叩かれた。振り返ると友人がにこやかに立っている。
『おかえり幸助。ここは始点であり、終点なんだよ。どこから乗ってもここへ行き着く。』
電撃に撃ち抜かれたような衝撃が全身に、指から髪の毛の先まで走った。刹那、体から沸き起こるこの焦燥感、絶望感。やっとわかった。
『ここが俺にとっての始点であり、終点なんだ…。』
少し地べたに座り込んだが、田中は立ち上がり、そして微笑み、友人と手をとり、白線のギリギリのラインに立った。友人も微笑んでいる。電車の到着を知らせるメロディが鳴り響く。
『ありがとう。人生列車幸福行き。』
次の瞬間、けたたましいキキキキギギイイイイというブレーキ音と何かのぶつかる鈍い列車の声。
ホームにまた静寂が戻る。
『うわっ!』
まだ誰も起きていないような早朝に田中は目覚めた。
『なんだ夢か…。』
とても変な夢だった。はっきりとは覚えていないが全てが支離滅裂だった気がする。
もう一度寝よう、そうして目を閉じた数秒後、耳元で誰かが囁く。
『夢じゃないよ、幸助。』