第一章 壁の守り
勾配のはげしい山道だった。
正直、事前に目的地とか移動手段とか付き添いの有無(これ、重要)をきいてたら、引き受けたくなかったお仕事である。いや、まあ、引き受けなかったら、あとであの小悪魔に、ひどいドメステックうけるから、しぶしぶ引き受けている自分のイメージがつくあたり、自分は社畜だな~と思うのである。
「――――、くん」
今期のアニメの録画予約、どの順で視聴しようかな。製作会社の名前順とか?。あるいは、日付順。いや、事前調査した好みのヒロイン順に視聴しようかな。今期は日常系がおおくて助かるぜ。こういう欝な労働の後の癒しとかパネェーのですよ、オレ的に。
嫌いなやつが話しかけてくるんで、駄目だコイツとは会話にならないから諦めてもらう、ムシムシ作戦実行である。と思いきや、
「そうそう。君は大前奏君とはつきあっているのですか?。どこまでいったんですか?。ああ、今日の仕事の事は大前君には報せ済みなので安心してくださいね」
「……やめだ、ムシムシ作戦。お前、いま最後の方に不愉快なことつけやがって。前の依頼の時も、チクリやがった時、あいつの反応、オニ怖かったやろ?」
「そうですね。鬼気迫る雰囲気といいますか、憤然とされていましたね(笑)」
「あ、てめぇー。いまクスリと笑いやがった。なんでそこで微笑むかな。……人の不幸は蜜の味っていう性根のまがった紳士だったな、佐藤さん」
「ええ、年長者として進言です。いい大人は、自分の人生の不幸より、他人の人生の不幸を眺めている時の方が、人生を感じられるんです。ところで大前君とはどうなのですか?。あんな魅力的な女子高生は、あまりいないですよ?」
「……このOYAJI。答えは、No。いいか、俺の人生は三次元より二次元に重きをおいてるの、お前とのやり取りは疲れるから、もういい加減ここいらでEndにしてくれよ」
俺が視線を窓の向こうにむけたことによって、Sな佐藤は会話をきった。
適度に冗談と談話、そして引きどころを見切れるこいつの姿勢にこそ、学ぶべきところがあるのだろうと思わなくはない。
風光明媚な窓外の眺めながら、今日の依頼を思い出していた。
『娘の部屋に入れないです』金持ちの両親が、内閣特務機関霊宮の佐藤の野郎に依頼を持ちかけたのが事の発端だった。ただのニートよろしく、自宅警備が自宅崩壊の原因であるという、巷の矛盾話なら佐藤も無視していたが、今回のは佐藤の仕事の範疇だった。
いわく、扉の向こうが壁だったらしい。ドアノブをくるりとまわして入室しようとしても、部屋のなかにはいれず。部屋があるべき扉の向こうは、壁になっているのである。そして、娘さんの声は壁の中から聞こえてくるらしい。壁を壊して娘を救出しようとしたが、その壁はあらゆる物理攻撃を受け付けなかった。銃、爆薬、レーザー、鈍器、火炎。それらすべてを受け付けない。
おかしな現象はこれだけではない。周期的に娘から、食事のSOSはあるらしく。壁のまえに食事をおくと、壁の中から娘の手が出現して食事を摂る。壁の向こうの娘曰く、部屋の中もあらゆる物理攻撃がきかないが、猫ドアからは手が出せるから、そこから手を出して、外の世界から食事を摂取している。
この現実が、一月もつづいて、ようやく家の主は佐藤に相談を投げかけたらしい。事件が発覚したのが、二月のあたまで、今が四月のあたまだからこの間、娘と壁を隔てて会話をしていた母親の方は入院してしまった。まぁ、ビジュアル的に、壁から手が生えるとかの異常は、正常な人間の心を壊してしまったのだ。
こういう異常を日本から潰す事が、佐藤の仕事であり、俺にとってはアルバイトである。危険であるが、仕事としては破格の給金であり、一年は遊んで暮らせそうな仕事らしいが、しがないアルバイトは、その半分しかもらえないのである。しかも、実際に仕事するのがオレで、仕事を渡すのが佐藤の仕事だから、考えてみれば危険なのは俺だけである。なんだろうな、下請け的な立ち位置である。
事件の事をあらまし復習していると、目的に到着した。自然に調和させるために建てられた洋館風なお屋敷の、四階の一番右端を睨みながら、佐藤に問いかける。
「ところで、今回の件はなんでそんなに期間がたったの?」
「いいかい、四条一くん。この世で一番大切にしないといけないのは自分の命であり、次に大切にするのはお金です。その次はなんでしょうか?」
こいつのこういう問い掛けに対して、あまり正解したことが無い。
「やっぱり家族じゃないか?。今回の話しを聞いてたら、壁の破壊のために銃器用意したらしいし。家族に今回みたいな魔的な異常が振りかかったら、家の主というか父親としては必死になるだろ」
「いいえ違います。おしい所ですね。ちなみに、銃器は家の主が率先して試して、家の人間にも今回の事は秘匿にしたらしいです。娘さん、今年は受験でしたから不運でしたね」
「はぁ、受験。したことないから解かんないけど、奏が必死に勉強している姿みてたわ。けっこう追い込まれるらしいな」
「ええ、実は私の母校です。ここが難関の大学の登竜門といわれているところです。ですので、かなり努力されていたとおもうのですが、OBとしては残念です」
「へー。エリート校なんだ。なに、その高校には心のテストはなかったの?」
「はは、テストは頭を競う問題ばかりだったですし、心のテスト(笑)なんてものは、どの学校のテストには無かったと思います。……心が病んでる人間は入試不可の門前払いですか―――面白いですね。ところで啓君、さっきのわたしの質問に対する回答は?」
「わかんね。権力は金に付随するものだし、土地も金に付随するしな」
俺が観念したのがS心を満足させたのか、演者のような深い声でこういった
「命と金の次の大切なのは、世間体ですよ。世間体。君風にいうなら、家族は世間体に付随するんですよ」
……なかなか、良いことをいう奴だと、おもわず、感心した。
「ところでさ、お前の高校受験ってどんなのだったんだ?」
「おや、珍しいですね。私の過去に興味がありますか?。まぁ、別段おもしろくありませんよ、高校の受験話なんか」
向こうに見える玄関までのつく間の暇つぶしに、というかさっきの気持を紛らわすために、コイツの受験の話をきいていた。
大きく立派なお屋敷だった。建物は四階建てで、一階は応接間と談話室、二階三階は客室兼使用人部屋、四階は親族等がねむる部屋。庭には向日葵とコスモス、パンジーなんかの味わいのある花々が生きていた。花も生きて、森も生きて、動物も生きて、人間ですら生きている。しかし、この建物の最上階だけは、死に行くように生きている。
避暑地に建てられたこの屋敷は、人を拒んでいるようだった。部外者の侵入を、もっというと俺のような同族に、出ていけと訴えかけているようだった。
圧迫される感覚は、錯覚ではなく事実だ。
「……今回は、黒だな」
佐藤のヤツは家の主と―――親父さんと一階の応接間に待たせた。ここから先は、素人が足を踏み入れると、しゃぶって食われる魔の領域。話にきいた親父さんの暴力は、この場所の意思にとっては、吹く風・蟻んこ程度の認識だろうな。
ただいま、一四時三十分。
窓から入る日の光りは、階を上がるにつれて、うすくうすく、ふわっとした、霞むような光になり、四階に到達した時には、夜かと思うほどにシンっとしていた。
……今回の件、気になるところは受動的なのか能動的なのか、俺にとってはこの二点にしか興味はない。前者であったらと思う事はあるが、たいていの場合は後者だったりする。制御を誤った場合がおおいのだ。
件の四階、右端の部屋に到着。ドアノブをくるりと回してひくが、そこには無機質な壁がたっていた。あるべき扉の向こうが壁によって塞がれていた。壁に触れる。白い壁、屋敷に不釣り合いな白い壁。傷一つ、汚れ一つもない壁だ。
左手を壁にあてる。なんの反応も示さない。耳を壁に当てる。かすかにだけど、衣擦れする音が壁の向こうから聞こえてきた。
「……たしかに、これは卒倒もんだ。おーい、壁の向こうの碧ちゃん、声聴こえたら、返事をくれ。俺は怪しいものではありません!」
数秒おいて、返事があった。
「―――あなた、だれ」
幸薄そうな声の調子。まるで教室のすみにいる女の子の、小さな独り言のようだった。それもそのはず。彼女はこの二ヶ月間、部屋の外から出ていないのだから。身体の方も、そして心の方もガタがきているはずだ。
「安心しろ、心配するな、今からこの壁からお前をだしてやるから」
「……、むりよ」
確信に満ちた調子だった
「ほう、なんで?」
「お母さん、泣きながらドアをたたいたけど開かなかった。お父さん、憤りながらドアを潰したけど開かなかった。他のどんな人でも無理。お兄様も無理だった。どんな力も、どんな人も、どんな声すら、この壁を乗り越えられないのよ、きっと。それだけこの壁は頑強で最強なのよ!」
……起伏の激しいやつである。久し振りに人とはなせてハイになっているよ、この子!。
「ところで、お兄さん。
壁ってひびき素敵だとおもいませんか?。壁、まるで何かからわたしを護ってもくれるような響きです。むかしの人はよく吟味して言葉を選んだにちがいないです」
「唐突だな。なんだ、盾は駄目なのか?。守ってくれると言えば、俺には盾のほうがイメージつきやすいけど」
「……お兄様みたいな事を言うんですね、お兄さん。
男の人の考えですね。いいですか?盾は自分で担がないといけない、自分が彼をもち彼も貴方を護る。わたし、そういう一心同体な考えは好きではありません。
壁。壁はわたしを一方的に護ってくれる、わたしは彼に依存できる。そびえる事で私をあらゆる悪害から護ってくれるそうな響きがあります。
だから、わたしは壁が好きです。どの漢字や言葉の響きよりも壁が好き」
この女、完全に疲れているな、うん。言葉にロマンスなんか求めるなよ。
女の気持に呼応するかのように、壁がみるみるうちに強化されていく。いや、進化している。厚みを帯びてきた。壁の厚み。イメージは、平らな地面の土が地下からの力によって盛り上がり。すげーぞ、この部屋のドア枠が、ミシミシと音を立ててないている。
この壁のカラクリは、何となくだけどわかった。
「……お兄さん、変わった人」
一秒、吟味したうえで、興味深そうに彼女がいった。目の前の珍現象に、目と耳を奪われてあやうく取りこぼしてしまいそうな囁きだった。
「お兄さんはなんの人?」
「俺?。俺はしがないアルバイト。今回の俺の仕事は、碧ちゃんの救出ってとこかな」
「……っか、いって」
「うん?。わるい、ドアがみしみしいってて、お前の声が音飛びした」
「どっかにいって!」
この瞬間、壁から腕がとびだした。まるで障子の紙に穴をあけるようなたやすさで、強固な壁から少女の腕が生え、俺を押そうとするが、言う前に行動するべきだ。こいつの幼い抵抗は、こうしてたやすく捕まえる事ができたのだから。
肉がついていない手の平。真っ白なきゃしゃな腕。かすかに鼓動するする脈拍。こっちとあっちを繋ぐ女の腕は、ふるえた。
そして、瞬時に壁の中へ引っ込めようとする腕に、抗いもせずに、その腕をつよくつかんだまま、俺は壁の中へと溶け込んでいき、壁の中へ、部屋の中へ侵入した。
「ありがとよ、お前の中にはいれたよ」
「……え、」
部屋の主は、呆然とした顔だった。まるで鳩が豆鉄砲をうけたように。
とりあえず、くるりと後ろのドアをチャック。なるほど、なるほどこんなボンボンのお屋敷の扉には、猫様が通るための猫ドアがこういう感じに付けらているんだ。初めて見た。アニメとかでしか見たことないよ。下に付いてる割に出てきた手は俺の腰ぐらいだったけど、そこんところはまぁいいか。お袋さんは、この小さな穴を通じて、死なないように娘に対して食べ物を提供していたんだね。そして、こんな小さな穴しか娘を救い出すのは無理であり、そして、こんな小さな穴からは人間は抜け出せないと、勝手にイメージしてしまったんだ。
一人で納得して、もう一度向き直る。まだ、碧ちゃんは呆然中。
まぁ、無理もない。絶対的な壁。あらゆる物理攻撃をふさぎ切った壁。こいつの信仰に対して忠実だった壁に対して、こいつは大きな裏切りをした。こいつにとって、外で騒ぐチンピラに文句いうため玄関開けたら、チンピラが中に入ってしまったようなもんだ。
部屋は意外にも、綺麗だった。くさっても良家の娘である、俺の部屋みたいな惨状なんて、予想するのが愚かだ。
目の前で呆けてる部屋の主を放置して、俺は部屋を物色する。物色といっても、別に盗みに入っている訳でも、プライバシーを侵害しようとしている訳じゃない。あの電波モードに入っていた女が、信仰した壁の力の源を探し出している。
さがすこと、約十秒。それは簡単に見つかった。
「お前、これ何なの?」
「……っつ」
永山碧は、目を見開く。机のうえにおいていた、見開かれた本を俺が持っていたからだ。最初のほうは読めたが、後ろの方は解読不可能なほど書き殴られている。
書き殴られて文字を注意深く読むと、どうもこれは誹謗中傷や、彼女の憤りを綴った日記のようなものだった。しかもこれは、成績か?。
「国語86点、英語80点、数学―――70点?」
「み、みないで!。やめて、みないで!」
ヒラヒラとしている薄い本が破けるほどの力をこめて、俺からひきはがそうと襲ってきた。こいつは一度転倒しながらも、扉から俺までの距離を詰めて、本を奪取する。女の怨念こめられた瞳を見て、少しブッルとしてしまった。怖かったよ。
「あああああ、嫌、嫌!。どうして、どうして私を護ってくれないのよ。私を護ってくれるって言ったから、っつ、これからの人生を棒に振ってでもいいからって、お願いしたのにぃ!。なんで、こんな簡単に……いや、やめて。落ちそうになったからって、成績が落ちたからって、そんな目で見ないで」
さっきまでの重たい空気感が一気に消失した。部屋の中に充満していた呪いの力も徐々に薄れていって、今ならこの部屋に設置されたドアのドアノブをクルリと握って、押せば一・二分前にいた廊下が迎えてくれそうだ。やった!今回の仕事はこれにて解決。いやはや、今回は命の危険なく終えれそう。
確認するため、てくてくと扉の前まで歩いて、ドアノブをクルリと回して、外の世界へ―――は、行けなかった。いや行けるんだけど、行ける気しかしないんだけど、この女が、俺の右手の掌に、コンパスの針を、容赦なく、刺してきやがった。
「って!」
掌の惨状を見て、即座にドアから離れる。離れながら、掌に刺さったコンパスを抜く。深い痕。あいつが容赦なく刺したせいで、けっこう深くまで針は刺さっていた。
「どうして、アッチに行くのよ!。アッチに行ったら、私、また一人になるじゃない。私はこの部屋に居ときたいの。邪魔をするなら、殺すわ」
「まて、まてまて」
とりあえず、永山碧と自分との間に、さっきの右手の掌をかざしてみる。お前はこんな事を、人様に、初対面様にしやがったのだという無言の主張をこめて。
「冗談抜きでおかしい。お前、ここから出たくないのかよ。さっきの本にも、テストが悔しいとか、試験がどうたらって書いていただろ?それに1人は嫌なんだろ?」
ちらりとしか見てなかったが、あの本に共通する事は、入試試験の事だった。
去年の12月から日記帳のように入試までの事がつづられていた。しかし、入試に近づくにつれて、徐々に字は乱雑に、上品さの欠片もない字体に変わっていた。
「お前、こんな部屋の中にいるとまた、入試を受けられなくなるぞ」
「受けたくないから、こうなったのよ!」
感情を昂らせて、
「わたしは、神様に願ったのよ。こんなつらい試験は受けたくない。こんなに疲れる試験は受けたくない。庭で花をすうミツバチのように生きたい。もっと人間らしく動物らしく生きていたいから、神様に願ったのよ。私につらい人から、つらい試練から私を救ってくださいと。
なんで、どして?。4年は守ってくれるって。私が成人になるまでは、きっとこの壁が護ってくれるっていったのにぃ!。約束が違う!。意味が解らない!。
私は、おかしい。異常なの!。命の危機にあるの!。普通じゃないの!。ありえないほどの異常事態におちいったの!。助けて、だれか助けて。あんな辛い生活はいやだ!。いや、誰か解かってよ」
こういう風に、人間が潰れていくのをこの仕事で何度見ただろうか……。
こいつの心を察するに、逃避だろう。
勉強が辛い。止められない時間。心の動揺を表すような無様な自分の成績と、他人の成績とを比較。迫りくる試験日までの恐怖感。そして、それらを抱えこみながらの親とのコミュニケーション。無理解にせまる親の説教。
それから全て解消するために彼女が願った事は、試験に合格するズルよりも試験に受けないズルの事だった。その発想は良家たるものだろうか。どちらでもいいか。
つまり、逃避。過年度生になる事を望んだ。いや、二十歳まで―――高校受験がない年齢まで―――ジッとこの部屋の中で過ごす事を望んだ。
高校受験の資格は中学校過程をおえた者なら、全年齢対象だから意味がないが。実際問題、二十歳になった大人が高校受験はしないのだろうし。学校側も認めないだろう。
だから、この子もその年齢になったら、この地獄から解放されると思ったに違いない。
ちょっぴり、憐れに思わなくないが、ゴメンゴメン。これも俺の仕事なのである。
ぴぽぱ、ツゥーツゥー、がちゃ!
「……もしもし、打ち合わせ通り、カモーン佐藤上司」
え?っと、裏切られた女の子らしい声を目の前の人間がもらした。気持ちの整理が、というよりあんまりな目の前の男の裏切りに動転しているうちに、部屋の扉は大きな悲鳴を上げて、複数の男たちの侵入を許した。唐突におわってしまった。ごめんね、物語のようにキミを待つことは出来ないし、俺も主人公よろしく説教なんて出来ないんだ。
男たちはこの家の給仕さん。彼等は、失礼しますと断って少女を二人がかりで、無理矢理にこの部屋から出してしまった。はじめこそ泣きながら抵抗していた彼女は、部屋から出た時には諦めてしまった。最後に、ずっとその一部始終を眺めていた俺に対して、「恨みますから」っと、呟いた。
少女と入れ替わるように現れた佐藤の奴は、
「ご苦労。事後処理とか検証はこっちでするので、君は車で休んでください。なーに、三十分もすればこのヤマともオサラバです。給金は、伊吹さんから受け取って下さいね」
労い・冗談・恐ろしい、事を言うのである。ははーん、この野郎。あいつからお金を貰うとなると、苦労すると分かっていて仕組みやがって。
さっきの部屋から廊下へ、四階から下へ、一階へと玄関へと。トボトボと歩いて、乗って来た車にせもたれた。気付けば、さっきドクドク流れていた右手の血が、もう固まっていた。
美しくみえる青い空を眺めていたら、この仕事もこれで二ケタ突破だと、思い出した。そして、いつも良い気持で完了できた記憶がなかったことも、思い出したのだった、まる。
*
貨物船の荷台のような扱いを、幼少期に受けた。
自由を想わせる広大な大海原で運航していたクルーズ客船が、突如テロに見舞われた。聞いた事ない言葉と、獣のように集団のとれた動きで彼等は船を占拠した。この船自体は、世界一周を目的とした航海であったのにも関わらず、ログブックは十日で終わってしまった。
当直にあたった船員が、遠距離からの狙撃によって、最初の犠牲になった。そこから築かれる事も無く侵入を許して、一階、二階、三階、最終階と占拠された。まず、男の大人と老人を二階の大広間に集め、女と子供を一階の広間に集めて占拠していた。上から何度かの銃声が起こると、一階の女と子供が上へ連れて行かれていた。上で銃声がまたなって、また一階の誰かが犠牲になる。占拠されながらきいた耳をうつような銃声や、他人の悲鳴や、両親の緊張した声が、記憶の中に鮮明に残っている。搭乗人数2000名のうち、死亡人数1500名の大参事になった。
この時は確か、十三だった。この日を境に、俺の人生が一変した。それはきっと、生存した500人にとっても同様な事だと思う。
それまでなに不自由なく暮らせていた生活の営み、湖面に浮かぶ蓮の花やあめんぼ、その後ろにひろがる我が家の庭で、談笑する両親と自分。母さんは明快で綺麗な人だった。父さんはおしゃべりで楽しい人だった。そんな二人は「人生を楽しみ、よき人になりなさい」と口を酸っぱくして俺に言うのだった。
ふわっと温かな時間であり、じわっとくる幸せな、懐かしい想い出を胸に抱きしめながら、あの事件を生きていた。
ところで、この大参事の中、妙な事が一つだけあった。搭乗した大人の緊張しながらも諦めたような声や顔が、妙に、気がかりだった。