旧 第192話 死神ちゃんとカナヅチさん
死神ちゃんは五階の水辺の区域に降り立つなり、ぎょっとして目を剥いた。そして、慌てて岸辺へと駆け寄った。目の前では、〈担当のパーティー〉と思しき冒険者が今にも命の灯火を消そうとしていたのだ。
死神ちゃんは俯せで水面にぷっかりと浮かんでいる、今にも土左衛門となろうとしている冒険者に慌ててタッチした。これであと数分もしないうちに、任務達成で引き上げられるだろう――そう思いながら、死神ちゃんは笑顔でフウと息をつきながら額の汗を手の甲で拭った。すると、今にも死にそうだったはずの冒険者が盛大にもがき出した。
冒険者は水面を必死に叩きながらバチャバチャと暴れていたが、そこは水深が十センチもないような浅瀬だった。だから、豪快に揺れ動く彼の手は、水面よりもその下の砂地を叩いていると言ったほうが正しかった。彼はそれに気がつくと、慌てて起き上がった。そして今度は胸を一生懸命叩きながら、必死に咳き込んでいた。
死神ちゃんが怪訝な顔でそれを見守っていると、彼はゴボッと音を立てて何かを吐き出した。彼の口の中から華麗に飛び出た金魚は水の中にポチャンと戻ると、優雅に何処かへと泳ぎ去った。
「ふう……。危うく死ぬところだった……」
「いや、そのまま死んでくれてよかったんだが」
ようやくまともに呼吸の出来るようになった冒険者は、安堵の息を漏らしながら肩を落とした。死神ちゃんががっかりしつつも面倒くさそうに横槍を入れると、彼はムッとした表情で口を尖らせた。
「君が助けてくれたと思っていたのに、物騒なことを言うな」
「いや、助けてないし。俺、死神なんで、あんたがこのまま死んでくれてたらとてつもなく都合が良かったんだが」
彼は死神ちゃんの言葉にハッとすると、顔を青ざめさせてカタカタと震えだした。
「では、やはり私は溺れ死んだということか……。ここは冥界だというのだな!?」
「あんた、大丈夫か? 死んでないから、俺は帰れずにここにいるんだろうが」
どうやら、彼は溺れたショックでまだ混乱状態のようだ。しばらくすると、ようやく落ち着いて〈ここはダンジョンの中で、目の前の死神はダンジョンの罠であり、死人を冥府へと誘うために現れるという本物の死神ではない〉ということを理解した。
彼は水の中から出て、乾いた岩場によろよろと腰を落ち着けると、深いため息をつきながら俯いた。
「そうだった。私はダンジョン内を探索している最中だった。だから、目の前に死神がいても、それは死んだからではないし。そもそも、死んでも生き返ることが出来るのだった。うっかり溺れて、取り乱していた……」
「ていうか、何であんな溺れようもない浅瀬で土左衛門になりかけてたんだよ」
死神ちゃんが呆れ眼を細めると、彼は「私はカナヅチなんだ」とうなだれた。何でも、彼はこの水辺地区について幾つかの噂を聞いたのだそうだ。それはどれも〈探索に必要な重要アイテムがあるらしい〉という噂なのだそうだが、滝の裏だったり、この湖を泳ぎ切った先だったりと〈噂されている場所〉がまちまちなのだという。
噂を耳にしたからには確かめたい性分の彼は、自分がカナヅチであるということを物ともせずに水の中に入った。そして、ちょっと顔をつけただけで溺れてしまったのだという。
「あんた、それ、どうなんだよ? 顔つけただけで溺れるって、もはやカナヅチのレベルじゃないだろう。普通、顔を水につけるのって、水泳を習い始めた子供が真っ先にやることだろうが。その時点で溺れるとか、もはや立派な特技なんじゃないか?」
「それ、とてつもなく貶していますよね? ――はあ。どうにか、カナヅチを克服できたらなあ。これも噂なんですが、黄色いアヒルのおもちゃを携帯していると、不思議と溺れないそうなんですよ。私も欲しいなあ、アヒル。もしくは、水に身体を漬けているだけで水泳の技能がメキメキと上がるらしいんです」
「どっちも胡散臭いな……」
死神ちゃんが顔をしかめさせると、彼は苦笑いを浮かべた。一転して〈いいことを思いついた〉というかのような顔で目を見開くと、彼は立ち上がって「戻りましょう」と言った。
死神ちゃんは、彼が探索を諦めて死神祓いのために一階へ向かいだしたのだと思った。しかし、〈姿くらまし〉を駆使して戦闘を回避しながら丁寧に地上を目指していたであろう彼は、二階でその足を止めた。
「何だよ。もう少し行けば教会だろうが。さっさと俺のことを祓えよ」
「いやいや、水泳スキルをアップするための良い方法を思いついたんです。一人で特訓するのは寂しいので、ちょっとだけ付き合ってくださいよ」
あからさまに嫌そうな顔を浮かべた死神ちゃんに、彼はポーチの中から軽食を取り出すと死神ちゃんに差し出した。死神ちゃんは賄賂を受け取ると、苦い顔を浮かべながら「これを食べ終えるまでだからな」と言って、壁にもたれかかるように座り込んだ。
「――で? 良い方法って何だよ。まさか、その目の前にある回復の泉に顔でも突っ込むってか」
「そうです! よく分かりましたね!」
喜々として頬を上気させる冒険者を、死神ちゃんはじっとりと見据えた。不特定多数が利用する泉に顔を突っ込むだなんて、迷惑もいいところだ。苦い顔を浮かべる死神ちゃんを他所に、彼は勢い良く泉に顔を突っ込んだ。
苦しそうにガボガボと音を立てながらのたうつ彼の身体の周囲では、神聖な緑の光が瞬いた。その様子を呆然と見つめていた死神ちゃんの手から、ポロリとドーナツがこぼれ落ちた。少しして、彼は得意げな顔を水面から上げた。
「回復の泉なら、回復効果がかかるから死なない! どうです!? いいアイデアでしょう!?」
「いやいやいや、それ、どうなんだよ!? 息が切れたら結局死ぬんじゃないか? それとも、それすら回復するのか!? 苦しいのに回復していくって、随分とマゾだな!」
彼は死神ちゃんが不服そうなのを気にすることなく、再び特訓を始めた。地獄絵図のような光景の中にキラキラと漂う聖なる光をぼんやりと見つめながら、死神ちゃんはスカートの上に着地して難を逃れたドーナツを拾い上げ、表情もなくもくもくと食べた。
「そもそもさ、水に顔をつけたまま、鼻からゆっくりと息を吐きながら慣らしていくもんじゃないか? 何でそう苦しそうにガボガボいってるんだよ」
死神ちゃんは愚痴っぽく独り言を言った。すると、それは彼の耳に届いていたようで、水面に顔をつけていた彼はそのまま何やら返事をしようとした。そして――
「あっ……! 鼻にっ! 鼻に水がっ!」
彼は勢い良く泉から身体を跳ね上げると、そのままゴロゴロと地面をのたうった。そして、激しく悶絶した彼は壁に頭を打ち付けた。
* 戦士の 水泳スキルが 1 上がったよ! *
目をチカチカとさせて意識を手放した彼の腕輪から、ステータス妖精さんが軽やかに飛び出した。妖精さんは死神ちゃんと目が合うとヘッとニヒルな笑みを浮かべた。
「いや、どっちかっていうと上がったのは〈溺れスキル〉なんじゃないのか……?」
げっそりと肩を落とす死神ちゃんの問いかけに答えることなく、妖精さんはどこへともなく飛び去っていったのだった。
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風呂場にやって来た死神ちゃんは脱衣棚にお風呂セットの入った籠を置くと、おもむろに籠の中を覗き込んだ。不思議に思ったマッコイは洗濯物を抱えたまま立ち止まると、死神ちゃんを見下ろして首を傾げさせた。
「どうしたの、薫ちゃん」
「いや、そういえば〈黄色いアヒル〉って、俺、持ってたなと思って」
言いながら、死神ちゃんは籠の中で存在感を主張するアヒルのおもちゃを手に取った。こちらの世界にやって来る者は、必要最低限の生活用品が支給される。しかし〈容姿がおっさんから幼女に変わってしまった〉ということをおもしろく思った魔道士は、死神ちゃんに対しては〈最低限〉以上のものをからかいの意味も込めて取り揃えてくれた。――アヒルのおもちゃも、そのうちの一つだ。
普段は籠に入れっぱなしなのだが、天狐がお泊りに来ると、決まって彼女はこれで遊びたがる。そのため、もっぱら〈自分のためのもの〉というよりは〈天狐のためのもの〉と化していた。
「なあ、これ持ってると、本当に溺れないのか?」
死神ちゃんが首を捻ると、マッコイは含みのある笑みを浮かべてた。
「それね、とある健康ランドで限定販売されていたものらしいわよ。今じゃあプレミアがついていて、かなりの高級品だそうよ」
「へえ。――で、溺れなくなるのか?」
さてね、と言いながらマッコイは洗濯の準備に戻っていった。死神ちゃんは慌てて洋服を脱ぎにかかると、一緒に洗ってもらうべく洗濯物をまとめ始めた。
――――お風呂に持ち込んでみたら、何となく心地よい気持ちでお湯に浮かぶことが出来た気がするのですが、真相は分からずじまいなのDEATH。




