Chapter 5
僕は自分の部屋に戻り、急いで制服に着替える。
今は7時46分。学校に着くには、遅くとも8時には家を出る必要があるから、あと4分で着替えて、5分で学校へ行く支度をまとめれば、何とか間に合うだろう。
自然と動作が早くなる。
僕は急いで制服に着替え、洗面所で歯を磨き、かばんに教科書やノートを詰め込んだ。
全てをきっちりやりおえて、僕は少し清々《すがすが》しい気分になった。人間、やればできるものなのだということを、改めて感じた。時計の針が7時56分を指していたのは、少し惜しかったけれど。
まあ、いい。家から学校まで、何十分もかかるような距離ではないし、今からでも充分間に合う。
「さて、そろそろ行きますか」
僕は、先週末に買ったばかりのダッフルコートを着て、戸締まりを確認し、かばんを持って家を出た。
僕が今から行くところは、蓮桜学園高等学校という名前の私立高校だ。
蓮桜学園は、明治17年から続いている伝統ある学校である。創立者が、アメリカから来たキリスト教の宣教師ということもあって、キリスト教系の活動をすることが多く、今でも聖堂や礼拝堂がいくつか残っている。偏差値が高く、校風もいいと評判の学校だ。
僕は必死に勉強した。遊ぶ間も寝る間も惜しみ、一日中、ただただ、勉強した。全ては、神保たちの魔の手から逃れるためにーーあの夏の日のような悪夢を、これ以上繰り返さないために。
そんな涙ぐましい努力が報われ、僕は蓮桜学園に合格した。....ただ、1つ誤算だったのは、神保も同じ学校に合格してしまったということだ。
足取りが急に重くなる。
これからあと3年間も、神保と一緒にならなければいけないのかと思うと、気が滅入る。せっかくここまで努力してきたのに、これでは全て台無しではないか。水泡に帰するとはこのことだ。
とにかく神保とは、できることなら関わりたくない。だから僕は、入学してから今まで、ずっと神保から逃げまどう日々を続けてきた。神保とできるだけ目を合わさないようにしたり、神保のいる場所をできるだけ避けたりーー。思ったより大変だったけど、誰かを必死に避けて行動することに、楽しみをも覚えてしまった、心のひねくれた自分がいた。だから、お先真っ暗だと思っていた学校は、それなりに楽しかった。
神保は高校でも仲間を作って、相変わらず僕のことをいじめてくる。もちろんすぐにそれがバレて、先生にこってりと叱られるのだが、それでも懲りずに、何度も何度もいじめてくる。
困ったものだ。
僕は、歩きながら一人ため息をついた。
しばらく歩くと、急勾配の坂道にさしかかった。この坂道を登ったところに、僕らの学校はある。
この坂道は、勾配が10パーセントもあり、登るのがかなり大変だ。実際、毎日この急勾配の坂道を登るのが面倒で、わざわざ高校を退学した生徒もいる。まあ、でも、それはそれで足腰の鍛えにはなるから、僕は苦にはならないけど。
僕が坂道を登っていると、突然後ろから、僕を呼ぶ声がした。
「おーい、桂ーっ!」
振り返ると、三人の男子生徒たちがこちらに向かって走ってくるのが見えた。
三人は、僕のところまで走ってきたあと、息をぜーぜーと吐いて言った。
「お、お前が....はあはあ、か、桂、遥翔....はあはあ、だよな」
「え? ああ、そうだけど....ていうか、大丈夫か、お前ら? ずいぶんと息を切らしてるみたいだけど」
「ばかにすんな....はあはあ、これでも俺らは、陸上部の....え、エースなんだぞ....はあはあ、だ、だよな、お前ら」
「そ、そうだよ。運動の実力は抜群で、先輩たちからは、"陸上の三傑"って呼ばれてるんだぞ」
「そうだ、俺たちをなめるんじゃねぇ」
そうは言うが、こんな坂道を走ったぐらいで、そこまで息を切らしていては、陸上の三傑とは言えないと思う。
僕は、三人の顔を見つめる。
それにしても、この三人、どこかで見たことがある顔だが....ああ、そうだ、思い出した。今日見た"夢"の中で、神保たちと一緒にいた三人だ。
名前は確か、照井翔宇と、常松慶三、それに、室克章だったと思う。三人は、神保の右腕的存在で、神保たちと一緒にいる以外は、よく三人で一緒に活動している。本人たちは、"先輩たちから、陸上の三傑と呼ばれている"と豪語しているが、これが事実だとすれば、明らかにその先輩たちは、悪い意味での"三傑"として呼んでいるのだろう。
出来ればあまり関わりたくないが、僕には、一つ訊きたいことがある。
僕は、三人に訊く。
「で?」
「は? "で"ってなんだよ?」
「"で"は、だ行の四番目の文字だよ。それより僕は、なんでお前らが僕に話しかけてきたのかって言ってんの」
「え? ああ、それね」
三人はそう言うと、顔を見合せてなにやらニヤニヤしだした。
な、なんだ、その顔は....。何か嫌なことでも企んでいるのか?
三人はしばらくお互いの顔を見てニヤニヤしたあと、いきなり僕のほうを向くと、口を揃えてこう言った。
「今日はかわいそうに!!」
「....え?」
あまりにも唐突な言葉に、僕は一瞬声が出なかった。
「じゃあな、桂! はははははは」
僕が戸惑っている間に、三人はそんなセリフを残して学校に向かって走っていった。
「......」
僕は、状況を整理するまで、呆然とその場に立ち尽くしていた。
授業中、僕は上の空だった。
授業に集中しようと思っても、今朝あの三人が言ったことが、気になってしょうがない。ついつい、あいつらのことを考えてしまう。
僕の頭の中に、三人の言った言葉が、何度もこだまする。
「今日はかわいそうに!!」
あの言葉は、一体どういう意味なのだろう。
"かわいそう"というのは、一体何を慰めているものなのだろう。言葉とは裏腹に、とてもばかにしたような口調はおいといて。僕は何も悲しいことなど....いや、ある。今日見た"夢"の中で、僕は神保たちにいじめられた。
でも、あれはあくまで"夢"の中での出来事だ。当然誰にも話してはいないのだから、あの三人が、僕の見た"夢"など、知る由もない。
でもーーあの三人は、「今日はかわいそうに!!」と言ったのだ。今日僕が経験したことといえば、"夢"の中で神保たちにいじめられたことと――そうだ、もう1つあった。今朝、駅前で神保に悪口を言われたのだ。
なるほど、と僕は納得する。
神保は、今朝の出来事を三人に伝えたのだろう。そして、三人にねぎらいの言葉を言うよう言ったのだな。
なるほど、誤解が解けて良かった。
ふぅ、と僕は軽く息を吐く。
今日は朝から色々あって疲れた。せめて学校にいるときぐらいは、変なことを考えずに普通に過ごそう。
僕は、今朝の話をおしまいにした。
その後は特に何もなく、時は過ぎていき、昼ごはんの時間になった。
僕は、今日も階段を登り、"いつもの場所"へ向かう。
学校の屋上。
そこは、この学校で僕が一番気に入っている場所だ。誰も人が来ないから、妙な気を遣う必要もないし、静かだから落ち着く。あと、あまり知られていないけど、屋上からの町並みの眺めは、とても綺麗だ。
僕は、屋上の一番景色のいいところに腰かけ、弁当を食べ始める。
唐突に、聞き覚えのある声が聞こえた。
「あら、桂君じゃない。あなたもここで食べるの?」
その声に、僕は顔をあげた。
富永だ。
「あ、ああ、富永....お前もここ?」
「そうよ。ここからの景色は最高だから」
そう言って富永は、僕の隣に腰かけ、弁当を食べ始めた。
「......」
この感じ、今朝神保に会ったときと同じだ。
また今朝のような思いを味わわなければいけないのか。僕は、今朝のことを思い出して、気分が悪くなった。せっかく作った弁当も、急に味が落ちたような気がする。
僕は、富永のほうをちらりと見た。
富永は僕のことを無視して、もくもくと弁当を食べている。
この空気、とても居心地が悪い。早く打開策を考えないと....。
僕が戸惑っていると、唐突に富永が口を開いた。
「あなたって、強いのね」
「え?」
僕は、富永のほうを見る。
富永が、弁当を食べながら言う。
「正確に言うと、根気強いっていうか....。あなたって、この何時間かの間に二つも嫌なことを経験したんでしょう?」
そうか、やはり、今朝神保に会ったことは知っているのだな。
「でもあなたは、躊躇わずに学校に来た。神保君も学校にいるということを分かったうえで。私、それはとても凄いことだと思うの。あくまでも私の考えだけどね。嫌な人に会うのって、結構勇気がいるでしょ? また嫌な思いを味わわなければならないのか、とか、またとやかく言われそうだな、ていう不安が、あなたにもきっとあるはず。でも今のあなたには、そういう恐れは感じられなかった。嫌なことにもとことん立ち向かおうという決意が、ひしひしと感じられた。それって、とても素晴らしいことだと思うの」
「....はあ」
僕はため息をつく。そして、富永に言った。
「確かに僕は、神保のことのことを恐れていない。でもそれは、嫌なことにも立ち向かおうという決意だけじゃない。神保のことを避けて行動するのが、楽しいんだよ」
「......」
富永は何も言わない。
しばらくして、富永の「くすり」と笑う声が聞こえた。そして富永は、
「あなたって、相当心がひねくれているのね」
と言った。
「....は?」
僕は、富永のほうを見る。富永はこちらに向かって、下卑た笑いを向けている。
....お、お前にだけは言われたくない!
「ふん!!」
僕はつんとそっぽを向いて、弁当を食べ始めた。
こんな奴の相手など、していられない。早く弁当を食べてしまおう。
食べる速度が速くなる。
....と思ったが、その手が止まる。
ん、待てよ....?
僕は富永に問いかける。
「なあ、富永。お前さっき、"この何時間かの間に二つも嫌なことを経験したんでしょう?"って言ってたろう?」
「それが何か?」
「二つって....1つは、今朝神保に会ったときのことだろう? となると、もう1つは、何なんだ?」
「!」
とたんに、富永の顔つきが変わった。明らかに動揺している。そして、
「そ....そんなの、知らないわよ」
そう吐き捨てて、慌てた表情でその場から立ち去った。
「......」
僕は何も言えないまま、富永の後ろ姿を見送った。