Chapter 4
「――――はっ」
目を覚ました僕は、布団から飛び起きた。
「......」
朝になっていた。
窓の外からは、小鳥のさえずりが聴こえてくる。開けたままのカーテンからは、柔らかい朝日が差し込む。机の上の目覚まし時計は、相変わらずチクタクと音をたてて、ゆっくりと時間を刻んでいる。
いつもと同じ朝だ。
「....はぁ」
僕は、ゆっくりと息を吐いた。そして、今起きたことについて考えてみる。
あの出来事は、結局何だったのだろう。僕の中に潜む心の闇が見せた妄想だったのだろうか。それとも、朝の駅前での出来事で、興奮してしまった僕の脳が見せた幻想だったのだろうか。それともーー実際に起きた出来事?
いや、そんなはずはない。確かに、神保喜多や、富永紗央莉や、法倉雄高は、実在する僕のクラスメイトだが、見知らぬ部屋に閉じ込められて、クラスメイトに罵詈雑言を浴びせられるというような夢物語が、あるはずがないのだ。
でもーー。
僕は、あの時のことを思い返してみる。
あの真っ黒な壁の硬さ....。
神保たちの罵声....。
そして、起きたときにあった違和感....。
ひとつひとつが、とてもリアルに、鮮明に、脳裏に残っている。夢を見ているという感じではなかった。
では、一体何だったというのか?
僕は必死に考えてみる。
....だめだ。どう考えても、答えが見つからない。
僕はまた、ゆっくり息を吐いた。
いつまでも布団にいたって、何も進展はない。とりあえず、洗面所で顔を洗ってこよう。それから、朝ごはんの準備だ。
僕は布団から立ち上がり、洗面所に向かった。
だが、洗面所で蛇口をひねってみると、水が出ない。いくらこちらが待っても、一滴も出る気配がない。トイレやキッチンの水道でも試したが、どちらも一向に出なかった。これはどうしたことだろう。水道管がどこかで詰まっているのだろうか。
キッチンを見回してみると、冷蔵庫にかけてあったカレンダーに目が止まった。カレンダーの今日の日付には"11月18日 マンションの水質検査"と書いてある。
あ....そうだ、思い出した。
先週渡された回覧板にも書いてあったが、今日は朝からマンションの水質検査があって、8時まで水道を断水するのだった。すっかり忘れていた。
しかし、それまで水が出ないのは困った。顔も洗えないし、料理も出来ない。
仕方ない。今日の朝ごはんは、昨日買ってきたサンドイッチと牛乳で済まそう。
僕は冷蔵庫からサンドイッチと牛乳を取り出し、リビングに持っていく。そして、椅子に姿勢よく座り、「いただきます」と言って、朝ごはんを食べた。
誰もいない静かな空間に、サンドイッチを食べる、ムシャムシャという音が響く。食べながら、サンドイッチのカスが、ぼろぼろと足元に落ちる。
我ながらなんて行儀の悪い食べ方だと思う。食べ物のカスをこぼすのは、子供の頃からずっと変わっていない癖だ。直さないと、いつか友達の笑い物になってしまうだろう。もっとも、そんな友達なんていないけど。
『またまた~、何食べ物のカスこぼしてんのよ。んもう、ほんとあんたは変わってないわよねぇ』
「!」
母さんの声が聞こえたような気がした。
僕は慌てて周りを見回したが、母さんらしき人物はいない。
ーー空耳だったのだろうか。
僕は椅子に座り直して、食事を続けた。
最近、こういうことが頻繁にある。死んだはずの母さんの声が聞こえて、混乱してしまったり、誰かに見られているようなような気がしたりすることが、日常茶飯事だ。これらのおかげで、最近の生活リズムが乱れており、僕は頭を抱えている。
でもーー生きていた頃の母さんは、確かに良い人だった。
僕は朝ごはんを食べながら、母さんが生きていた頃を回想する。
母さんは、優しくて、賢くて、どんなときでも、僕を一番に考えてくれた。些細なことをしても、笑って許してくれたし、僕がいじめられていたときは、僕のことを一生懸命に守ってくれた。僕にとっては、かけがえのない存在だった。
でも、その母さんは――6年前に、交通事故で亡くなった。
母さんの訃報を聞かされたとき、僕は心の奥底に、うまく言葉に出来ない感じを覚えた。強いて言えば、"喪失感"が一番しっくりくるだろうか。あの時僕は、心の中に穴が空いたような気がした。何か大切なものを失ったような、何かを欠いてしまったような――そんな感じだった。でも、その"大切なもの"が何なのかは、分からなかった。悲しいはずなのに、なぜだか涙も出なかった。
そしてあの日からーー嫌なことがどんどん増えていった。
その中のひとつが、神保たちによるいじめだ。
僕の頭の中に、神保たちの声が響く。
「神保君の言う通り、全ては自分がまいた種ーー言い換えれば、"自業自得"なのに」
「知ってるか? そういうの"卑怯"っていうんだぞ」
「お前って本当に弱虫だよな」
胸がズキンズキンと痛む。
まるで、心の奥に針を刺されているような感じだ。ナイフのように一気に襲いかかるような感じではなく、金槌のように鈍いものでもなく。些細かつ鋭利のある"言葉"たちが次々と襲いかかり、僕の心を痛め付ける。
ぐさり
ぐさり
と
気付いたら、僕は無意識に、左胸の部分を押さえていた。
静かな空間を、時間だけが過ぎていく。
僕は、壁にかけてある掛け時計を見上げた。時計の針は、7時46分を指している。
「....学校、行って見ようかな」
思わずそう呟いた。