遥かへ続く道-2
「これ使ってください……」
水で濡らしたハンカチを手渡すと、男性は「いててて」と唸りながら受け取り、赤く腫れた右頬を押さえた。
「有難う。七瀬ちゃん」
教えたばかりの私の名前を気楽に発した彼は、マツムシと言う珍しい名前で男性にしては高い特徴的な声をしている。
「傷、痛みますか?」
マツムシさんの着ているキャメル色のジャケットは肩口で破れ、肘や膝は砂利だらけ。
砂をはらって整えてあげたい衝動に駆られるが、男の人に触れるのは気が引けてしまう。
「七瀬ちゃんが通りかかってくれて良かった。あのまま倒れていたら俺はどうなっていたか……」
昼過ぎにもかかわらず公園に子供の姿は無く、ベンチに座るマツムシさんと私の二人しかいない。
今から五分ほど前、田中さんの家からの帰り道。
駅までのショートカットになればと公園の中を歩いたばかりに、マツムシさんが倒れているところに出くわしてしまったのだ。
“倒れていた”とは大げさかもしれない。マツムシさんは地面に横たわり「しくしく」と泣いていた。
「殴られたんだ……倒れたところを蹴られて踏まれて……」
マツムシさんは「くぅ」と悔しそうに唸り、傷に響いたのかこめかみを押さえている。
「……喧嘩……ですか?」
「違う、違う。こんなの一方的な暴力だ」
「……じゃあ警察に届けた方が……」
「警察かぁ……警察はまずいよなぁ」
再び唸り声をあげ、うなだれる。
「くそぉ……なんで俺ばっかり酷い目に合うんだよぉ。俺の人生はいつもそうだ。貧乏くじばっかり引いててよぉ……」
こんな所で立ち止まっては居られない。だけど、変わった名前のこの男性を見捨てられず「大変でしたね」と相槌を打ってしまっている。
「昔からそうなんだ。運が無いのか人を見る目が無いのか、どういうわけか、俺の好きになる女は皆同じ男が好きだったんだぜ。こんな事がありえると思うか?」
突然尋ねられ「はぁ……」と考え「魅力的な方……なんでしょうか?」と答えると、マツムシさんがうなだれた。
「女って言うのはさ、やっぱり強い男が好きなんだよなぁ。それに比べて俺はダメだ……家柄と血筋は申し分ないっつーのに、どこで何を間違ったのか結果この様だ……だけど……なぁ、俺も顔は悪くないよな?」
期待した視線から目を背ける。
「……」
マツムシさんは二十代前半くらいに見える。痩せて輪郭の際立った青白い顔。斜めに流した前髪と鋭い目つきから、一見の雰囲気は格好良いものの……。
「……ごめんなさい。男の人の顔ってよく分からないんです……」
顔の造形について良し悪しをつける立場にない。
「不公平だよなぁ。上手くやってたと思ったのによぉ。良かれと思った事がみんな裏目に出やがる」
マツムシさんは自虐しているだけなのか、自分の世界に入り込んでいるようだ。
どうしよう……中森くんたちを早く探さないといけないのに……。
田中さんの話によると、体操服を返しに来た二人は田中さん家族に気に入られ、そのまま田中さんの家で早めの昼食を取ったのだという。
そして、経緯は聞けなかったものの、ホズミさんはお風呂をいただいて、中森くんは庭で大工仕事を手伝い「またね」と帰っていったらしい。
中森くんからの電話が来たのは、時間的にそのすぐ後のようだった。
坂町は名前の通り坂が多いものの、さほど込み入った町ではない。少し歩けば、何か手掛かりがあるはず! なんて思ったのだけど……。
「……」
隣でため息をつきながら「どうして俺は」と、うな垂れ続けるマツムシさんを見る。
いつもなら見て見ぬふりをしてたのに……。
白昼公園で転がって泣いている人なんて、子供でなければ酔っぱらい。もしくは危ない人に違いない。
なのに、それを疑う事無く手を差し伸べていた。
……順調すぎると足をすくわれるのかも。
大佐さんから住所を聞いて、地図を頼りに田中さんの家を訪ねるなんて、人から見れば簡単なおつかいだけど、私にしたら大冒険だった。
頑張れば報われる。そんな感動と達成感があったのかもしれない。とにかく一仕事終え、次も頑張ろう! なんて自分でも気づかないうちに、興奮してテンションが上がっていたみたい。
「……油断大敵です」
マツムシさんはきっと危ない人。
「本当にその通りだよ。俺の気持ちを分かってくれんのかよぉ」
「あ……いえ、その……」
上の空で独り言が出てしまった……。
リュウトさんは「お前らしい」なんて笑ってくれるけど、逃避してしまう悪い癖だ。
「こんな俺に優しくしてくれるなんてよぉ、七瀬ちゃんに運命感じちゃうよ」
「いえ……そんな……気のせいです……」
そう言えばマツムシさんは、いつから公園に居るんだろう。
二人を見かけたりはしなかっただろうか。だけど、あれからもう二時間も立つ。いくらなんでもそんなに長い時間ここで倒れていたなんて事、無いですよね……。
「そろそろ行かないと」そう切り出そうとしたタイミングでマツムシさんが再び泣き始めた。
「俺は生きてるのが辛いよ。こんな所で砂だらけにされてさ。悔しくて悔しくて……死んだほうがましだ!」
「そんな……」
励ました方が良いのかな。だけど、事情も知らずに無責任な言葉はかけられない。
だけど、とにかく暴力は良くない。
大事にしたくないと言われても、警察に届けた方が良いに決まってる。
「あの……その……犯人はどこに? やっぱり警察に言って捕まえてもらわないと……危ないです」
「ああ、犯人ね」
ため息まじりにマツムシさんが言う。
「知り合いにやられたんだ。格下だと思って油断しちまった」
がっくりと肩を落として、深いため息。目じりには涙が光っている。
「だけどまさか、あの小鬼が俺より強いなんてよぉ……この俺が小鬼に負けるかよぉ。はぁ……信じられねぇよ。俺の低くないプライドはもうズタズタ……ライフで言えばゼロだ」
小鬼!? それってホズミさん? マツムシさんは二人の事を知ってるはずだ……!
「あ……あの……!」
ビーッビーッ
遮るように携帯電話が鳴った。
なんてタイミンクが悪いんだろう! 普段静かな私の携帯電話が今日に限ってよく働いてくれる。
「電話鳴ってるよ。俺の事は気にせず出て出て。あーあ……とうとう見ず知らずの女の子に迷惑かけちまったなぁ。格好悪いよなぁ。だけどよぉ、俺のがこんな目に合うのはさぁ……」
マツムシさんは再び自分の世界に入ってしまったが、指摘された着信を無視するわけにもいかず、カバンから携帯電話を取り出し表示を見た。
柊さんだ。
マツムシさんが「話を聞いて貰ったおかげで少し落ち着いた」と呟くのを聞きながら、電話に出る。
「……はい……もしもし」
『七瀬先輩!』いつもより大きく元気な声が飛び込んでくる『大変ですの!』
柊さんからの電話の切り出しはだいたい同じ。そしていつも通り言う。
『お姉さまに代わってくださいまし!』
「あの……それが私いま外出先で家には居ないんです」
『まぁ! 病気のお姉さまをお一人になさったの?』と責められ、少しは言い返したいが言葉が出ない。
「すみません……あの……何かあったんですか?」
『七瀬先輩にも関係のある事ですわ! 校舎が元通りになっておりますの! 校舎も銅像も! ついさっきまで瓦礫の山でしたのに……! まるで何事もなかったかのようですわ!』
「……本当ですか……?」
意識せず嫌な口調になってしまう。『わたくし嘘は申しません!』と柊さんの気分を損ねてしまった。
『お姉さまのお加減がお悪いのでしたら、七瀬先輩が見にいらして下さいな! びっくりなさいますわよ!』
「は……はい……! でも今は……あ……」
ふと隣を見ると、マツムシさんが消えていた。
「どうしよう……」
『いかがなさいましたの?』
柊さんが聞いてくる。
「話せば長くなるんですけど……」
マツムシさんの座っていた場所に、カードサイズの黒い紙が落ちている事に気が付いた。
拾い上げて眺める。
「パーガトリー教団……代表マツムシ?」
『どうして七瀬先輩がその名前を?』
「知ってるんですか?」
『悪魔教ですわ。一度だけ誘われてセミナーに行ったことがありますの。代表が悪魔を自称してらしたけど、今となっては偽物だってハッキリ分かりましたわ! お姉さまほど高尚ではありませんでしたもの』
柊さんの話を聞いていると頭の中がこんがらがってくる。
「あの……猫のホズミさんが人に戻って、中森くんと魔界の入口を探しに行って誘拐されたかもしれない話なんですけど……聞いてくれますか?」
『詳しくお話しなさって!』
電話口で柊さんが前のめりになったのが雰囲気で伝わってくる。
こんな事になるなら、最初から柊さんに声をかけたら良かった。次は絶対誘おう。こんな事が二度も三度もあっては困るけど……。




