煌く迷図-3
「魔界と聞いて寝ていられるものか」
「おとなしく寝てないと駄目だからね」
間髪入れずに釘を刺す誠司の横で、間抜け面が俺を見下ろして笑った。
「そーですにゃ! 寝ていてくださいにゃ! リュウトさまは風邪……くぷぷ! ご病気を患って……にゃはは!」
「性懲りもなく主人の病を笑いやがって……お前、覚悟はできているんだろうな?」
ホズミは「あにゃ」と目を泳がせる。立場の悪さに気が付いたのだ。
「リュウトさまのご病気が早く治ると良いですにゃー! 病床のお世話はもちろんわたくしにお任せくださいにゃ! まずは退屈しのぎに歌をひとつ……」
落としたゲンコツにホズミがじゃれついてくる。撫でられたと勘違いしているのだ……。
「そんな事より改めて聞くがホズミ。間違いはないだろうな? ぬか喜びはしたくない」
「もちろんでございますにゃ! ですがこのホズミ、リュウトさまに早くお伝えしたくて、まっさきに此方へ飛んできましたゆえ……実物はまだ見に行ってはにゃいのです」
「それってどの辺にあるの?」
ホズミは胸を張り「あっちですにゃ」と壁を指さす。
「あっち……? 駅の方? それとも小学校側?」
「あっちはあっちですにゃ」
「うーん……それじゃあ……」
誠司が具体的な地名をいくつか上げたものの、ホズミの回答は「あっちですにゃ」と要領を得ない。
「場所を聞いても具体的に答えられないだろう」
ホズミは大きく頭を上下させ「そうですにゃ」と牙を見せた。
「感覚的なものだ。例えば魔界の入口とホズミとが磁石のように引き合っていると思えば良い。より強く引き合う場所が境界なのだ」
「じゃあ外に出て捜し歩かなきゃ見つからないって事?」
「そうなるな」
誠司は「寝ていろ」と目だけで俺を制し、額の冷却材を新しいものへと張り替えた。
俺だって自分が置かれた不甲斐ない状況は良く理解している。
「すぐに治る方法は?」
「寝てるのが一番早いよ」
くそ……! だからといって動かないという選択肢はないのだ。
「リュウトさまのお声はガラガラ。もう大きな声は出してはいけませんにゃ」
「誰のせいで……! ゴホゴホ……!」
思い起こせば人間界に来てからというもの、馬鹿げた現象の数々に散々足を取られ、いやほど辛酸をなめ続けている。帰り道が見つかったとなれば、ようやく吹いた追い風!
「たかだか風邪だ。どうにでもなる」
「甘いよリュウト。風邪は怖いんだから」
「フン! しかし回復を待っていては、ホズミが案内を遂げる前に術が消えてしまうかもしれない……ゴホゴホ」
ホズミの襟首を掴み、ぐいっと引き寄せた。
「あにゃ?」
「お前にうつせば治るやもしれん。ゴホゴホ……! ゴホゴホ!」
「にゃにゃ……! 唾を飛ばさにゃいでくださいにゃあ……! 風邪にゃんて私にはうつりませんにゃ」
「バカは風邪をひかないか? なら……」
今度は誠司の襟首を掴んだ。
「うつしたって治らないってば」
「じゃあどうすればいい!」
境界を探すため使った術は、目の粗い網で小魚を狙うように安易なものだ。成果を得られたのは奇跡に近い。俺はその奇跡を無駄にしたくない。
「ゴホゴホ……なぁ誠司。頼りになるのはお前だけだ……どうか俺に力を貸してくれないか?」
俺の考える一番美しい表情で訴えかけた。
潤んだ瞳、上気した頬。いつもより熱を帯びた細い手にそっと肌を撫でられ──。
健全な男が無視できるはずがない!
「……うわっ!」
予想を反し誠司は悲鳴を上げておののいた。ふと半身に冷気を感じる。
「ぬ……!?」
プルンと揺れる己の双丘に気づいたのと同時にホズミが叫んだ。
「色仕掛けならおっぱいですにゃ!」
呆気にとられて固まる俺。その寝着の上服をたくし上げたままホズミは言う。
「これで下等生物はリュウトさまに魅了され、もはや奴隷も同然ですにゃ!」
「その通り」と俺が言うとでも思っているのか、ホズミは褒めてくれとばかりの得意顔だ。
とにもかくにも素早く上服を戻す。
「主人の裸体を晒す奴があるか愚か者! 曲がりなりにも貴様も女だろう。恥じらいは無いのか!? これでは俺が変態のようではないか!」
「あにゃにゃ……? 間違えましたかにゃ?」
目じりに涙が浮かんだのは怒りか失望かは分からない。
「まったく情緒のないやつだ!」
勢い任せに起こした上半身は重く鈍かった。熱も上がっているに違いない。しかし怒りの収まらない俺は、ふらつきながらもホズミの冷たい頬を両手で挟み、至近距離で咳を浴びせかける事にした。
「お前に風邪がうつるまで逃がさないからな」
「にゃにゃ! 汚いですにゃ!」
「主人に向かって汚いとはなんだ! ゴホゴホ! 絶対にうつしてやる!」
「あにゃにゃー!」
「ケンカしないで」と間に入った誠司の顔は赤面しているようにも見えるが、視界はぼやけ二重にも三重にも見える。
「ほら、リュウトは寝てないと。治るものも治らないよ」
「困った方ですにゃ」
悪びれもせず言うとホズミは洗面所に逃げていく。
「フン! もうこの体がどうなろうと……! ゴホゴホ……誠司、俺を背負って連れ出してくれないか? 一人の友人として頼む。なりふりなど構っていられないんだ」
懇願する俺に誠司は微笑んだ。
「……あのさ、早くに言うべきだったんだけど。僕と猫ちゃんとで行ってくるよ。だからリュウトは部屋で待ってて」
「最初からそのつもりだったんだけど」と誠司は、隅に逃げたホズミを目で追い「タイミングが掴めなくて」と苦笑いを浮かべる。
「とはいえ……猫ちゃんを着替えさせないと僕は社会的に死ぬ。リュウトが小さかった時の服なら入るかな」
見られていると感じたのかホズミは、田中と書かれた体操服の裾を伸ばす。
「リュ、リュウトさまぁ……! ナカモリがいやらしい目で……! こんなケダモノと二人きりなんて嫌ですにゃ」
「ゴホゴホ……至らないが好きにしてくれ」
「そんなにゃあ……!」
「ついでに盗んだ体操着も返して来いよ。お前のせいで田中が困る」
体操服が無いと泣きべそをかいた人間を知っている。それはもちろん穂積の事だ。
あの時は、俺が家へ取りに戻ってやったおかげで事なきを得たが、盗まれたとなれば話は別だろう。
ホズミは「にゃい」と短く返事をし、誠司は「気の進まないミッションが増えた」と渋面を作ってみせる。
「良いかホズミ、今からお前の主人は誠司だ」
「にゃ……!?」
「主人かぁ。嬉しいようでうれしくないな」
誠司は「普通にしてくれるのが一番良いんだけど」と苦笑いを浮かべながら俺の寝具を整え、小さな子供を寝かしつけるように俺の肩を数回撫でつけた。
誠司にかける言葉はいくつか浮かんだが、口に出たのは「頼む」でも「有難う」でも無く。
「すまん」
派手に咳き込みながら口にするのが精いっぱいであった。
それに対し誠司が何か言ったのだが、眠りの瀬にいた俺にはよく聞こえなかった。
※※※※※※※※
穂積が帰宅したのは正午を少し過ぎた頃だった。
もうこんな時間かと起き上がり、昼食を用意しに戻るとは出来た女と褒めてやろう。と、見たその顔はひどく困惑していた。
穂積の視線の先はベランダへと繋がる窓。
「……誠司が段ボールとガムテープをうまく使って塞いだおかげで、隙間風は入らない。安心していいぞ」
「リュウトさん……!」
「なんだよ、怒るなよ。俺のせいじゃない」
「いえ……あの……! いいえ、どうしたんですか? えっと……そうじゃなくて……あの……」
「何をそんなに慌ててるんだ? 少し落ち着け。ゆっくり説明してやる」
穂積は「はい」と消え入りそうな声で答え「でも」と一呼吸置いて言う。
「中森くん……中森くんは帰って来ましたか……?」
「いいや。まだ戻っては無いと思うが……」
寝ている間に戻ったという事も無さそうだ。しかし出発したのは早朝。少し遅すぎるかもしれない。
「猫と一緒に出掛けたんだ。いや、猫と言っても人型に戻ったんだが……まぁ、アイツの事だ腹が減ったと駄々を捏ねて誠司を困らせているんだろ」
ホズミは猫の餌ばかり食べていた。誠司の優しさに付け込み、人の食い物を強請っていてもおかしくない。
「お、おい、どうした?」
今にも泣きだしそうな顔で、絞り出すように穂積が言う。
「中森君……誘拐されたのかもしれません……!」




