煌く迷図-2
熱に浮かされ、夢うつつ。
パキッと嫌な音が聞こえ、ガシャンと物の落ちる派手な音で完全に目が覚めた。
額に浮き出た汗を夜風に冷たく撫でられて、それが窓ガラスが割れた音なのだと気付く。
「ゴホゴホ……ゴホ……」
……ああ嫌だ。
頭の働きは鈍いが、おおよその事が把握できてしまう。
侵入者だ。
視線だけで薄暗い部屋を見渡せば、吹き込む風にバサバサと揺れるカーテンの向こうに、人の姿を見た。
月明かりを背にして顔は良く見えないが、ずいぶんと小柄で線が細い。
……魔界の者か? 早すぎる。
悪い想像だけが脳裏にいくつも過ぎり、呼吸は自然と荒くなる。
気持ちだけは戦闘態勢だが、体がまるでついて来ない。
あぁ、よりによってこんな時に!
とっさに手に取ったのは枕もとのティッシュ箱だったが、振り上げた腕に力が入らない。その間にも侵入者は割れた窓から手を差し入れ、室内へと侵入しているのだ。
大声を出そうにも、ゴホゴホと咳にしかならず、ようやく投げたティッシュ箱も、へろへろと床に落ちた。
「リュウトさまぁ……」
直後聞こえたのは、すがるような情けない声。緩んだ口元で牙が光る。
この感情は安堵か落胆か? とにかく脱力し、侵入者の名前を口に出した。
「……ホズミ」
猫の姿ではない。
子供の頃からよく知る赤毛の小鬼だ。
左の角しか持たないせいか、以前よりも緊張感の無い間抜け面に見える。
「お前……死んで枕元に立ったのではあるまいな」
それとも……。
ぎゅっと頬をつねる。
痛い。生きている。
「……信じたくない」
「意地悪言わないでくださいなぁ」
どんぐりのような大きな瞳が俺を見下ろす。
曇りの無いまっすぐな瞳は無邪気だが、邪悪でもある。
「ようやく猫が治ったのですぅ!」
ざっくりと編まれた赤毛の三つ編みが二本、目の前で弾んだ。
気持ちも同じように弾んでいるのだろう。ホズミはやけに明るい声で「長く厳しい猫の日々でした」と嘆く。
「ゴホゴホ……悪夢だ」
深呼吸するように鼻をすすり、目を閉じて視界からホズミを消した。
「ふにゃー! リュウトさまってば、起きてくださいよぉ」
「ゴホゴホ。ホズミは猫で、夏帆の庭に縛り付けてある。幻なら早く消え去れ」
「そんにゃあ……! リュウトさま! リュウトさまぁ! リュウトさまってばぁ」
怒鳴る気力も無く暫く無視していたが、体を揺さぶられ仕方なく目を開けた。
「……ゴホ……お前俺に恨みでもあるのか? なぜ窓から来た」
「ピンポンは何度も押したのですよ?」
「……」
会話する気力は失せたが、一つ指摘せずにはいられない。一言「それは?」とホズミの胸元に指をつきつけた。
嫌でも目に入るホズミの白いシャツ。その胸元には“6-3 田中”と書かれ、下服を見れば紺色の短パンを履いている。
知っている。これは体操服だ。
「人間の服ですよぉ」
言ったホズミはシャツの裾を掴むと尻まで伸ばし「じろじろ見ないでくださいにゃ」と照れ臭そうだ。
「ゴホゴホ……そんな事は見ればわかる。何故それを着ているのかと尋ねているんだ」
「軒にぶら下がっていたのを拝借したのですぅ。下等な人間界といえども、裸で歩くのは気が引けますにゃ!」
ピシッと敬礼のポーズを決めたホズミを無視し、頭から布団をかぶった。
「ゴホゴホ。早く寝よう。目が覚めれば体操服姿の小鬼は消えるし、窓ガラスも元通りだ。ズズッ……これは悪い夢だ」
「そんにゃあ! リュウトさまぁ」
「熱が幻を見せるのか? 重症だぞこれは」
ホズミはやっきになって「夢ではありませんってば」と俺を揺すっていたが、とうとう諦めたらしい。
「あにゃーどうしましょう」「困りましたにゃ」と猫交じりにぼやき、グルルと腹を鳴らしながら、足音が遠ざかって行く。
「……冷蔵庫の中身は漁るなよ」
「あにゃ……?」
そのつもりだったのだろう。ホズミの歩みが止まる。
「ゴホゴホ……」
「リュウトさまぁ」
「うるさい」
「でもでも……」
餓死すると喚き嘆くホズミのやかましさに耐えきれず、優しい俺は救いの手を差し伸べてしまうのだ……。
「……冷凍庫のアイスなら食ってもいい」
声は無いが、ホズミの喜びようが目に浮かぶようだ。
パタンと音がして「チョコレート!」と歓声が上がった。
「ゴホゴホ……ズビ……はぁ……闇姫の術もとうとう解けてしまったのか……」
甘い香りでホズミが近寄って来たのが分かる。
食べながら歩くなと説教してやりたいが、寝込む俺には気力が無い。
「あのぉ、リュウトさまぁ……わたくしもお布団に入っても良いですか? アイスを食べたら寒くて、寒くて。ぶるぶる……この鳥肌を見てくださいにゃ」
「ゴホゴホ……おい、勝手に入って来るな」
倦怠感に俺が動かないのを良い事に、ホズミは布団の中で丸まると、無礼にも冷えた指先を俺の体で温めはじめた。
「リュウトさまは温かいですねぇ。どちらかといえば熱いくらいですにゃ」
「ゴホゴホ……」
「ふにゃー……なんだかちょっと、暑苦しくなってきましたぁ! いくらなんでも熱すぎですよぉ」
「ゴホゴホ……」
無視だ。
相手をすればするほど、具合が悪くなってくる……。
「あにゃあ……猫が長かったせいでしょうかぁ。上手く舌が回らないのですぅ……困ったにゃ」
「あーあー」「にゃーにゃー」と発声練習するホズミに背を向け、耳を塞ぐ。
それにしたって、こうも早く動けるようになるとは……! 境界を探すあの術は失敗だったのか? ささやかな希望も俺には無いのか!
「あのう……リュウトさまぁ」
「ゴホゴホ……うるさい……! 俺は風邪をひいているのだ! 少しは静かにしろ……!」
「か、風邪? リュウトさまが?」
驚いて言ったホズミの体が震え出す。
……笑っているのだ。
「プクク……! リュウトさまが、か、風邪! 悪魔が風邪にかかるなんて……! にゃはは! わたくしでも風邪の菌に負けたりしませんよぉ」
笑いの止まらなくなったホズミは、寝台から床へ転がり落ち「にゃはは」と腹を抱えている。
病気の主人を労わる気持ちなど、この小鬼は持ち合わせてなどいない。
いや、俺もホズミも病になど倒れた事が無い。よってこの辛さが理解できないのだが。
あー……! 腹が立つ。ホズミに笑われる日が来ようとは!
愚かなホズミは俺が回復した後の事など、考えも及ばないのだ……!
「にゃはは!」
暫く転がって笑っていたホズミだが、今度は悲鳴を上げた。
「はにゃー!」
「今度はなんだ!」
「痛いですぅ! リュウトさまぁ……! 割れたガラスの破片が刺さってしまいましたぁ」
自業自得だろ、もういい加減にしてくれ……。
転がるホズミを半泣きで眺めていると、玄関でカチャカチャと鍵の開く音がした。
「穂積お嬢様が戻られたのでしょうか!」
素早く反応したホズミは玄関までフラフラと歩いて行く。出迎えて飯を強請るつもりなのだろう。
悲しいがホズミの浅ましい考えなど、手に取るようにわかってしまうのだ。
そして俺には分かっている。ホズミの期待に反し、廊下の向こうに居るのは誠司だと。
「君、誰?」
「あにゃ……お嬢様じゃにゃい……」
明らかに落胆しトボトボと戻るホズミの後方を、戸惑いながら誠司がついてくる。
「凄い音と声がしたから様子を見に来たんだけど……うわぁ、窓が割れてる」
「ゴホゴホ……誠司、ソイツを追い出してくれないか。侵入者だ」
「そんにゃあ! リュウトさまぁ」
「この子は?」
「見て分かるだろ。田中だ」
誠司はホズミの名札を見て「田中だね」と、はにかむ。
「うにゃー……! 田中ではございません! わたくしは従者のホズミでございます!」
「えぇ!? 猫ちゃんなの?」
「猫の方が愛嬌があっただろ……ゴホゴホ、残念だ」
「想像より小柄だったなぁ。へぇ、君が猫ちゃんかぁ。で、どうして体操服を着てるの?」
ホズミは頭に触れようとした誠司の手を振り払う。
「リュウト様は風邪をひいてらっしゃるのです。プクク……どうぞ、お引き取り下さいにゃ」
「猫ちゃん、破片が危ないからスリッパ履いてね。リュウト、掃除用具の場所を教えてくれる? 起きて来なくって大丈夫。寝ててよ。それと、猫ちゃんも手伝ってくれるかな。ガラスをどうにかしないと怪我しちゃうよ」
言って誠司はテキパキと動き、割れた窓も簡易的に塞いで見せた。
なんて頼りになる男だろうか!
「ゴホゴホ……誠司、俺の従者にならないか? 使えない小鬼はもうクビにする」
「そ、そんにゃあ!」
「従者かぁ、それも良いかもね」
からかい調子の誠司にホズミは顔を青くする。
「むむむぅ! 人間の癖に生意気ですぅ! リュウトさまぁ! 考え直してくださいにゃ」
「……うるさい。病人の近くでデカイ声を出すな」
「あにゃあ……風邪ってそんなに辛いものなのですかぁ?」
「寝かせておいてあげようよ。リュウトの風邪、かなり酷いんだ」
誠司に諭され、ホズミは俺の顔を覗き込んでくる。
ようやく労わる気になったのか、心配するような顔を初めて見せた。
「リュウトさまぁ。魔界への帰り方が分かったのですが、元気になってからの方が良いですよね?」
……この眩暈は熱だけのせいではない!




