去りゆく君の回帰譚-1
足元に転がる朱色の柱を、怒りに任せて踏みつけた。
静寂した夜の森に、乾いた音を響かせ、破片を散らす。
その爽快さに、陰鬱とした気持ちも少しは晴れたが、それもほんの一時の事に過ぎない。
「これで追っては来ないだろう?」
心の中に話しかけると、心の中で返事がある。
闇姫だ。
『うむ。この門を壊しさえすれば、まずは一安心じゃな』
「なら良いが」
自らの手で帰路を立った事は惜しいが仕方がない。
『精神を憑依させたままの、依代を壊したのじゃ。殿下の意識もしばらくは戻らぬじゃろう』
「そのまま二度と起きて来なけりゃ良いのに」
胸の内が熱くなり、闇姫が笑ったのだと感じ取れた。
俺の中に、闇姫の意識の一部があるのだ。
本人の言葉を借りるならば、『蒔いた種が芽吹いたのじゃ』良く分からないが、そう言う事らしい。
二人を結ぶ糸のような繋がりが、闇姫が俺にかけた術の中に残されていたのだろう。
それにしても、意識の繋がるタイミングは随分と出来すぎていたが、それが意図的な物なのか、偶然なのかは分からない。だが、詳しく聞く気も無い。
怒る気力が無いのだ。
『それはさておき背の君よ。我に感謝する気にはなったのかえ? 我は命の恩人も同然じゃ』
「ほう。お前が言うか諸悪の根源め。お前の術だろう。カリガネもドラゴンも、何もかも」
『ドラゴンと魔人の血肉を三日三晩グツグツコネコネして作ったのじゃ』
「想像したくもない」
ため息交じりで胸元を殴ってみたが、痛みを感じるのは俺だけのようだった。
『仕方がなかったのじゃ』
「まぁ、分かるよ。お前の立場の悪さは」
カリガネの命に闇姫が背けるはずがない。煉獄は同盟国だが、事実上は帝国の属国だ。
『カリガネ殿下が相手とは、思った通り我の分が悪かったのう』
「フン。お前、俺に何の術をかけた? 戻ったのは記憶どころの騒ぎじゃなかったぞ」
『背の君の体の中は、大術が入り組んでいるからのう。我の術があらぬ影響を受けてしまったようじゃな』
闇姫は喜々として続けた。
『術の公式が変わってしまうとは、実に興味深い事じゃ』
「フン! こうも体と記憶が弄られてるんだ。おかしくもなるだろう」
『さりとて背の君。我の事は思い出してくれたのかえ?』
溜息にも似た調子で「ああ」とだけ答える。
リンネロッタと入れ替わった瞬間、記憶は一つになったのだ。
どうして自分が女だったのか、どうして男に戻れたのか。ようやくそれが理解できた。
『うむ。良き事じゃ。言ったじゃろう。我に女は愛せぬとな』
「……そうか。安心したよ」
言いながら胸の内で舌を打ったのだが、それがしっかりと闇姫に伝わってしまう。
「ったく、人の中に勝手に入り込みやがって」
苦々しく言う俺に、闇姫は『心も体も一つになったのじゃ』と満足げだ。
「まったく……」
腰に手を当て、天を仰いだ。
無意識に吐き出した息は深く、含んだ疲労は重い。
かつての俺はリンネロッタであり、リンネでもあった。
始まりはいつだか分からない。
だが終わりの始まりは明確だった。
******
今日の出会いがすべてを変えた。
目の前には大きな噴水があった。周囲には緑が繁り色とりどりの花が咲き乱れている。
地面には色鮮やかなタイルが敷かれ、綺麗な模様を描いていた。
ここはカリガネの住む王宮。その中庭。
カリガネと待ち合わせをする時は、決まってこの場所だった。
私はベンチに腰掛け、ブラブラと揺れる靴の先を眺めながら、帝王学だか何だか良くわからないが、とにかく堅苦しく面白味のない座学から、カリガネが抜けだしてくるのを待っていた。
暫くの別れを言うために。
カリガネは明日から数年、陛下の僻地視察に同行して旅立ってしまうのだ。
やわらなか日差し、そよ風に木々がざわめく。頭上に気配を感じて顔を上げると、見知らぬ男が私を見下ろしていた。
「面白いのがいるじゃねぇか」
それは銀色の髪をした悪魔だった。
長い髪は、どこからが前髪なのか分からないほど伸びて、顔はよく分からない。
唯一、夜に墨を流したような漆黒の翼を見て、魔力の高い悪魔なのだと分かる。
全身が黒ずくめ。よくよく見れば服には黒いインクを滲ませたようなシミがいくつもあった。清潔とはいえない男だ。
とはいえ、独特の鋭い雰囲気を纏うこの男が、ただの一般人とは思えない。かといって騎士にも見えない。そもそも王宮に出入りが許される身分なのか、それが怪しい。
ひとつの答えが脳裏によぎり、恐る恐る口にした。
「……あなた、暗殺者ね?」
男は私の言葉に、唇の端を吊り上げて笑った。
横に広い口の形をしているせいで、より男の邪悪さが増した気がする。
「そりゃ良いな。お前、名前は?」
「暗殺者に名乗る名前なんてないわ」
「そうかい。そりゃ失礼したな」
男は無遠慮に私の隣に座ると、両手を正面に突き出し、まるで空気中の何かを捕まえたかのように、手を組んで見せる。
私は、なるべく気にしないようにと、靴先を眺めてやり過ごす。
窮屈な赤い革靴。私の好みではないが、これを履いていると母上の機嫌が良いのだ。
この白いレースのワンピースも、同じような理由で着ているが、黒い羽根が映えるので嫌いではない。
「ピィ……ピィ!」
小鳥のような鳴き声がして、横目で男を見た。
男の骨ばった指の形が変わっていく。中の物が膨らんでいるのだ。やがて指の間から白くうごめくものが見て取れた。
気が付けば無意識に身を乗り出していた。
「……気になるだろ?」
「べ、別に気になんかならないわ」
男の手の中から、ふわりと清涼感のある風が吹き、私の前髪を撫でた。
鳴き声も一段と大きくなる。
男と目が合った。
「気になるだろ」
「……気になるわよ!」
男は笑いながら手を開く。ふわふわとした小さな白い生き物が、翼を広げていた。翼と、くちばしの形から鳥かと思ったが、子猫のような手足がある。尾は太く長い。
「ドラゴン……?」
「精霊だ」
「精霊ですって!? これが?」
男の手の上で体を折り、羽毛を整えている生き物を凝視した。
「初めて見たわ……」
精霊の自体、さして珍しいものでは無い。
どこにでも存在し、様々な現象を司る身近な生き物だ。この王都でも、生活に必要な火や水の供給は、精霊に頼っている。しかし、目に触れる事はない。存在する次元が僅かに違うのだと教わった。
しかし、男はそれを当然のように捕まえて、具現化して見せたのだ。
魔力ある悪魔は、無から有を生む森羅万象の理を操り、精霊さえも従えると聞いた事がある。でも、実際に目にしたのは初めてだった。
男を見る目が奇異なものから、羨望へと変わる。
「……すごい!」
「触ってみろ」
「わっ……! わ……!」
膝の上に、転がりながら落ちてきた精霊を取り上げて眺める。
意外にもまつ毛が長いのだと感心していると、七色をした不思議な瞳から、草原を駆ける一陣の風と、荒ぶる嵐のイメージが頭の中へと流れ込んできたのだ。
「この子、風の精霊ね!」
「ほぉ、分かるか」
「何故だかそう思ったの。この子が教えてくれたのかしら」
「いや、お前の持つ魔力の感度がずば抜けて高いんだろう」
「本当?」
素養を褒められた事が、素直に嬉しかった。
同じ年頃の悪魔と比べても、私の魔力は弱い。とりわけ翼が黒く美しく整っていただけに、見掛け倒しだと、よく笑われるのだ。
そんな私を一族は恥じるのか、闇雲に魔法を使うなと言いつけられている。
強くなる予感だけは、人一倍持っているだけに、自分でもそれがもどかしい。
「ねぇ! 貴方ってすごい悪魔なんでしょ? こんな事、並の悪魔じゃできないもの。一体何者なの? ここで何をしているの?」
男は片眉を上げ「聞けば後悔するぞ」と口の端を引いて見せたが、私の好奇心は抑えられそうもない。
粘り強く食い下がる私に、男はめんどくさそうに言った。
「幾千乖離、敵味方無く皆殺し。戦場に恨む者も無し」
それは帝国に住む者なら誰もが知っている、残酷物語の口上だ。
物語の主役は、永劫続くと評された泥沼の戦場。その幕を降ろした孤高の大悪魔。
生あるもの全てを無に返し、返り血一つ翼に残さず、宵闇に消えたと異名が付いた。
ハッと気が付き、その顔を見上げる。
「宵闇の悪魔……?」
まさか、と思う。
でも、この男が宵闇の悪魔であったのなら、精霊を具現化してもおかしくはない。
男は否定も肯定もしなかった。
「もし本物だったら凄いわ! 顔をよく見せて」
男の額に手をあて、長い銀色の前髪を押しのけた。
隠されていたのは、美しい碧眼。
眼光は異常なまでに鋭く、肌は病的に白い。
「……宵闇の悪魔は渋いオジサンだと思っていたのに、ずいぶんと若いのね! でも、こんな所で会えるなんて感激だわ!」
私を映す碧眼が細くなる。
「面白れぇガキだな、普通は口にするのも嫌がるぞ」
「そうかしら? ねぇ! せっかくだから私に魔術を教えてよ」
「あ? なんで俺が……」
手の中の精霊も、私を応援するように「ピィピィ」と強く鳴く。
「ほら! この子もそう言ってるわ! 私には才能があるのよ、でも、今はそれが生かされていないの。私は自慢の弟子になるわよ? 絶対に損はさせないわ!」
強請る私に、宵闇の悪魔は心底面倒な顔で「嫌だ」と言うが、私はめげない。
「お前、エテルナ家の娘だろう」
「どうして分かるの?」
「さっきからエテルナの魔女共の視線が障るんだよ」
宵闇の悪魔が、ふっと息を吐いたと同時に、いくつかの影が空中に浮かび上がり、金切り声を上げて消えた。
「今のは何……?」
「家に帰れば分かるさ。目の潰れたのが居るだろ」
「誰かに監視されていたって事?」
首を捻る私に、宵闇の悪魔はニヤリと笑う。
「お前、呪われてんだよ。正体は良くわからねぇが、手の込んだ呪術には違いねぇ」
「どうして? 何のために?」
「知らねぇよ。だが、お前、第二皇子の花嫁候補だろう?」
宵闇の悪魔の言葉に驚いた。その事はまだ、公然と知られていないはずなのに。
「なんで知ってんのかって顔してやがるな。テメェくらいの年頃の子供が、こんな所にいりゃ誰でも分かるんだよ」
「ふぅん。でも、候補よ! あくまでね。カリガネは友達だもの。でもどうして、そんな事の為に呪われなきゃいけないのよ」
憤慨する私を宵闇の悪魔は楽しげに眺め、冷ややかに言う。
「王位の為なら、なんでもやるだろ」
そんな事ないわ! 喉まで出かかった言葉が、声にはならなかった。
私の一族は宵闇の悪魔の言う通り、王位が欲しくて仕方がない。その為なら手段を選ばないだろう。
呪われていると言われても、あり得るのだ。
「それにしても、すげぇ術だな。禁術か? 術の正体を探ろうとすればするほど、本質が見えなくなる……」
言いながら宵闇の悪魔は私を眺め見て、口の中で何か呟いた。
「熱い!」
火柱の上がる靴を慌てて脱ぎ捨てる。
「何するのよ!」
「エテルナ家の魔女共は、お前の身の周り、あらゆる物に呪術を施しているようだな。 服を焼かなかっただけ有難いと思え。この様子だと口にする物もまともじゃなさそうだ」
予期せぬ言葉に驚きが隠せない。
「そんな!」
「お前の魔力が相当強いって事だろう。そうまでしないと、呪いを縛りつけておけないんだよ。子供相手に普通はここまでしねぇ」
言って宵闇の悪魔は目を細めると、腕を伸ばして私の額に触れた。
すべてを見透かすような碧眼は、じっと動かず、私を捉えて離さない。
陽の光が目元に影を落としたが、宵闇の悪魔の瞳からは光が失われない。内側から輝いているのだと気が付いた時、宵闇の悪魔が口を開いた。
「お前の中に何かが封じ込められているな。魔力の塊のようにも見えるが、そうじゃねぇ。なんだこりゃ」
宵闇の悪魔は首を捻っていたが、私にはピンときた。それは、胸の中にずっとあった気がかり。
手の中の精霊が私を見上げてピィと鳴く。
その声に後押しされ、宵闇の悪魔に打ち明ける事にした。
「もう一人の私だわ」
「あ? どういう事だ」
「ずっとそんな気がしていたの。私の中にもう一人の私がいるって」
それを強く実感するのは、眠る時に見る夢だ。
夢の中の私は、いつも男の子の姿で、私の日常を私と同じように過ごしているのだ。
その夢はリアルで、私自身が夢の中の男の子であると、錯覚を覚えるほどだった。
そのせいか、今よりもっと小さい頃は、自分が男の子だと信じてやまなかったし、今だって自分が男の子だと思う瞬間がある。
宵闇の悪魔は私を眺め見て「面白いな」と呟いた。
「父上や母上に言っても取り合ってもらえないし、もしこれが呪いの正体なら……」
唇を強く噛みしめる。
「私が助けてあげなきゃ……!」
「そりゃあ威勢が良い」
宵闇の悪魔はしばらく考えるそぶりをした後、ヨシと手を打った。
「お前を俺の婚約者にしよう」
「どういう理屈よ! おかしな事を言わないで!」
「いや、それが良い。お前みたいな訳がわからんのを第二皇子の花嫁候補にしておくより、ずっと面白い。それにエテルナの魔女共も納得はしないだろうが、この俺がお前を貰い受けると言えば、断れないだろうよ」
「どうしてよ……!」
宵闇の悪魔は口の端を引きニヤリと笑う。
「俺にとっても都合が良い。で、俺の姫宮、お前の名前は?」
手の中の精霊が「ピイピイ」と鳴き声をあげ、穏やかに風が吹いた。
「リンネロッタ!」
名前を呼ばれ、立ちあがる。
同じ年頃の、身なりの良い少年が酷く慌てた様子で駆けてくる。
「カリガネ! 遅かったわね。 ねぇ、聞いてよ……!」
「リンネ! そこから逃げろ!」
カリガネが叫んだのと同時に、ひんやりとした感触が首に触れた。
男が私の首に両手をかけたのだ。
長い爪が、皮膚に食い込む。
「え?」
手の中に抱いていた精霊が消え、風が止まる。
「さぁ、どうする王子様。早く助けないと、可愛い小鳥ちゃんが死んでしまうぞ? その運命は俺の手の中だ」
「宵闇の悪魔! リンネを傷つけたら許さないからな!」
カリガネは地面から木の枝を拾うと、それを剣に変化させ構えた。
親友の目には殺気がある。こんなカリガネを見るのは初めてだった。
「嫌われたもんだな。そう、怖い顔をすんなって。ただの悪ふざけじゃねぇか、付き合えよ」
リラックスした猫のように、宵闇の悪魔は私の頭上に顎を乗せ、伸しかかってきた。振動として伝わる声が不愉快なのに、大きな男の体にすっぽり包まれては、逃げられない。
眉間に縦皺を作るカリガネとは対照的に、宵闇の悪魔は背後で明るい声を出した。
「可愛い小鳥を殺せば、俺だって胸が痛むんだ」
「信じると思うのか!」
声を荒げるカリガネを、落ち着かせるように語りかけた。
「ねぇ……どういう事なの? カリガネは宵闇の悪魔を知っているの?」
「リンネ、宵闇の悪魔と口を聞いてはいけないよ。戯れに命を奪う罪人だ」
「良いねぇ、その真剣な表情。勇敢な未来の皇帝に、我が国の行く末も安泰だ。模範的な皇子を持って、陛下もさぞお喜びだろうよ」
「黙れ! それ以上、リンネロッタに触るな!」
カリガネの剣先は上下に震え、絞り出すように言った声が緊張している。
「お前に剣先を向けられる日が来るとは感慨深いなぁ、ついこの間まで赤ん坊だったのに、あぁ……兄は感動して泣きそうだ」
「兄……?」
カリガネと宵闇の悪魔を交互に見る。髪の色は同じ。でも二人はあまり似ていない。
「そう言う事だ。お姫様」
「リンネ!」
「悪いな、カリガネ。お前の姫君は貰って行くぞ」
宵闇の悪魔は口の端を吊り上げ、高らかに笑うと私を空へと連れ去ったのだった。




