心ある場所-8
夜の森は静寂し、踏んだ枯葉の音がいやに大きく聞こえる。
サクサクサク……。
地面から垂直に伸びる二本の柱の間を、行ったり来たり。
何往復したのかはもう、分からない。
サクサク……サク。
歩いているのは、ただの暇つぶし。
期待なんてない。
柱の向こうは変わらない夜の闇で、振り返れば難しい顔のカリガネが居るだけだった。
カリガネは柱の一つに背中を預け、腕組みをしていたが私を見て表情を緩める。
「どうかしたのかい?」
「あまりにも静かだから、立ったまま寝ているのかと思ったわ」
嫌味のような私の言葉にもカリガネは笑顔だ。
いつだってそう。カリガネは私に甘い。
「退屈だったかな? すまないね。考え事をしていたんだ」
何を考えているのかは、聞かなくても分かる。
カリガネは、私を魔界へ連れて帰る方法を考えているのだ。
私はあくび交じりに手足を伸ばして言う。
「これが境界の門だなんて間違いだったんじゃない?」
門には敷居や横柱もなく、古い柱が二本あるだけ。塗られた朱は擦れて、木の表面は乾燥して痩せているし、かなり歪んでいる。
今にも倒れそうな木の柱。
それが率直な感想だった。
「君も見ただろう? 僕とドラゴンが柱の向こうへ消えたのを」
カリガネが柱の間に右手を差し入れると、その指先から肘まで切り取られたように消えた。
消えた右手の行く先は私の国。ゼスモニア。
ここが魔界と人間界との境界。その門。
数百年使われず、魔界側から閉ざされていたというのだから、壊れていなかっただけマシなのかも。
「まさか君が境界に弾かれるとは思わなかったな」
「当然よ。私は強いんだから」
「それが誤算だったのさ」
カリガネは苦笑いを浮かべ、魔界から戻った右手を撫でている。
その女性的な仕草が妙に様になっていて可笑しい。
「ねぇ! カリガネは魔力を消すために、女の子になってるんでしょ? それなら私を男の子にしてよ! 私も大人の男になってみたいわ」
「ダメだよ。そうはいかないんだ」
「でも」と言いかけた私に、カリガネは「それだけは出来ない」と真面目な顔で念を押してきたので、それ以上は口にしなかった。
「それじゃあ、魔力の量を減らせば良いのかしら」
体内の熱量を魔力に変換して術を使っているのだから、使えば、使うだけ魔力は減るはず。
よし!
カリガネの答えは待たず、ビシッと腕を振り上げ、天を指さした。
「我が名はリンネロッタ・エテルナ! 空劫の水鏡!」
つむじ風が円陣を描いて足元を吹き、髪をふわりと持ちあげた。
発動させるのは、私の好きな炎の魔法!
「紅蓮の炎! 焼き尽くせ!」
指先は火炎を放射し、夜空を焦がす……!
はずだった……。
「魔力は切れていたようだね」
舞い上がる枯葉の向こうで、カリガネが笑っている。
「そもそも、君自身が帯びている魔力の量が絶大なんだ。使い切れば良いという事ではないよ」
「じゃあどうしたら良いのよ!」
苛立ちから、力いっぱい柱を蹴りつけた。
柱は低く鈍い音を立て、パラパラと湿気た木片を降らせる。
「来たんだから、帰れるさ。僕に任せて」
「どうやって来たのかは、どうせ教えてくれないんでしょ?」
「魔界へ戻ったら、君の知りたい事を全部教えてあげるよ。色々と状況がややこしくてね、説明しがたいのさ」
カリガネが近くの木の根に座ったのを見て、私もその横に腰掛けた。
木々の間から、下弦の月が東の空に浮かんでいるのが見える。
夜の深さが経過した時間の長さだ。
無意識で出たため息に、カリガネが大丈夫かと目だけで聞いてくるので、大丈夫だと同じように答える。
二人の間から会話が消えると、世界は凍ったように時を止め、まるで眠る森で私たちだけが静かに呼吸をしているかのようだった。
カリガネは夜のしじまに寄り添うように、声を落として言う。
「こんな寂しい夜の森に一人きりにしてすまなかったね。心細かっただろう?」
「平気よ。私だけ取り残された時には、さすがに慌てたけど、すぐに戻って来てくれたじゃない」
「ようやく見つけたんだ。君を一人になんてしないさ」
カリガネは口元に笑みを浮かべ、私の顔をまっすぐに見つめてくる。
私の肩に押し当てた手が重い。
意識して目を反らすのも変だと、私もカリガネから目を離さなかったせいで、しばらく見つめ合う事になってしまった。
カリガネの視線が私を油断させない。
どうしてこんなに緊張するのかしら……。
膝の上で重ねた手のひらが硬直している。さり気なく指の位置を変えてみようかと、意識すればするほど指先が固くなる。
カリガネの手が私へとゆっくり伸び、その顔が近づいて、ハッと我に返った。
「あぁ……そっか!」
緊張の正体に気が付いて、はにかんで笑ってしまった。
胸がドキドキするのは、カリガネがあまりにも綺麗だからだ。
「えへへ……! 顔が近くて恥ずかしいわ! なんか変な感じね。もしかしたら私って美女に弱いのかも! 意外な弱点だったわ。だからカリガネ、あんまり私を見ないでよ!」
カリガネが、うなだれて唸る。
「どうしたのよ。いきなり頭を抱えたりして変な子ね」
「参った……君には負けるよ」
「笑った方が勝ちだったの?」
「ちがう、そうじゃない。けど、良いんだ」
カリガネが肩を震わせ笑うので、私もつられて笑ってしまう。
二人の楽しげな声が明るく響いて、森の静けさを掻き消した。
「ふふ! 魔界に戻ったら早く男の子に戻ってよね。年上のお姉さんと話しているみたいで、なんだか調子が出ないんだから」
笑いがおさまってから、不意にカリガネが言った。
「君とこんな風に並んで座る日がまた来るなんて、まるで夢でも見ているみたいだ」
カリガネは、一語一句を噛みしめるような言い方をする。
「これからの日々を想像すれば、楽しみしかないよ」
「何よそれ。おかしな事を言うわね」
もしかして、私がおかしくなっているように、カリガネも変になっているのかも。
……私たち誰かに幻術でもかけられているのかしら。
「ねぇ……兄殿下に相談した方が良いんじゃない? 大悪魔ですもの。きっと良い方法を知ってるわ。ううん、知らなくてもどうにかしてくれるはずよ」
カリガネの表情が曇るのは想定の範囲内だ。
だから、殿下の話はカリガネの前でしない方が良いし、なるべくしないようにしている。
でも今回は緊急事態なのだから仕方がない。
「僕が宵闇の悪魔へ助言を仰ぐ? それはありえないな」
「カリガネの頼みなら聞いてくれるわよ。それで二人の距離が縮まれば私も嬉しいし……」
カリガネは殿下を誤解している。殿下は頭がおかしいだけで、言う程、悪人ではないのに。それをカリガネは理解してくれない。
たった二人の兄弟なのに……。
「君ひとりをここには残せない」
「私なら大丈夫! カリガネを信じてるもの。だから待てるわ」
「どうしてそう思う?」
「覚えてる? 二人で蛮族の砦を攻めた事があったでしょ?」
カリガネは一瞬だけ考えると「ああ」と口を開き、渋面を作った。
「あれは、攻めたとは言わないね。捕まりに行ったんだ」
それがどのぐらい昔の事なのか、今の私にはわからない。
だけどそれは闇姫が幽閉されて間もない頃で、私が正義感に満ち溢れていた時期だったと言う事だ。
下級な魔族の一団が東の大地に砦を築き、悪行の限りを尽くしている。
この話は私の正義に火をつけた。
「ふふ! あんな魔獣が居たなんてね! 頭に生えた角で雷を呼ぶし、脱皮して大きくなるし……」
「だから帝国の騎士団ですら、手をこまねいていたんだよ」
勢い勇んで立ち向かったものの、とても二人では太刀打ちできず、逃げる間もなく捕まってしまったのは私だ。
ゆらゆらと揺れる牢屋は、まるで鳥かごのようで、目の前にあった巨大な斧は、私を半分にする為の調理器具だ。
下卑た歓喜の声は、この上なく悍ましく、手のひらの赤は先人の忘れ形見。
魔獣にとって私は、胃袋に飛び込んで来た美味しい獲物に見えたはず。
そんな私を危機から助け出してくれたのは、カリガネだった。
救世主。
心からそう思った。
そして決めたのだ。
カリガネが王になったその時、誇れる剣でありたいと。
「あの時に比べたら、今の状況は明るいわ」
「そうでもないんだ」
カリガネの表情が急に冷える。私は、それに気づかないふりをして笑顔を作る。
「どうして? 何か大きな問題でもあるの?」
「君は宵闇の悪魔が好き?」
カリガネは答えを出さずに、質問を投げかけてくる。
「もちろん。好きだし尊敬もしてるわ。だって殿下は私の師匠だもの」
「婚約者でもあったじゃないか」
「それは勝手に決められた事よ」
ザァッと風が吹き、カリガネの顔を月が青白く照らした。
ヒヤリと冷たい指先が唇に押し当てられる。
驚いたのは、まっすぐに私を見つめるカリガネの瞳と、その指の冷たさだった。
「僕は宵闇の悪魔とリンネの間に何があったのか良くは知らない。けど、婚約したと聞いて驚いたんだ」
「殿下の城へ出入りするには都合が良かったのよ」
剣や魔法を習うのに、月の半分は殿下の城へ通ってる。
だけど、それだけじゃない。でもその理由が、どうしても思い出せなかった。
私にとって凄く重要な事のはずだったのに。
「心配する事は何もないわ。それに殿下には恋人がいるし、私は二人とも大好きだもの。ねぇ、サリッサに会ったこと無いわよね? 魔界に戻ったらカリガネにも紹介するわ」
「リンネロッタ。宵闇の悪魔もあの女も、もういないんだ」
「え?」
「だからもう、殿下なんて呼ばなくても良いんだよ」
けっして冷淡な言い方では無く、むしろ諭すように穏やかさがあった。それなのに威圧される。
「いない?」
「こんな素敵な夜に、血の匂いは思い出したくないな」
うわべだけの笑顔に、返す笑顔もない。
「何の話をしてるの?」
「……リンネ」
名前を呼ばれて身構えた。カリガネを取り巻く空気の変化に気が付いたからだ。
その正体に説明がつかない。けど、隣に居る心地良さが今は無い。
「靴紐が」
言ってカリガネが私の前に跪いた。
「やめて……」
カリガネは押し黙ったまま、私の右足のかかとを自分の膝に乗せ、緩んでいた靴紐に触れた。
その指は冷静で的確に動いた。茶色の靴紐を交差させ、均等の長さで輪を作り、あっという間に形の良い蝶を作る。
「ねぇ……?」
カリガネは、まだ足を放そうとはしない。
「小さな足だね」
ふくらはぎを握るカリガネの手は冷たい。まるで体温が奪われていくようで怖くなる。
「また君と話せて良かった」
「どうしちゃったの? 変だわ」
逃げ出そうと右足を引くが、その足が鉛のように重く動かない。
皮膚の感覚が消えていることに気が付き、血の気が引いた。
「ねぇ……足に何をしたの……?」
「そうだリンネ。ずうっと君に伝えなければと思っていた事があったんだ」
「……え?」
「良い機会だ。懺悔させてくれないか」
カリガネの口調はやわらかだったが、言葉一つ一つが冷やかで、感情が見えない。
「君が捕まった時、助けたのは僕じゃないんだよ。僕は何もしていない。何も出来なかったんだ」
どういう事?
頭の中の疑問符に整理を付けようと息を飲んだ次の瞬間。
「ひゃ……!」
黒い羽根が空を舞っているのが見えた。
それが私の羽根だと気付いた時には、カリガネの背後に月が輝いていた。




