心ある場所-6
人間界の空に現れたドラゴンは、白群色の鋼鎧を持つ飛竜。
方角的には学校の真上。あの巨大な翼を見るに数回の羽ばたきで、こちらへ飛来し得る近さだ。
「カッコイイな! 俺は子供の頃から猛烈にドラゴンが好きなんだ。人間界にもいるのなら、早く知らせて欲しかった!」
感情的になり、無意識に声を張り上げていた。
実に姿、形の良いドラゴンだ。飛竜の特徴でもある二足と太い尾。長い首の曲線は優美で、風を受ける皮膜の翼は均整が取れている。
上空を旋回するドラゴンが、体をくねらせる度に体表は陽を反射し、神々しく白銀に光り輝いた。
「夏帆、よく見ろ。あの煌きを刻むような体躯! 鋼鎧の皮膚は硬く、並の武器では傷の一つも付けられないだろうな! ん? どうした?」
俺の袖を掴む夏帆の、その手が緊張していた。
夏帆もまた俺と同様ドラゴンの美しさに、感銘を受けているものと思ったが、どうも様子がおかしい。
「お、お姉様さま……」
ひどく真面目な表情で俺を見下ろし、声を震わせながら言った。
「に、人間界にドラゴンはおりませんわ!! ド、ドラゴンが……あ、あんなに大きいなんて……」
驚いた。好奇心の塊のような夏帆がドラゴンの存在に怯えるなんて。しかし、逃げると言わせないのも好奇心からだろうか。
それにしても、ドラゴンが人間界にいないとすれば、あれはどこから来たんだ?
「おい、くそ猫。あのドラゴンはどこから沸いて出た?」
石に背を擦り付け、転がるホズミに声をかけた。
ずっとこの場所に居たのだ。事の始まりから見届けていただろう。
「ニャ?」
返されたのはキョトンとした顔にマヌケな鳴き声。
ホズミの目にドラゴンなど、珍しく無く、興味も無ければ、恐怖も無い。ありふれた鳥のよう気にも止まらないのだろう。
いや、とりわけて愚かなるホズミには、怪異も奇異も無い。ホズミという小鬼は、断崖絶壁、大穴の開いた古い橋の上に立ち、さんざん飛び跳ねた挙句に足元を踏み抜き、落下の途中でようやく危機に気づくような愚かしい者なのだ。
「聞くだけ無駄だったな」
頭の上に木屑でも落ちてくれば、この場から動けない事の危うさが分かるだろう。
……大きな落下物に期待する。
「グォォォ!!」
ドラゴンが吼え、天上へ白い光を吐き出した。夏帆が悲鳴を上げて飛びついてくる。まるで星のように瞬いているのは、氷だ!
氷息する飛竜など、今まで見た事も聞いた事もない!
「驚いたな……!」
「あ! お姉さま!? お待ちになって!」
間近で見たいという衝動を抑えられず、夏帆を振りほどき翼を開くと一気に空へと急上昇した。
怯えながらも夏帆が「連れて行ってくださいまし!」と叫ぶが、その声は遥か下方「歩いて来い」とだけ答えたが、その声が届いたかどうかは分からない。
夏帆の家とドラゴンの居る学校とは、大きな通りを隔てた隣同士の位置関係にある。
それぞれの敷地は広大で緑地が多く、隣という感覚は無かったが、上空から見下ろして初めて隣り合っているのだと実感できた。
しかし今は、飛行できる翼を再び手に入れた感慨に耽っている時ではない。
「……人間界でこうも珍しいドラゴンと出会えるとは!」
それも、とびきり美しいドラゴンだ。否が応でも気持ちが高ぶる。
空を覆う巨大な翼、太い尾、鉤型の鋭利な爪。
どれも美しく魅力的と思えるが、突如現れたドラゴンは人の目に絶望と映るようだ。
ドラゴンとの距離が詰まるほど、地上を逃げ惑う人間たちの悲鳴が大きく聞こえてくる。しかし、その声すら俺の気分を高揚とさせるのだ。
氷の粒が上空で風に混ざり、全身へと冷たく打ち付けてくるが興奮が勝り苦にならない。
「だが、場所が悪い」
ここは穂積らが学ぶ校舎、その真上。
休日とは言え、校内には少なからず生徒らが居るようだ。
教室の奥で息を飲んでいるのが、割れた窓ガラスの向こうに見えていた。
「……まずは、人の少ない場所に連れていくか」
風に煽られないよう、慎重に飛び、ドラゴンの背に着地した。
「うぉ……滑る……!」
白群に輝くドラゴンの体表は、まるで氷上。しっかりと腰を落とし、バランスを取らなければ立って居られない。
おまけに夏帆から譲り受けた先の丸い靴は、装飾的ではあったが機能性がない。靴底はツルツルだ。
足元はドラゴンの硬い鋼鎧。転ぶわけにはいかなかった。
「這っていくか……」
どうにか頭部まで進もうと、手を付いた。思いのほか冷たくは無かったが、ささくれた硬い鱗が刃先のように尖り、注意深く進まないと指先を傷つけかねない。
だが、指先だけに気取られている間は無かった。覆う黒い影に身を低くする。
「あぶねぇ……」
ブンと音を立て、頭上スレスレをドラゴンの翼がかすめていったのだ。
しかし、安堵する間もない。
今度はドラゴンの体が大きく波打ち、揺さぶられる。
ドラゴンの振り上げた長い首が大きく仰け反り、 背の俺へと迫ってくる!
「うお……」
慌てて首の方へと飛びついた。ドラゴンの体が傾き、腹部が大きく膨張する。次に前屈し氷息を吐き出すのだろう。
「グォォォォォオオ!!」
その地響きのような吼え声に、歓喜の声を上げたのは俺だ。
「腹の底に響くような咆哮!! たまらねぇな」
しかし、向かいから来る氷混じりの冷たい風は容赦が無い。外気にさらされ無防備な顔や手足が冷たく千切れそうに痛い。
ドラゴンは背に俺が居る事に気が付いていないのだろうか。
「おい! お前、何処から来た?」
尋ねてもドラゴンは答えない。
若いドラゴンなのか、知能は低いようだ。
「とにかく、別の場所に移ってもらうからな」
どうにか、首を登りきり、頭上へ飛び上がると、突き出た二本の大角を握った。その途端、ドラゴンは暴れ、長い首を激しく左右に振る。
「嫌がるな! そう暴れるなって! おい!」
まるで陸に上げた魚のような暴れ具合だ……!
太い尾がしなり、先端にある槌のような突起が校舎の壁を打ち砕いた。瓦礫の雨が、ドスンドスンと重い音を立て地上に降り注ぐ。
ヤバイ……。
大きな瓦礫が、運悪く真下にあったブロンズ像の上に落ち、頭から二つに割れた……。
夏帆の爺さんの胸像だ。
「ギャオオォォ!!」
氷息に南面の校舎、その壁面が霜に覆われていく。凍りついた窓ガラスがバリンと破裂音をあげた。
「言う事を聞け……! 学校が壊れるのはマズイ!」
だが、俺がいくら喚こうともドラゴンは聞く耳を持たない。力の限り暴れているようにも見える。
大穴が開き削れていく校舎、凍りつく景色……。
「くそ!」
氷息と強い風に耐え、振り落とされないよう大角を掴んでいるのが精一杯だ! その上、上下左右無く揺さぶられては、この非力な少女の腕がもたない!
しかたなく、ドラゴンから飛び降り、地上へと着地すると、羽ばたきから起こる強風と、降る瓦礫から身を守るため、建物の陰に隠れた。
見上げた四階建て校舎は、屋上から二階部分にかけて大きく崩れ、無残にも鉄筋が剥き出しになっている。
……しばらく休校だな。
穂積が喜ぶなら、まぁ良いか。
「それより一番の問題は目先のドラゴンだ」
行動の不可解さには首を傾げずにはいられない。
ドラゴンとは知性的で思慮深い獣だ。並の獣とは違う。だからこそ分からない。このドラゴンは学校の上空を同じ軌道で旋回し、氷を吐き、咆哮を見せるだけなのだ。
それに意味があるとは思えない。
「そもそも人間界に魔界のドラゴンが迷い込む事などありえるのか?」
いや、ドラゴンの魔力が境界を越えるほど弱いとは思えない。人間界のドラゴンだからこそ知能が低いのだろうか。
夏帆が知らぬだけで存在するという可能性も……。
「それにしても、見れば見るほど、惚れ惚れするようなドラゴンだなぁ」
知性は無く気性は荒いが、あの獲物を狙うかのような鋭い赤眼も良い。
このドラゴンを人間界で乗りこなす事が出来れば――
ふと、自分の心が弾んでいる事に気が付き、無性に可笑しくなった。
ついさっきまでの俺は、焦燥感にかられた挙句、己の存在に見切りを付ける事すら考えていたじゃないか。
楽しげな事があれば、それに惹きつけられる。なんて単純な性格だろうか。
「フッハッハハハッ! バカバカしい」
気が付けば声を出して笑っていた。
「なぁ、あのドラゴンを手懐けたいとは思わないか?」
もう一人の俺に声をかける。先に消えた少女だ。
当然返事は無い。
だが、この胸の高鳴りが答えなのだろう。
二人分の期待感を共有してやる。
羽ばたきと咆哮の間に“ウーウー”とサイレンの音が混じり“バリバリ”とけたたましい音を立て上空から何かが近づいてきた。
ドラゴンの脅威に人間たちが集まっているのだ。
人間にドラゴンを捕らえる事が出来るとは考えられないが、先手を打った方が良いだろう。
「よし、やるか」
いざ、臨戦態勢。
今ある魔力の底は計り知れない。知らぬまま使う事に不安はあるが、方法はこれしかない。
翼角を高く上げ、思いきり翼を広げると、体内の熱量を魔力に変えるべく、腹に力を入れて立つ。
風でスカートが大きく捲くれ上がり「恥ずかしい」そう思った今の気持ちは、もう一人のものだろう。
ふっと息を吐き、両手を真っ直ぐ前に伸ばした。
「一撃で打ち落としてやる」
空を覆う巨大な影を睨む。
「我が名はリュウト・エテルナ賢人の真理、常闇の王……!」
しかし名乗り上げた言葉は、むなしく、ただの音として響く。
……ああ、そうか。
もうすでに、この体は俺のものではないのだ。
そう思った途端、唇は勝手に動いていた。かつて術を紡ぐたびに口にしたはずの名前。
「我が名はリンネロッタ・エテルナ! 空劫の水鏡!」
胸を温かいものが満たしていく。
どうして今の今まで忘れていたのだろうか。空劫の水鏡。力のない少女が空漠とした無に囚われないようにと、宵闇の悪魔から与えられた楔だ。
保水性の高い紙に墨を落とした時のような、心地の良い浸透感と共に、熱を帯びた指先から、黄金色の光が輪を描いて溢れ出す。
「黄昏の金剛!」
天地間に存在する、数限りないすべてのものが己と同調し、均等に糸を編むような神経質さで、繋がっていく。
眩しい程に明るいその光は、ドラゴンの方角を見上げる円錐の光の束となった。
――これが、私の力……!? 悪魔の力……!
やがて光は巨大な大砲の形を取る。
――すごい! こんな高度な術が私に使えるなんて!
体と心が別々に動いているような、不思議な感覚に翻弄されたまま、次の術を唇が紡いだ。
「醒石するヴィシャス!」
地面から沸いた黒い煙が、中央のくびれた砲弾へと姿を替えた。その先端には尖塔に似た三つ鋲が鈍く光る。
「装填!」
ドラゴンに照準を合わせた砲塔は、砲弾を得て静かに控える。
羽ばたきの間を狙う。回遊するドラゴンが巨体を傾かせ、白郡の体躯が銀に輝くその瞬間を待つ。
背の翼は根が溶けそうなほど熱く、ドラゴンを追う目はひどく乾いている。体力的、魔力共に限界だ。
タイミングは一度限り。外せば次の機会はない。
強風が吹きつけては、地上の全てを巻き上げていく。
細めた目に銀色が映る。
「窮地の神導、水盆の涓滴、万丈を熟し撃て!」
光芒一閃 (こうぼういっせん)。放たれた砲弾は、ドラゴンの顎の下に命中すると、黄金の光でその体を絡めとった。
動きを封じられたドラゴンは羽ばたきを止め咆哮をあげながら、瓦礫を巻き込み地上へ墜落していく。
轟音と大地を揺らし、舞い上がった砂煙が校舎を包む。
「やったわ! すごい! 大成功―!」
衝動的に、高く突き出した右腕を思い切り引く。
さすが、俺だ。
それにしても、この身にこれほどの魔力があるとは!
しかし、これでは魔界に帰れないのではないか?
一抹の不安が脳裏を過ぎり、ドラゴンを打ち落とした爽快な気持ちに、陰惨な影が落ちる……。
帰れない?
反芻した言葉が深く胸に突き刺さる。
言いようの無い不安と恐怖。
足元がぐらついた。まるで底の見えない黒い沼にズブズブと飲まれていくような、嫌な感覚。
帰れない、怖い。
もう一人の強い動揺が、意味もなく胸を締め付け息が苦しくなる。リンネロッタの名で魔力を使ったせいだろうか、少女の気持ちが強くなっている。
大丈夫だ、落ち着け。怖くない。帰る道が無いわけではない。
そう自分に言い聞かせるが、俺の中に在る彼女は、まだ子供だ。受け止めきれない。
寂しい、怖い。一人きりでどうすれば良いのか分からない……。
「グォォォォ……!!」
ドラゴンの咆哮が砂煙の向こうに響き、現実に引き戻される。
「……そうだ、ドラゴン!」
いつの間にか不安な気持ちが消えていた。
大丈夫。確信はないが、誰かにそう言ってもらえたような心強さがあった。
「ドラゴン、乗れるかなぁ……」
一人でドラゴンに乗った事なんて無い。少し怖いが、楽しみでもある。
ドラゴンへと踏み出した足は、無意識に駆け足になっていた。
「……あれ?」
走る足が止まったのは、強烈な違和感のせいだ。歩き出せば落とし穴に落ちそうな予感すらある。
「ここ、どこ? 魔界じゃないわ……」
感じたことの無い空気。覚えの無い風景。
違和感はそれだけじゃない。昨日までの事は思い出せないし、明日の予定も分からない。
名前や身分、それに大切な事は全部覚えている。なのに、今の状況が把握できない。
心臓が大きく動いたのと、ドラゴンが咆哮を上げたのは同時だった。
「私があのドラゴンを打ち落としたのよね……」
でも、どうして?
少し考える。
誰だかは、わからないけど……女の子と一緒にいて、そこにドラゴンが現れて……ええと……その前はまるで思い出せない。
次に窓ガラスに映る自分を見て驚いた。
「……」
見た事が無い。
でも、そんなはずは無い……私ってこんな顔だったかなと、驚いたのだ。
頭で考えていたよりは、大人びた顔をしているとは思った。なぜか自分の年齢が思い出せない“正しい”がまるで分からない。
「どうしよう……」
不安が口に出ていた。
「あれ?」
砂埃が落ち付き、地面に横たわるドラゴン、その全体が見通せるようになると隣に人影がある事に気づいた。思わず身構える。
人影はドラゴンの額に手を付きながら、まっすぐにこっちを見ている。
逆光で顔は良く見えないが、髪が銀色に輝いていた。
見慣れた髪の色に安堵を覚えるが、それは間違いだとすぐに気が付いた。
……あれは、女性のシルエットだ。
隣のドラゴンがいやに従順なのを見るに、この女のドラゴンなのかもしれない。
とにかく、ここが何処なのか女に聞くしかなかった。
「……それあなたのドラゴンなの? 綺麗なドラゴンだけど、気性が荒いわね……」
言葉が尻すぼみになったのは、女の美貌にたじろいだからだ。
知性的な翠眼をもつ眼鏡の美女が、驚いた顔で私を見下ろしている。
美女は一見威圧的で、近寄りがたい知的な雰囲気がある。なのに、不思議とそれに親しみやすさを覚えた。
「ねぇ、ここがどこだか分かる? 良かったら、そのドラゴンで家まで送って欲しいの」
女は驚きの表情を崩さず私を凝視し、時折「あ……」だとか「お……」だのと言葉を詰まらせている。
「もしかして、口が聞けないの」
尋ねると女は首をぶんぶんと大きく左右に振り、深呼吸を繰り返した。
奇行を持ってしても美貌は保たれ、紅潮した頬は色っぽくも思えた。
「……驚いて……」
女はようやく口を開くと、両手を開き前のめりで近づいてくる。抱きしめられそうな気配を感じ、大きく一歩後退した。
「な、なんなの……? そ、それ以上は近づかないでよね!」
声をかけてはいけない人種だったのかもしれないと、後悔を覚えた……。
「我慢する……もう、逃げられたくは無いからね……」
私の顔を無遠慮に眺め、女が感嘆の声をあげた。
「だが……その姿は想像していなかった……! 見た事の無い君にこんな場所で会えるとは……! 昔から、君には驚かされてばかりだな……今朝の子供も君だったのだろう……?」
「子供……?」
「ふふっリュウトがこの学校に居る事は分かったのに、なかなか現れない。その上、誰に聞いても居所が分からないときた。まさか姿が変わっているとは思わなかったよ。見つからないはずだ」
嬉しさが堪えられないという様子で、女は目尻を下げ頬を緩ませている。
「そのドラゴン気に入っただろう? 近くに居るのなら、おびき寄せる方が早いと考えてね。本当はリュウトの欲しがっていた溶岩竜を用意してあげたかったが、時間が無かったんだ」
女は私の事を知っているような口ぶりで言うが、私にはまるで見当が付かない。
「さっきから何を言ってるのか分かんないわ! リュウトって誰よ! 人違いだわ!」
「……リュウトじゃない?」
女の声の調子が落ちた。少し戸惑っているようだ。
「私はリンネロッタ! いずれ大悪魔となる予定の悪魔よ。この名前を覚えておくといいわ!」
今のうちに恩を売っておいた方が良い。とも、付け加えドラゴンを指差した。
女は神妙な顔を作り、大きく息を吐く。
「ああ……おかしいと思ったよ。戻っているのは姿だけではないのかい? 聞いた話とは違うが、好都合だ。そうか……君はリンネなんだね……」
親しい者にしか呼ばせない名前が、女の口から出た事に驚いた。
「ねぇ、私を知っているの? あなたなんて知らないわ!」
「……僕が分からないのかい?」
女は息を飲むほど、美しく微笑んだ。
「僕はカリガネ。約束通り迎えに来たよ、お姫様」
翠色の瞳にうっすらと涙を湛え、女はそう言ったのだ。




