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心ある場所-5

 

「お姉さま、今夜は帰しませんわよ」


 囁かれた言葉に、たじろぎ、逃げ腰になったが、ワンピースのバックリボンを手綱のように引かれ、元の位置へと戻されてしまった。

 突然何を言い出すのかと、できうる限りの冷たい目で見つめてみたが、にっこりと微笑み返される。

 夏帆の心は強い。


「ですから、今夜は夏帆の部屋にお泊りになって……!」


 なるほど。何を言いたいのかは理解できた。


「……お前、俺を襲う気だろう」


 唇が触れる寸前でお預けを食らったのだ。夏帆が性欲を持て余していたとしてもおかしくない。


「まぁ! 酷い言われようですわ! お姉さまったら夏帆をそういう子だと思っていらしたの? 夏帆はただ、お揃いのネグリジェを着て……同じシーツに包まりながら指を絡め合って……お姉さまと朝までずっと一緒に居たいだけですのに! そんな軽蔑するような目で見ては嫌!」


 妄想に鼻息を荒くする夏帆に、力いっぱい抱きしめられ「ヒッ」と悲鳴が漏れた。

 口づけ一つしようとしただけで、俺の胸はあれほど羞恥に高鳴ったのだ……これ以上、夏帆に心を乱されるのはごめんだ。

 なるべく夏帆の体に触れないよう、体をひねりながら腕の中から抜け出し、両手を突き出して構えたのは「これ以上近づくな」意思表示である。


「……今、襲ったじゃねぇか!」

「ハグは愛情表現の一つですわよ」

「愛情を示すのなら別の方法にしてくれ! とにかく俺に触れるなよ! この体、何かがおかしい。いつもと違う……」

 

 成長したのだ。違って当然だが、そういう単純な事ではない。

 この奇妙な感覚は、最初に女になった時のような、肉体的な違和感とも違う。精神的な隔たりが不気味なのだ。

 しかし、その事を夏帆に言葉で伝えるのは難しい。


「どこがおかしくて? ガラスケースに飾りたいくらい、可愛らしいですわ」


 俺を見下ろす夏帆は、恍惚(こうこつ)とした表情だ。

 もはや傾倒を超えている。盲目的な狂信者のようにも思える。


「フン。容姿の話ではない。この体がどうにも、馴染まない。それに肉体の年齢につられ、精神まで幼くなったように不安定なんだよ」

「夏帆には分からない感覚ですわ……」

「お前に穂積の服を無理やり着せたら、どうする?」

「すぐに脱ぎますわ!」


 夏帆は嫌悪あらわに即答する。とりわけ服にこだわりのある夏帆だ。迷いは無い。


「七瀬先輩のような、カジュアルで気の抜けたお洋服、夏帆には似合いませんもの! 考えるのも嫌ですわ……!」


 二人の趣味は天と地ほど違う。穂積に同じ事を聞いても、良い顔はしないだろう。


「そういう事だ。俺は今、着心地の悪い脱げない服を着ている」


 夏帆は心底同情した目つきで「お可哀相に」と嘆いたが「お姉さまは何を着ても素敵ですわ」と、励まされ、それに深いため息で返した。

 ここ、クラブハウスの更衣室内、いくつか並んだ洗面台、その鏡には、美麗な顔に憂いを浮かべた少女が映っている。

 たまらず鏡面に手をつくと、少女と手が重なり合った。ぬくもりを感じない事を不思議とさえ思う。


「成長したのは喜ばしいが、こうも落ち着かないのなら子供の姿の方がマシだったな」


 今朝までの体は高い所に手は届かず、言葉も出にくく、すぐ眠くなると、苦労も多かったが、履きなれた靴のよう、最初からしっくりときていた。

 だが、この体は違う。

 サイズの合わない靴に、無理やり足を押し込められたような窮屈さ。長く歩けば負傷する予感すらある。


「夏帆は、どんなお姉さまも好きですわ!」

「フン。まぁ、急激な身体の変化と、増幅した魔力に疲労しているのだろう。あまり俺を刺激するなよ」


 暴走した魔力をあの小さな体で受け止めたのだ。内なる魔力のバランスは、相当悪いはず。

 夏帆の申し出どおり、休んで帰った方が良いかもしれない。だが、別室を用意しろと伝えれば、夏帆は拗ねるだろう……。


 うんざりと息を吐き、顔を上げると、鏡の少女と目が合った。

 面影はあるが、初めて見る顔だ。俺がこの少女の年齢の頃には、少年として寄宿舎に入っていたのだから当然か。

 ここに居ないはずの少女が目の前に在ると思うと、背筋が冷える。


 ……この少女はいつ消えたのだろうか。


 思い出したとはいえ、過去の記憶は断片的だ。特に少年と少女の境界は曖昧で、いつから肉体に変化が起きていたのかは、まるで分からない。

 過去、少女として過ごしたであろう記憶は、少年であったものと錯覚し、ごく自然にすり替わっている。おかげで、俺は何の疑いも無く男へと成長を遂げたわけだが……。


 過去を思えば思うほど、霧の中で輪郭だけ見ているようだ……。


 ため息しか出ない。

 ふと、鏡の少女が髪に飾るリボンの赤が、目に付いた。夏帆が俺の着せ替えを面白がり、好きに巻いた物だが、少女を年齢より幼く見せている。

 鏡の少女が薄茶色の瞳を細め、清楚な桃色の唇をきつく結んだ。


 「……!?」


 なぜか突然、体が強張った。喉がつまり、声も出ない。唇が糊で張り付いたかのように、言う事を聞かないのだ。

 どうしたんだ?

 動こうと思えば思うほど、体は硬直し、思い通りにはならない!

 まるで重い鉛が全身に絡み付き、拘束しているようだ。

 しかし、動けない俺の意識に反し、鏡の少女の唇が動いた。


「ねぇ。このリボン取っても良い?」

「駄目ですわ、よくお似合いですもの! お姉さまの可愛らしさを引き立てるのに、リボンは絶対に必要ですの!」

「でも私、女の子らしいのって苦手なの! だから髪は、こんな二つ結びじゃなくて、編みこんで纏めてしまうのが好きよ。だって邪魔にならないし、動きやすいでしょ? それに、この位まで切っても良いと思わない?」


 肩に髪を押さえつけた私に、夏帆が不満そうな顔を作る。夏帆はすぐに表情に出る。私より年上なのに、ずっと子供っぽい。


「切るなんて、もっと駄目ですわ! せっかくの、お綺麗な髪……! もったいない事なさらないで!」

「母上も同じ事を言っていたわ。それに殿下も髪は切るなって言うし……」


 銀色の髪の青年を思い浮かべた途端、胸が苦しくなる。目頭がツンと刺激され喉元にせり上がってきたものを堪える。どうして泣きたくなったのかは分からない。とにかく、それを誤魔化すよう、スカートの裾をきつく握り締めた。


「殿下?」


 夏帆は面白い単語を聞いたとばかりに、今度は表情を緩めて聞き返してきた。

 “殿下”を陛下の息子以外の意味で夏帆に説明するのは、少し難しいし、詳しくは言いにくい。

 少し考えて、そう遠くない言葉で伝えた声は上擦っていた。


「友達よ」


 もう一度、銀色の髪の青年を思い浮かべ「友達かな」と、心の中で尋ねた。もちろん返事は無い。

 胸の傷みの変わりに感じたのは、心細さだ。

 ずいぶん長い間、会っていないような気がしてくる。


「お姉さま?」

「……ごめんなさい。ボーッとしちゃったみたい……あれ?」


 見上げた先、私と同じ髪型の女の子、その名前が出てこない事に驚いた。

 知っているのに、まるで知らない。

 どうしたんだろう……! 


 ギュッと目を閉じて、ゆっくり目を開ける。


 心配そうな顔の夏帆と目が合った。


「どうされましたの? 顔色が悪いですわ……」

「……ああ」


 返答に窮して出た相槌というより、自分の声がちゃんと出るかの確認だった。


「大丈夫だ」


 大丈夫なのは言葉だけで、声が震えていたのは自分でも分かったが、それを恥じる余裕を持つほど、冷静ではなかった。

 脱力からスツールに腰を落とし、目の前の化粧台へと突っ伏した。腕の間から見える指先が、小刻みに震えていたが、視界に入らないよう目を閉じる。狼狽する夏帆の声だけが、耳にうるさい。だが、構ってもいられない。


 今のは一体なんだ!?


 自分の体が、まるで乗っ取られたかのよう、意識と逆らう動きを見せたのだが……。

 ……いや、それは最初だけだ。後は確実に自分の意思だった。

 しかし、リボンに不満を感じ、夏帆に伝えた趣向は、俺のものではない。

 女の体を着飾る事に楽しみを見出し、励んでいたのは俺だ。今やリボンを身に着ける事にも抵抗は無いのだから。


 自分で出した答えに、鼓動が早まった。


 ……落ちつけ。気をしっかり持っていれば、それで良い。


 そう自分に言い聞かせ、額の汗を手の甲で拭う。

 深く息を吸い込み、鼓動を数えて心を整える。


 ……過去に侵食されている? いつから?

 夏帆と口付けしようとした時に感じた、あの、うぶな乙女のような感覚。あの時には……。

 ……いや、もっと前からだ。

 夏帆とのやり取りは、全て覚えている。だが、己の過去を振り返った時に感じるような曖昧さ。

 リアルな夢を見ているようだ。現実に起こった出来事なのか、そう錯覚しているのかが分からない。

 まるで、無色透明の水で満たしたグラスの中に、一滴だけ落とした色水が自然と馴染んでいくように、それは交じり合うのだ。

 そして、気づかないうち、色水の分量が増え自分が透明な水であった事さえ忘れてしまう。

 それが過去、女の身の上で起こった事なのだとすれば、今度は逆に男であった記憶が薄れ、このまま体が成長すると言うことも起こりえるのか?


 まさか! 冗談じゃない!


 女としてすごした幼少期のある事は受け入れたが、それは過去の事としてだ。

 俺は男であり、生涯女として生きるなど苦痛だ……! 

 だが、そう思う今の俺も少女の記憶に乗っ取られ、消えるのか……? ……俺が? まるで偽りのように。


 ふと、物のように朽ちたホムンクルスの俺が脳裏をよぎった。


 ただ消えるくらいなら……ホムンクルスが自らの幕を引いたように……岩窟で胸に刃を付き立てた時のように……。


「……お姉さま……大丈夫ですの?」


 夏帆の呼ぶ声に顔を上げたのと、それは同じに起こった。

 腹の底に響くような、重低音とともに建物が小刻みに上下し、窓枠がカタカタと音を立てはじめていた。

 ガラス窓の向こうでは大木が幹をしならせ、葉を落としてる。


「な、何ですの……?」


 不安な声色の夏帆だが、座る俺に覆いかぶさり、まるで守るような仕草を見せた。

 その事が妙におかしく、張り詰めた気が少し緩んだ。


「……見てこよう」

「でも……お加減が悪いのではなくて?」

「守られるのは性に合わない」


 言って外へと飛び出し、目に飛び込んだのは、ここより数百メートル先、茜色の空に悠然と浮かぶ鋼鎧(こうがい)の飛竜。

 羽ばたきの起こす強大な風は、雲を呼び、あたりを薄暗くさせた。そして、木々は煽られ、咆哮に大気が振動する。


「お姉さま……! あれは……?」


 後から来た夏帆が、悲鳴を上げた。


「ドラゴンだろ。他に呼び名があるなら知らないが」


 まさか、人間界にもドラゴンがいるとは思いもしなかった。




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