心ある場所-3
夏帆の家は、平均的な人間の家と比べ、圧倒的な敷地を誇る。
穂積の狭小な部屋など、夏帆のクローゼットと同等、もしくは負けているだろう。
当然、庭も広大だ。
手入れされた樹木と池のある庭園を、回遊するよう歩き、森の中かと見紛うような小道を抜けると、開けた芝の広場へと出た。
「ここで良いだろう。くそ猫、力を貸せ」
「ニッ」
ホズミは指示した石の上に乗ると、尻尾と耳をピンと立てた。頭に付けた不似合いな黒いリボンが向かい風にそよぐ。
このリボンは、ハゲを隠すために夏帆が巻いてやったものだ。
主人に手をあげた事は忘却の彼方。今は魔界へ帰ると張り切っている。
「どのような魔法をお使いになりますの?」
当の夏帆は好奇心の塊と化し、どこで得た知識か不明だが、属性がどうとか、代償の有無やらと、この芝の庭に出るまで、俺を質問攻めにした。しかし、術の公式を一から人間に説明するなど面倒だ。
「ドーンと魔力を放って、バーンと戻って来るのを待つ」
さすがに、通り一遍の説明では不満なようだ。今まで見せた事の無い、怖い顔で睨まれた。
「……微弱な魔力を蜘蛛の巣のよう、町へと放射状に張り巡らせて、魔界と人間界との境界を探すんだよ」
魔界を探す方法はいくつかあるが、この方法が一番手軽で使う魔力も少ない。ただし一番回りくどく、効率も悪い。
その上、今の俺が持つ魔力では、境界を探しに巡る魔力の範囲も、半径数百メートルと狭いだろう。
見つかる確立は極めて低いが、夏帆はすでに境界を見つけた気でいるようだ。
「境界……そこに魔界の入り口があるのですわね!」
紅潮した頬に薄く笑みを浮かべている。
「正しくは『魔界と人間界とが、重なりきれずに時空が歪み、互いの世界を干渉し合う場所』だな。人間界と魔界との間には、そういった境界が数多くあるのだ」
夏帆は俺が何を言っているか、分からないような顔を作るが、かまわず話を続けた。
「その多くは“門”により閉ざされ、人の力で見つけるのは難しいだろう。まぁ、知らない世界など無いも同然、難しく考えるなよ」
魔界の者にとってもそうだ。
長い魔界の歴史の中、魔力の少ない者は淘汰され続け、今や境界を越え人間界へ行ける者も限られる。
俺にとっても人間界など、存在を知るだけの世界。そもそも興味すらなかった。
重なり合い、干渉し合う二つの世界は、近くに在るが遥かに遠いのだ。
夏帆は唇を尖らせ「魔女や悪魔が行き来する世界に憧れますのに」と嘆くが、もしも、そんな世界になったなら、真っ先に滅ぶのは人間だ。
「ニャー」
ホズミは恥じらいもなく大きな欠伸をし、目を細めてこちらを見た。
やる気を削がれ、退屈なのだ。
「さぁ、無駄話はここまでだ。故郷への路を探そう」
「お姉さま、夏帆も魔界へ連れて行ってくださいましね!」
言いたい事は山ほど頭に浮かんだが、言葉にするのが面倒になり、ただ曖昧に頷いた。
「ホズミ、用意は良いな? 出し惜しみせずに魔力を開放しろ」
向かい合わせのホズミが、ようやくの出番に尻尾を揺らし、低く鳴く。
「ニャアァ……」
全身の毛が逆立ち、体が膨れる。
牙を剥き、爪を立て、鋭く赤く光る瞳。陽だまりで腹を出して眠る日常的なホズミの姿とは、明らかに違う。魔界の獣そのもの。
威圧的な空気に、夏帆がたじろいだ。
「夏帆、危ないぞ。少し離れていろ」
「は、はいですわ」
周囲に漂う、ただならぬ気配に、夏帆が素直に遠ざかる。危険を本能的に察したのだろう。
それを見届けると、指を二本立て、空気を裂くようヒュッと腕を振り上げた。
「お姉さま、可愛らしい……!」
遠く背後から聞こえる夏帆の声に、舌打ちで答えた。
……この幼児体型では恰好がつかない。子供が一生懸命に背伸びをし、号令を出すポーズを取ったようにしか、見えないのかもしれない。
だが、可愛いなどと言っていられるのも今のうちだ。
「千古不易なる清閑!」
言葉に反応するように、ピンと張り詰めた静寂が訪れた。風が止まり、不穏を感じ取った鳥が木々からいっせいに飛び立つ。
夏帆が服の裾を掴み、息を飲む音がいやに大きく聞こえていたが、その気配もやがて消えた。
世界に独りきりであるかのように、神経が研ぎ澄まされていく。
呼吸を整え、振り上げた指に意識を集中させると、服の下に隠した背の翼が、ザワザワと疼く。
幼い翼が、魔力に刺激されているのだ。
「血脈に眠る連綿の連なり、我に従え」
高まる魔力の漲りに息が詰まり、呼吸は荒くなる。だが、興奮を覚えずには居られない。
欲望のままに魔力を放つ快楽を、体は覚えている。
「んぐぅ……!」
快感に声が漏れた。
心地の良い重力が、俺の小さな体を締めつけてくるのだ!
これほどの魔力が戻っていたとは……!
本能的な衝動が、次の快楽を強請る。
「千の散り行く切望の風、混沌と規律の狭間……ッ……」
振り上げていた腕は、鉛の付いた糸を引いているよう後ろに重く、小さな俺の上体を後屈とさせたが、溜め込んだ魔力は開放の時を待っている!
「……解き放て!」
重い腕を勢い良く振り下ろし、目の前のホズミへと指を突き付けた。
甘美な刺激が脳天から、電流のように体の内側を走り、指先から放出される。
ドォォォン!
爆音と共に、大きく大気が揺らぎ、世界が一瞬だけ金色に染まった。
まるで水面に石を投げ入れたかのよう、幾重にも波紋を作り、放射状に輪を描いて広がっていく。
「気持ちいい……!」
ザァァァァッッ
やがて、地の底から湧いて起こった小規模な旋風が、ホズミを取り巻いた。
「ニャニャッ!?」
動揺したホズミは、石の上から逃げ出そうとしたが、もう遅い。風の壁の阻まれ、ホズミは動くに動けない。
ホズミの放出した魔力は、この旋風が全て吸い尽くすのだ! 主人に手をあげた事を風の牢で後悔するが良い!
突然発生した暴風に、夏帆が悲鳴を上げたが、それも吼え声にも似た風の音に、かき消されていく。
境界を探す為の段取りの一つにしか過ぎないが、術は予想を大きく超え、大成功と言って良いだろう。
涙目のホズミが俺を見る。そろそろ頃合か。
「混沌の根源をめぐれ!」
バァァァァンッ!
魔力を含んだ風が爆発的に放出され、その衝撃にドスンと尻をついて倒れた。
「……こんなもんだろう」
疲労に腰が砕けそうだ。立ち上がれそうに無い。そのまま芝の上に大の字に転がると、頭に枯葉をいくつも乗せた夏帆が走ってくるのが横目に見える。
「お姉さま! 凄いですわ! これが本物の魔法ですのね! 金色の輪が空気に溶けていくのを見ましたわ!」
ホズミにハゲを作ったのも本物の魔法だが、夏帆の脳内では無い事にされたようだ。
「ニャーン!」
石の上のホズミが悲鳴を上げた。当然だ。風は去ったが結界に阻まれ、ホズミはこの場所から動けないのだから。
「ホズミ、お前は受信機だ。術が切れるまで、そこに座っていろ」
町へと放出した微弱な魔力は、境界の歪みにぶつかると反応し、中心に居るホズミの元へと戻り、その存在を知らせる。
しかし、遠くへ行くほど魔力の伝わりは遅くなる。逆もまた然りだ。それが何日後かは分からない。もちろん境界があれば。の話だ。無ければ反応も何も無い。
「しっかり役目をこなせば、俺が魔王になった暁には役職をくれてやる」
「ニャー!?」
「まぁ……結果は、すぐには分かりませんのね」
残念そうな顔の夏帆が俺を見下ろしている。
「お姉さま? 立てませんの?」
「ああ。調子に乗って魔力を使いすぎた」
夏帆が俺の手を取ろうとした、その時。
ドクンと、体が大きく跳ねた。
「夏帆! 俺に近づくな!」
悪い予感がある……! なんだ、この感覚!
「お姉さま!?」
膝を抱いてうずくまり、やがては転がりながら額を地にこすり付け、背を丸めていた。
身体が炎に包まれているように熱く、背の翼がギンギンと疼くのだ。
「どうされましたの……?」
「離れろ! 魔力が暴走しそうだ……」
溜め込んでいたマグマを爆発させるかのように、魔力が溢れ出てくる。
……体が熱い!
制御できなければ、夏帆を巻き込み、周囲の建物もろとも吹っ飛ばしかねない!
「抑える……!」
体の内で嵐が起こり、全身がバラバラに切断されていくような衝動。
魔力を遮蔽する為の繭をイメージする。すると、体の内で弾ける寸前まで肥大した魔力は、光の束となり、俺の体を包み込んだ。
俺と世界とを隔てる防御壁。
――ニャニャニャー!
その遥か外郭からホズミの声が聞こえるが、眩暈と動悸で声も出せない。
魔力は、この小さな身体の許容量を超えている……!
「うぅ……がぁ………!!!」
だが、考えるよりも先に、身体が反応を示した。
メキメキと体中の関節が音を立て、発達した翼は服を押し広げ、引き裂いた。
体が魔力に合わせ、一気に成長をはじめたか……!
「うぐぅぅ………」
柔らかな餅のようだった腕は、見る間に、しなやかで女らしい白い腕へと変化していく。
防御壁へと突き立てた指は、すでに細く長い。
肩から一房落ちた長い髪は、細く柔らかな子供の髪ではない。絹糸を思わせるしなやかな髪……。
……戻るのか!? だが女には戻りたくない……!
視界が光に包まれた瞬間、落下感覚を覚え身構えた。
ドスンッ
――お姉さま!
頭上から夏帆の悲鳴が聞こえる。
どうやら地面にめり込み、大穴を開けたようだ。
「ぐっ……!」
青筋の浮いた華奢な手の甲に、額からの汗が伝って落ちた。
このまま魔力を開放させるしかないか……?
食いしばる歯の隙間から、熱い息が漏れる。
「我が名はリンネロッタ・エテルナ! 空劫の水鏡……!」
あ……?
「回帰の神髄、中核より過ぎて我が命に従え……!」
意思とは無関係に、口は術を紡ぐ。
ビシッ
外郭が大きく裂けた。
「絶対に……絶対に負けないんだから……!」
ドスンッ
また大きく落下する。土の香り。抉れた土や小石が外郭の隙間から中へ入ってきたのだ。
「最悪!」
土を払うよう、翼を大きく開いた。
裂傷する感覚。痛みが熱となり、全身を引き裂き、遠くなりそうな気を必死で保つ。ここで気絶でもしたら、どうなるか分かったもんじゃない!
「土の中で死んじゃうなんて! 絶対嫌!」
わぁぁぁと叫びながら、再び防御壁を作り体を包む。
「土の中でなんて死ねるはず無いでしょう!」
熱の爆流、その流れに逆らい溺れているみたい! 息苦しさに地面を殴りつけた。
この熱の原因は、暴走する自分の魔力なのだ。
「言うこと聞きなさいよ! 良いわね!」
誰に言い聞かせるでもなく喚き、一気に魔力を放出した。




