幼女いろは-5
「リュウト様ぁ!!」
ホズミは歌うように俺の名を呼ぶと、尻尾をしならせ、書庫の上で跳ねた。そして、今までの鬱憤をはらすかのように、一気に捲くし立てたのだ。
「いかに私が、人間界で大変な思いをしたか聞いて下さいなぁ! 人間は下等なだけでなく、乱暴な蛮族ですぅ! 子供には追われ、老婆に捕らえられ……! とにかく最低でございましたぁ! リュウト様がお力を取り戻した暁には、人間共を根絶やしにしてやりましょう! 滅亡です! 地獄の業火で焼け野原ですよぉ」
久しぶりに、聞いたマヌケな声だが、懐かしむ間も無い。ホズミは、弾丸のように、寂しかった、辛かった、と愚痴り、挙句に腹がすいたと、喚いているのだ。
そんなホズミを、夏帆が陶酔した目で見つめ、穂積は驚きを隠せないと、言った様子で凝視し、誠司は「こんな性格だったんだ」と、鼻を押さえたまま、感心している。
だが、背筋を伸ばし、しっぽを揺らすその仕草、喋らなければ猫そのもの。
口には出さないが、不気味だ……。
まさか、ホズミが喋るとは……。でたらめに作った、この薬とも呼べない液体が効いたのか?
「猫さん、大変でしたのね……」
夏帆は、聖獣にでも語りかけているかのような、慎重さで言った。
「ですが、夏帆お嬢様! 猫缶なる食べ物は、とても美味しかったですぅ! リュウト様! 是非、魔界に持って帰りましょう! きっと、リュウト様も気に入りますよ!」
だらしなく口を開け、涎をタラリと垂らすこの姿、聖獣とは呼べない。やはり、不気味なのだ。
「少しは落ち着けお。うるさい猫らなぁ。あまり騒ぐと俺が恥をかくのらぞ」
俺の言葉が不服なのか、不満そうに口を尖らせ、尻尾を立てた。
「ですが、私、嬉しくて、嬉しくて! リュウト様! 喋れないって凄く辛いんですよぉ! 痒い所に手が届かないもどかしさ、と言いますか、常に奥歯に物が挟まっているかのようなぁ……! 言いたい事が伝わらないのは辛いのですよぉ!」
ホズミが俺に言いたい事など、不平不満に決まっている。聞かなくても問題ない。実際、不便が無かったのだから。
「その割に、リュウトはコミュニケーション取ってたよね?」
「フン。思考が単純らからな。無駄口を叩かないらけ、マシらったのに」
「そんなぁ!」
ホズミは片耳を伏せ、ヒゲをシュンと下げた。
「リュウトさん、そんな言い方しなくても……」
「猫さんがお話できるようになって、夏帆はとっても嬉しいですわ!」
「穂積さま! 夏帆お嬢様!」
「僕も」と言った誠司の言葉は、ホズミが意図的に無視した。
「猫さん、夏帆に協力出来ることがあれば、言って下さいましね」
夏帆の家で、ホズミがどう過ごしているかなど、興味が無く、今まで聞いた事も無かったが、もしかすると、ホズミと暮らす夏帆は、飼い主のような気持ちも、持ち合わせているのかもしれない。
なんせ、ホズミの三食の世話をしているのは、夏帆なのだから。
「でしたら、夏帆お嬢様! どうか教室で授業をお受けくださいな! 夏帆お嬢様が、お一人で部室に居るのを見るのは、辛いですよぉ」
「……まぁ、猫さん……! 夏帆の事を心配して?」
良いぞ、ホズミ。その調子で泣き落とし、夏帆を意のままにしてやれ。
夏帆が一般の生徒のように、教室へ登校するようになれば、金一封。そう夏帆の爺さんと約束しているのだ。
心の中で声援を送り、これならホズミが喋るのも悪くない。そう、思いかけた。
「いいえ! 夏帆お嬢様が、ご学友と親しくなさらないと、私がリュウト様に叱られるのですぅ!」
元気な声に、思わず額に手を当て、音の無いため息を吐いた。
「お前……余計な事!」
分厚い本を両手で持ち、勢いよく投げ付けたが、ホズミは反射的にするりと避けた。
「お姉さま!」
頬を膨らませた夏帆が、俺を睨む。
「もしかしてお爺様に、夏帆の事で何か頼まれてらっしゃいますの?」
「……知あない」
「……わっ! リュウトさん」
ぷいと横を向き、穂積の後ろに隠れた。と言うより、穂積の尻に抱きついた。
「お姉さま! 逃げないでくださいまし!」
「ちょっと、リュウトさん……! ひっぱらいで下さい、スカート脱げちゃいます……!」
「どういう事ですの? 説明してくださいな!」
穂積を挟んで追いかけ合う俺たちを見て「ああ」と、何かを思い出したような声をあげたのは、悪臭から逃れるため、窓辺に立っていた誠司だ。
「リュウトは、ゴスロリちゃんがクラスの一員になれるようにって、頼まれてるんだっけ? ねぇ、ゴスロリちゃん。授業は皆で受けた方が楽しいと僕は思うんだけど。ね、七瀬さん」
「……は、はい……」
穂積は、心にもない事に、気まずそうに同意する。
「そうだお、夏帆。誠司の言うとおりら」
「僕も高校生に戻れたら、もう一度部活やったり、放課後の教室で、だらだら喋ったりするのにな。一度しかない高校生活、楽しんで欲しいよ」
誠司は、自身の充実した高校生活を、懐かしむような口調で言うが、ここに居る現役の女学生は渋い顔をしている。
「もう! お姉さまったら、夏帆の事、人にあれこれ話さないで下さいまし!」
夏帆は唇を尖らせ抗議してくる。
「夏帆お嬢様! リュウト様に悪気はないのですよぉ。リュウト様は口が軽いだけですぅ! ご自身については秘密主義ですのにねぇ」
ホズミが喋るなど、ろくな事がない!
「くそ猫! お前はもう、ニャーとしか喋うな」
ホズミは目を丸め、律儀に「ニャー」と鳴いて抗議した。
その間も誠司は夏帆に、いかに高校生活が楽しいか。と、説教めいた熱弁を奮い、それを隣で聞く穂積が、なんとも言えない顔で背を丸めていた。
……付き合いきれん。
テーブルの上に無造作に置かれたティーカップ、その土色の液体をしげしげと眺める。
そして、ぷにぷにとした両手を開き、確かめるように目を落とす。
……この薬、俺にもなんらかの変化があるのではないだろうか。
幸い、悪臭にも鼻が慣れてきた。
よし。
目を瞑り、鼻をつまみ、一気に喉へと流し込み、即、後悔した。
口に広がる腐敗臭……!!
想像を絶する不味さだ……! 脳が味覚を感じる事を拒否したのか、舌の感覚が消え、声にもならない……。
さらには、目の前で花火が打ちあがったかのように、視界はチカチカと点滅している。
「……み、みず……」
「リュウトさん!? 飲んだんですか?」
体が斜めになり、ソファからズルリと崩れ落ち、バリンと陶器が割れる音を聞いた。




