幼女いろは-1
闇姫の天幕があったこの場所も、翌日にもなれば、わずかに焦げた匂いを漂わせるだけになっていた。
昼間の境内は静寂に包まれ、昨晩の祭りの賑わいが幻であったかのようだ。
その場に座り込み、腕の中のホズミに声をかける。
「闇姫と会ったのあ、ここか?」
「ニャニャニャニー! ニャッ!ニャ、ニャー、ニャニャニャニャ!」
ホズミは身振り手振りを交えて鳴き始めたが、何を言っているのか、さっぱり分からない。
だが、ホズミがこの場所で闇姫と出会い、猫の姿に変えられたのは確かなようだ。
「おまえが、ひと月たっても猫のままと言うことあ、時間が立てば治るというものであ、ないのか?」
「ニャ……?」
腕組みをして唸っていると、小さな黒い虫が足元を横切っていくのが見えた。
「人間界の虫は小さくて気持ちわゆいな。知ってゆか?人間界ではノムミュをゴキブリと呼ぶらしいお。とても飼う気にはならんな」
「ニャッ」
ホズミが前足を、虫へと叩きつけたが、目測を見誤り、その足に虫が登る。
「ニャッニャッニャ」
「うろたえるな」
虫をはらってやると、安心したのか俺の腕へと頭をぐいぐい押し付けてきた。
「おまえ、随分と甘え上手になっているであないか」
「ニャ?」
「小鬼に戻るより、猫のままでいた方が、生きやすいらろう」
矮小で魔力が弱い小鬼は、魔界では虐げられることが多い。人間界で猫として暮らした方が、可愛がられ、愛されるはずだ。
「ニャニャッ」
ホズミは、ぶんぶんと頭を振って答えた。
それでも慣れ親しんだ姿の方が良いということか。
俺はどうだ?
男に戻りたい。が、元々、女だったのだとすれば、女で居たままの方が自然なのか?
しかし、女から男になった記憶は無く、男の姿が本来の姿だと自覚している。
体は変わっていたかもしれないが、心はずっと男だ。
「ニャー」
「心配してゆのか? 大丈夫ら。……なぁ、俺は男として生きていたと思ったが、元は女らったらしい」
「ニャッ!?」
「お前も知らなかったか」
ホズミを廃墟街で拾い、従者にしたのは、十歳の頃だ。
……そう、あの時はすでに男で、その後もずっと男。
「男に戻れうと、楽観的に過ごしていたが……もし、女のままだったら、どうしたらいい?」
ホズミがどんぐりのような目を大きく丸めた。
「ニャニャニャニャッニャッニャ!」
「……そうか。俺に付いて来ゆか」
「ニャ!」
「そうだな。まぁ、なんとか なゆだろう」
ただ、これ以上ややこしくなるのはごめんだ。
「いざとなれば、おまえの耳を切り落とすからな」
「ニッ?」
「おまえが切り札だ。しっかりその耳に魔力を溜め込んでおけよ」
「ニ゛ャ!?」
ころころ性別が変わるなど、父王らの策略に違いないのだ。絶対に復讐してやる。
そうと決まれば、前向きに考えよう。
せっかく子供になったのだ。
アミと、その友人の幼稚園児どもと、モモリンごっこでもして遊んでくるか。
子供らときたら「お姉ちゃんは大人でしょ」と、怪人役を押し付けてくるが、今の俺は同年代の子供なのだ。
本物の魔法少女がどんなものか、見せ付けてやろうではないか!
それに、この身に起きた事は悪い事ばかりではない。
背に、翼が戻ったのだ!
本来なら見せびらかして歩きたい所だが、目立つからと穂積に服の中に隠されてしまった。
その上、小さなリュックを背負わされているので、人間の子供に見える事だろう。
「よし!」
立ち上がり、膝の土を払った、その時。頭上に黒い影が降りてきた。
驚いて見上げる。
若いとも言い切れない年齢の、見知らぬ男が、俺の背後に立っていた。
「お、お嬢ちゃん一人?」
穂積とは違う異質な陰気さを身に纏っているが、浮かべているのは人の良さそうな笑みだ。悪い者では無いのだろう。そんな印象を受けた。
年相応の女の姿をしていた時は、声をかけてくる男の下心に嫌悪したが、守られるべき子供となった今、俺の前に、人間は平等であるはずなのだ。
「一人であない」
ずい、とホズミと持ち上げた。
「ニャーン」
「ああ、猫ちゃんと一緒なんだね」
男は猫と俺を交互に見て、目尻を下げた。
「可愛い猫ちゃんだね」
「ありがとう。俺の猫ら」
可愛くない猫の方が少ないと思うが、身内を褒められ悪い気はしない。
やはり、ホズミは猫のままの方が良いだろう。
小鬼であれば、褒めるべき箇所が無い。
「お、お父さんか、お、お母さんは近くに居ないのかな?」
この男、俺を迷子か何かと気に掛けているのだろうか。
「心配は無用ら。迷子であない」
「近所の子なのかな? こ、こんな人気の無い神社に一人でいたら危ないよ。も、もう帰るの? お、お家まで送って行ってあげようか?」
子供相手に緊張して喋るこの男。好感すら持てるが、甘えるわけにはいかない。
「大丈夫ら、一人で帰れる」
「……で、でも危ないから」
「車道には飛び出さん。安心しろ」
男は幼い俺が心配なのか、腰を折り顔を覗き込んでくる。
「あ、飴食べる?」
言いながら、男はポケットから飴玉を取り出し、猫を抱く俺の手の中に押し込んできた。
じっとりとした男の手が触れ、不快ではあったが、小腹が空いていたところだ。
「ありがたい」
ペコリと頭を落とすと、男が照れくさそうに頭を掻いた。
大の男が、俺のような小さな子供に声をかけるなど、相当、勇気のいる事だろうと察する。
なんせ、子供の行動は予測不能であるし、突然、泣き出せば困る。
「お! イチゴ味」
「ニッ!?」
「なんら、おまえも欲しいのか? 諦めろ、飴は一つしかないのら」
「ニャッ」
「食い意地のはった猫らな! 夏帆の家で缶詰を食べたらろ!」
「ニャニャッニャ!」
「ちょ、ちょっと待って、喧嘩しちゃ駄目だよ……えーっと……どこかにあったんだけど……」
俺たちが言い争いを始めると、男はボソボソと呟きながら、斜めにかけたカバンを漁りはじめた。
ホズミが期待したような目でそれを見る。
「すまんな。迷惑をかけゆ」
俺の言葉に、男はまた照れくさそうに頭を掻き、飴玉を差し出してきた。
「ニャン!」
「おまえ一人では舐められぬから、家につくまで預かってやる」
「ニャッ?」
リュックのポケットに飴玉を突っ込んだ。
「じゃ、じゃあ大きい道路を渡る所まで、つ、付いて行ってあげようね」
「なにをゆす!」
突然、男に手を握られ、慌ててその手を引いた。
子供の姿といえ、見ず知らずの、それも汗ばむ男の手を取りたくは無い。
「一人で行ける。大丈夫ら」
「そ、そっかぁ。偉いねぇ」
子供ではないのだ。当然だ。
俺が踏み出すと、男が後を追ってくる。
「……どうしてまだ着いて来る? 俺が小さな子供だから心配らのか? それなら心配は要らない。こう見えて大人なのらから」
「お、大人なの?」
そして男は、何か言いたそうに俺を見て、しどろもどろに口を開いた。
「お、おじさん良い物を持ってるんだけど……」
男は再びカバンに手を突っ込んだ。
額に汗を浮かべ「どこだったかなぁ」と、カバンを漁る必死な様子に、さすがに身構えた。
……子供好きにも程がある。
人間は単一の種だと思っていたが、この男は別の種族なのだろうか。
挙動不審な様といい、これまで身近に感じたことの無い種だ。
「こ、これ欲しい?」
男は、どぎついピンク色をした四角い帳面のような物を取り出してみせた。
「な……!」
男が俺に突きつけたのは、モモリンのシールだった。
それも“シール帳付きの超豪華版”ではないか!
欲しいかと聞かれたならば、喉から手が出るほど欲しいが、善意に甘える分けにはいかない。
首を左右に振って答えた。
「も、も、モモリン嫌い?」
「……好きらが、変わりに差し出せるものを持ち合わせていない」
「あ、あげるよ!」
男は、荒い息をつきながら、俺の頭を何度か撫でると、モモリンのシールを腕の中に押し付け、風の様に走り去った。
「お、おい……!」
男の消えた方角を呆然と見つめた。
醜悪な妖精にでも出会った気分だ。
「もしや……! あれがサンタクロースという者か?」
「ニャッ!?」
……こんな事があるなら子供も悪くない。
心からそう思った。




