煉獄ゼロ・イチ-3
天幕の中は、外観よりも遥かに広かった。
壁面には黒い薄布が掛けられ、その薄布には術札がびっしりと貼られている。
「最低だな」
正面の壁を見上げ、嫌悪にも似た声が漏れた。
その術札、一見は色彩豊かな花の絵ように見える美しい札だが、全てに俺への狂気じみた愛が綴られていたのだ。
……部室の扉に貼られていた術札と同じ。
つまり、この天幕こそが“魔法の店”なのだ。
魔術研究会の部室は、この部屋を模していたのだろう。雰囲気が良く似ている。
夏帆が、店の主の正体を知らずに、出入りしていたのだとすれば、恐れ知らずにもほどがある。
ここは魔物の腹の中だ。
店の主――闇姫は紫色のソファに腰を落とし、赤く染めた長い爪を俺の細い腕へと食い込ませながら、ほくそ笑んでいた。
俺をこの部屋に引き込んだ事に、満足しているのだ。
もはや、闇姫と口を聞くのも嫌だが、どうしても確認しなければならない事が一つあった。
「闇、俺に一つ重要な事を隠してないか? 例えばこの肌がビリビリするような瘴気についてだが、何か言うべき事があるだろう」
闇姫が陶酔した目つきで俺を見た。
「ふふふ、さすがは我が背の君じゃ。よく気が付かれたのう」
うんざりと高い天井を見上げた。
これだけ時空が歪んでいるのだ。誰にだって分かる。いや、夏帆は「不思議」で済ませたかもしれないが、俺の目は偽れない。
闇姫がこの事を先に言わなかったのは、下心があったからに違いない。そう思ったが、口にはしなかった。不用意に怒らせて、体に傷を付けたくはない。
「マツムシや」
闇姫が呼びかけると、壁に寄りかかり、うな垂れていたマツムシが顔を上げた。
ついさっきまで「ホムンクルスと居た女がリュウトだったなんてよぉ、お前、死んだんじゃねぇのかよ」と、喚いていたが、闇姫に嗜められ、静かになったのだ。
マツムシは手の甲に新しく出来たばかりの傷に、フーフーと息を吹きかけながら、壁に掛けられた薄布の一部を捲る。
橙色の細い光が、薄暗い部屋へと差し込んだ。
薄布の下に隠されていたのは、手の平ほどの大きさの、小さな丸窓だった。
闇姫を一瞥する。
期待に満ちた瞳は、俺の反応が楽しみなのだと見て取れた。
「……馬鹿げている」
窓辺に立ち、苦々しく外を眺めた。
予想していた事とはいえ、目の前にすると困惑を隠せない。
茜色の空。
眼下には赤褐色の石の屋根が連なり、霞みかかった空の向こうには、切り立った岩山と炎の壁が雲を貫いていた。
地平線に消えていくのは、翼を広げた応龍の群れだ。
人間界の景色ではない。
「……煉獄か。久方ぶりに足を踏み入れた」
「三年と二百二十一日ぶりじゃ」
得意げな闇姫の言葉は、聞き流すことにした。
「はぁ……魔界へ帰る方法を探していたが、思わぬ所からあっさりと帰れたな」
俺の体に張り付いたままの闇姫と、目が合う。
「我は月に一度だけ、この部屋の扉を境界の門へと変えておるのじゃ」
「そんな事ができるのか?」
「我を誰だと思っておる?」
闇姫が朱の唇を横に引いた。
“要塞国家・煉獄”が帝国にとって最重要の拠点である理由は一つ。
闇姫の存在だ。
闇姫は魔界でもっとも高度な呪術を、その記憶に封じた姫巫女。いわば魔界魔術の生き字引。
封印の代償に魔力は失っているが、記憶に生きる呪術の力は、魔界の均衡をも崩しかねない……らしい。
「……国家機密がフラフラ遊び歩くとは。元老院の連中が知ったら青ざめるだろうな」
「城は退屈じゃ」
断崖に建つ、この煉獄の城は、闇姫の為の巨大な牢だが、脱獄は容易いようだ。
闇姫は悪びれもせず「息抜きも必要じゃろう」と目で笑う。
「なぁ。あの黒い旗は何だ?」
城下の家々を指して尋ねた。
どの家も石造りの窓から黒い布を掲げていたのだ。
「弔旗じゃ」
「弔旗だと?」
「背の君の死に、煉獄は喪に服しておるのじゃ」
「俺の? ……どうして煉獄が?」
俺はゼスモニアの皇子で、煉獄は同盟国の一つに過ぎない。
闇姫を見ると、恥ずかしそうに顔を伏せた。
「背の君は、我の大切な許婚じゃからの」
呆れた俺の背後で、マツムシが「そーだったのかよぉ」と恨めしそうな声をあげ、詰め寄ってきた。
「姫様が居るのにお前って奴は、色んな女に手を出しやがって! あの頃の俺に教えてやりてぇよぉ! 諦める必要なんて無かったじゃねぇかよー」
マツムシは学生時代を思い出し、嘆いているようだ。
「フン! 手など出していない、勝手に集まってきたのだ! それに許婚なんて、俺たちが生まれるよりも前に親同士が勝手に作った話で、約束は解消されている」
約束されていたとしても、従う気はまったく無いが。
「誰が好き好んでこんな女と……」
「我が何じゃと?」
闇姫がいつの間にか手にした鎖を、ガシャリと左右に引いてニコリと笑った。
鎖の先には錘が括り付けられている。
こんな物で殴打されては、たまらない……。
「……俺には勿体無い位の良い女だ」
マツムシは「くぅー」と悲鳴にも似た声を上げながら、額を押さえ、心底嫌そうな顔で俺を見た。女の姿になってから、ここまで嫌な顔を向けられたのは初めてだ。
「フン。まぁ、良い。闇姫、お前なら俺に掛けられた封印の解き方が分かるだろう? 頼むよ。俺が生きていると国に知らしめるのだ」
帝都に戻り、反旗を翻してやる。
カリガネも父王も、皇帝さえも関係ない。魔剣を持って城を二つに裂いてやる。
しかし無常な言葉が突きつけられた。
「嫌。じゃ」
なぜか、瞳に怒りの色が見える。
闇姫さえ俺に協力すれば、全て取り戻せるのだ。拗ねられてはたまらない。
「フン。マツムシの言った女の話が気に食わないのなら、あれは誤解だ」
「おい! リュウト!」
「何をいまさらじゃ。背の君と女の噂ぐらい、とうの昔から我の耳に届いておる」
闇姫はピシャリと言い放つ。
しかし、それに安堵してはいけないと、顔を引き締めた。
「俺が人間界へと至った経緯は説明しただろう? 手を貸したいとは思わないのか?」
闇姫には人間の女と住んでいるという事は伏せ、大まかに説明してある。
マツムシは床に転がり笑ったが、闇姫は気難しい顔で「カリガネ殿下も背の君を想っていたとは、我の分が悪いのう」と、ぼやいていた。
「……“強い男”の俺が好きなのだろう?」
闇姫は「弱くても良い」と、冷たく首を振る。
仕方がない。
切り出したくはなかったが、報酬について述べるしかないのか。
「タダとは言わん。お前が欲しがっていた俺の片腕をやろう」
元の姿に戻れるのなら、腕の一つぐらい安いものだ。
しかし「どうだ」と腕を振って見せても、闇姫は唇を尖らせたままだ。
「なんだ? まさか目玉も付けろと言い出すのではあるまいな」
……顔に傷は付けたくは無いが、もはや覚悟をしておいた方が良いだろうか。
腕の良い義眼屋を思い浮かべる。
赤目か翠眼を入れるのなら、悪くはない。さらに義眼にギミックをしかけるのも面白い。
「翼じゃねーのか?」
俺の妄想を遮り、マツムシが「ヒャー」と笑う。
「翼は駄目だ。何があっても翼だけはやらん」
翼を取られるぐらいなら、死んだほうがマシだ。
「翼だけは絶対にやらないからな」
念を押して強く言うと、闇姫がキッと鋭く俺を見た。
「腕も目玉もいらぬ! 背の君の封印を解けば、二度と我の元には戻らぬじゃろう?」
それを拗ねていたのか。
たまには煉獄に顔を出してやっても良いが、そう本音で語れば闇姫の機嫌を損ねるだろう。
「よし、煉獄に戻ると約束しよう」
「嘘じゃな! 背の君は嘘を語れば目が泳ぐのじゃ」
……知らなかった。
「そんな事は」と答えた言葉は、しどろもどろになっていた。
「背の君は昔から大嘘つきじゃ」
「嘘つきだと? 闇姫、この俺を侮辱するつもりか? 俺がいつ嘘を付いた!」
「いつもじゃ!」
「いつもとは何だ。曖昧な事を……! さては嘘つきは闇の方ではないのか?」
「何を言うのじゃ! 背の君にだけは言われとうないのじゃ!」
「ほう、では例えば俺がどんな嘘をついたか言ってみろ!」
フンと鼻を鳴らし、勢いよく、闇姫へ指を突きつけた。
……正直、他愛のない嘘は山ほどついた覚えがある。もはや、売り言葉に買い言葉というやつだ。
それに闇姫が得意げに目を細めたので、心底後悔した。
何か、とっておきのネタがあるのだろう。
「我と結婚したいと言ったのは背の君じゃ! 嘘つきの主様は我から逃げるがのう」
「俺が!?」
「結婚!? リュウトって男はよぉ」
闇姫と怒鳴りあっていると、マツムシが調子ずれな声を出し、体を乗り出してきた。
「女の敵じゃねぇか――」
「お主は口を挟むでない!」
瞬時に長針が飛び、マツムシの足を縫いつける。
鮮血が飛び、床を汚す。
「痛ぇ! ……姫様ぁ、酷い」
闇姫は暗器を隠し持っている。
このまま激昂させれば俺も刺されかねない。
長針を引き抜きながら「お前のせいだ」と言う顔をするマツムシと目が合い、心の中で詫びを入れ、同時に刺されたのがマツムシで良かったと安堵したのだった。




