煉獄ゼロ・イチ-2
祭の喧騒の中、肩をいからせ歩いていた。
――まったく、あいつらどこへ行ったんだ!
気が付けば一人きり。
この祭のどこかにあるという“魔法の店”その場所は、夏帆しか知らぬというのに、いったいどこで逸れたのか、見当も付かない。
ひと月もの間、この日を心待ちにしていたが、すっかり出鼻を挫かれた気分だ……。
狭い参道には、ずらりと露店が並び、人間であふれている。
どうして、こうも人間は大勢で群れるのだろうか……!
息苦しい!
小柄な俺は、とにかく人に押しつぶされないよう、苛立って歩いていると、いつのまにか祭りの喧騒から外れた場所に来ていた。
美しい夜の祭祀場。その凛とした空気に、荒んでいた気持ちが和らいでいく。
祭の熱気に当てられていた頬を、冷たい夜風が撫でた。
心地の良い風。
しばらくは、祭囃子を遠くに聞きながら、のんびりと歩いていたが、心地良いと感じた風とは違う空気が、体にまとわりついてくる。
どこか懐かしいこの空気。
――魔界の気配。
ふと、全身がぞくぞくとする不快な寒気に囚われ、足を止めて振り返った。
「なんだ?」
暗がりの中、黒い天幕がポツンと立っていた。
遊牧の民が暮らすような、小型で丸い天幕。すっかり闇に溶け、浮かんでいるかのようにも見える。
「さっきまで無かったような気がしたが……」
露店の一種だろうか? だが、天幕に看板などは掲げられていない。
それにしても、時折通る人々が、この異様な天幕を気にする様子が無い事が不思議だ。
俺ただ一人が天幕を眺めている。
しばらく立ち尽くしていると、天幕の入り口に場所に掛けられた厚手の布が揺れ、とっさに木の陰に隠れた。
いや、隠れる必要は無かったのだが、反射的に隠れてしまったのだ。
天幕の中から出てきたのは、枯葉色の羽織、長い前髪を斜めに流した特徴的な髪型の男……。
(マツムシ!)
名前を呼びそうになり、声を飲み込んだ。
こんな所に隠れてやがったのか!
マツムシは天幕の中へ話しかけるような仕草をしてから外へと出て来た。どうやら中には、まだ人がいるらしい。
見つからないよう、その後を付いて行く事にした。
マツムシは慣れた様子で露店を回り、海鮮を焼いた物や、果実を飴で固め、棒を刺した菓子を買って歩く。
誰かの使いなのだろうか? 菓子を二つ手にしていた。
――信じられん。
マツムシは一旦、祭から離れ、コンビニへ立ち寄ると、当然のように雑誌の立ち読みを始めたのだ。
裸同然の女が表紙を飾る本を、恥ずかしげもなく広げている。
俺はその様子を茂みに隠れて見ていたが、マツムシの人間のような振る舞いに動揺していた。
「マツムシの奴、人間界にずいぶんと馴染んでいるじゃないか……!」
「マツムシを知っているのかや?」
「な!?」
俺がぼやいたのとほぼ同時に、すぐ後ろから女の声が聞こえた。
驚いて振り返ると、袖の広い赤い着物を着崩し、紫色のショールを頭からスッポリと被った女が真後ろに立っていたのだ。
マツムシに気を取られ、まったく気が付かなかった……。
(この女……人間じゃない)
慌てて、その場から逃げようとしたが、後ろから抱きすくめられてしまう。
平たく面白みの無い体が、俺の背に密着する。
「気安く触れるな!」
俺の腰へと伸びる腕の力は強く、肌は病的なほどに白い。
女は首元でスン、と鼻を鳴らし鋭く言った。
「主、禁術の香りがするのう。その身に何か封印が施されているのかえ?」
鼻にかかったような甘い声。
「誰だ?」
ショールの下、紫水晶の様な冷たい瞳が絡み付く。
思いもよらない、見知った顔……。
「な……! 闇姫……!」
息が止まりそうな程、驚いた。
我が帝国最重要拠点“要塞国家・煉獄”の“闇姫”。
この女は、特殊な事情によって帝国の保護下にあり、自城に軟禁されているはずなのだ。
こんな所に居るはずがない!
「何故我を知っておるのかや?」
驚きのあまり声も出せずにいると、闇姫が不機嫌そうに目を細めた。
「主、魔界の者じゃろう? こんな所で何をしておる?」
「……闇、俺が分からないか?」
……闇姫は俺の幼馴染である。
思いがけない再会だが、嬉しくは無かった。
「うぬ? 確かに、どこかで見た事のある顔じゃ……はて、どこで会ったかや?」
闇姫は唇を歪ませた。
この朱の唇を横に引いたならば、男は思わず魅入ってしまうだろう。
見目は、麗しい女なのだ。
黒と紫の混ざった長い髪が、気だるそうに体を傾けた角度で揺れた。
「フン。闇なら分かると思ったが、この姿で分かれと言うのは意地が悪いか」
闇姫は「まさか」と目を丸め、俺を凝視した。
「痛ぇ!」
突然、首筋を噛み付かれ、皮膚が裂ける感覚に顔をしかめた。
「せ……! 背の君じゃ……! 我が背の君の味じゃ……信じられぬ……! せ、背の君……はぁ……ん……!」
ジュルジュルと水音を立て、荒い息を付くその様には狂気すら感じる。
「闇! いい加減にしろ! いきなり生血をすする奴がいるか!」
全身の力を使って闇姫を引き離し、首筋を拭うと、唾液と血液が俺の白い手を汚した。
「フン……相変わらず嫌な女だな」
俺の記憶の中で、闇姫に良い思い出はない。
いつの頃から「背の君」などと、夫婦であるかのように俺を呼び、あげく「愛しすぎて体内に吸収したい」と、のたまった。
……最後に会ったのは、確か四年前。
あの時「片腕だけでも置いていけ」そう迫られ、絶縁を決めたのだ。
「その蔑むような目、醒めた笑い方。本当に背の君なのじゃな。女子の姿とは酔狂な事じゃ。しかし……その変わらぬ薄茶色の瞳……食べてしまいたいのう」
闇姫は唇から血を滴らせ、恍惚の表情を見せている。
「やめろって」
闇姫にじりじりと詰め寄られ、大きく仰け反る。
五本の指、全ての間に鋭利な刃を挟んでいるのが見えたからだ。
目玉の一つ位なら、本当に取られかねない。
「その手の物をどうにかしろ!」
「うぬ? つい興奮して暗器を出してしまったようじゃ」
ぺろりと舌を出し「うっかりじゃ」と暗器を袖の中へと押し込んだ。
しかし、目は笑っていない。
「……マツムシはお前の連れなのか?」
「うむ。従者にしておるのじゃ。人間界へ渡れる悪魔は希少じゃからのう。じゃが、背の君が気に入らぬと言うのなら、マツムシは七ツ森に返すかや?」
「フン、闇が誰を従属させようと、俺には関係の無い事だ。気に入らぬも何もない」
ヒュンと風を斬る音と共に、服の裾に切れ目が入った。闇姫が暗器を投げたのだ。
誠司に貰ったワンピース……。
今の俺には貴重な衣服。悔しいが、肉を斬られなかっただけマシか。
睨みつけると、闇姫は頬を膨らませる。
「ヤキモチの一つも妬いてくれぬとは、背の君は意地悪じゃな」
ゾッと鳥肌が立ったのは、闇姫が俺の頬を舐める冷たい感触のせいだ……。
「でも良い。見まく欲しきとずっと、願っていたのじゃ。愛しの背の君。ようやく会えたのう。造 り 物にすら見まえなかったのに、主様の方から、会いに来てくれた」
「ん……? ホムンクルスだと!?」
……そうか。
マツムシと闇姫が繋がっていたのなら、それがリンネへと繋がるのだ。
闇姫は術に長けている。ホムンクルスを造るぐらい造作ない。
「……俺のホムンクルスになら会ったぞ。良く出来た偽者だったが二度と造るなよ」
うんざり、と長いため息を吐き出した。
「なんじゃと? 監視に付けたマツムシは、術の生成に失敗していたと申しておったのじゃが」
「おかしいな。マツムシは俺とホムンクルスの前から逃げたと記憶していたが」
闇姫がマツムシをきつく睨んだ。
当のマツムシはコンビニの窓辺に立ち、のんきに雑誌のページをめくっている。
後で血を見るのは自業自得だが、知らないという事は幸せなことだ。
「俺のホムンクルスを作って、どうするつもりだった?」
「……背の君は何故死んだのか聞く為じゃ」
闇姫はためらいがちに目を伏せる。
「マツムシも俺が死んだと言っていたな」
「うむ。カリガネ殿下がそう発表したからのう。今、魔界で一番大きな話題は背の君の死じゃ」
「カリガネがねぇ……」
岩窟でそのまま死んだ事にされたのか?
「生きて再び見まえるとは……我は今、心から感動しておるのじゃ」
闇姫は涙をうっすらと浮かべ、俺の胸へとしなだれた。
と、同時に鈍い痛みが胸を刺し、慌てて闇姫を突き飛ばす。
「っ痛ぇな! 人の胸を力いっぱい握りやがって!」
「憎らしい膨らみじゃ」
「フン! 好きでこうなったのではない!」
貧乳女と罵ってやりたいが、口に出したら刺されかねない。
胸を叩いて痛みを散らしていると「その揺れ具合も気に食わぬ」と、頬を膨らませている。
「しかしのう……。疑問が、また増えてしまったようじゃ。背の君。何故、こんな所におるのかや?」
「俺も同じ質問をしたいと思っていたところだ」
「ふむ。こんな所で立ち話をするのも無粋じゃな。我の部屋で膝を突き合わせて語り合うのはどうじゃ?」
闇姫が手を打った拍子に、いくつかの長針が袖口から、パラパラと地面に落ちた。
慌てて拾う姿を、目で追っていると、闇姫がポツリと呟く。
「……手足の腱を切ってはどうかや? 今の背の君なら逃げられぬやもしれぬ……」
何を言い出すのだと身構えた。
「絶対に止めろよ」
「うぬ? 心の声が出ていたようじゃ」
闇姫は「少しばかり、浮かれておるのじゃ」と、自分の頭コツンと叩き「恥かしいのう」と、舌を出す。
……怖い。
聞きたい事は山ほどあるが、二人きりで居れば何をされるか分からない。
「……帰る」
「ダ・メじゃ。帰さぬ」
マツムシと出会った時、後など追わずに戻るべきだった。
後悔したが、もう遅い。
闇姫は俺の腕をガッチリと掴み、首筋に冷たく硬いものを押し付けたのだ。
たまらず、コンビニへと目を向けると、マツムシが手に袋をぶら下げ出て来る所だった。
「マツムシ!」
叫んだ声は思ったより大きく、まるで助けを呼ぶような声だった。




