片割れの黄金比-3
まるで鏡でも見ている気分だ。
しかし、そう思ったのは俺だけなのだろう。
男は探るような目で俺を見下ろしているのだから。
「……どこかで見た顔だな」
男が俺の肩から流れ落ちる長い髪をつまんだ。
「俺も同じ意見だよ」
溜め息と共に男の手を払い、地面に突き立てた剣の柄に、再び手を伸ばす。
猫が身構え、穂積が息を呑んだが、それを遮ったのは夏帆だった。
「その翼、あなたは悪魔ですのよね?私のお姉様も悪魔ですのよ!ね、お姉様!」
「こら夏帆、押すな」
夏帆の好奇心は恐れ知らずのようだ。
しかし、夏帆のとびきりの笑顔に男が眉をひそめた。
「悪魔だと?お前が?」
今の俺、どこをどう見ても悪魔になんて見えない。
「フン。理由あって魔力は封じられてはいるが――」
名乗るべきか沈黙すべきか暫し悩んだ。しかし男に、万が一にも我こそが悪魔リュウトであると先に名乗られては不愉快だ。
「俺はゼスモニオ帝国の悪魔リュウト。賢人の真理とも呼ばれるこの名を知らないはずは無いだろう?」
その姿こそ悪魔リュウトそのもの。俺の言葉に男は眼光を鋭くさせた。
しかし男の答えは意外なものだった。
「……リュウト、確かにその名に聞き覚えはある」
そして、周囲を見渡し柳眉を歪めた。
「どうにも、記憶が曖昧だ。俺はここではない別の場所に居たはず……。それがいつの間にか眠っていたようなのだが」
「棺の中でか?」
「棺に……?俺が?」
男は足元を見ると額を押さえ「自分の名すら浮かんでは消えていく」と、ぼやいた。
「記憶喪失の悪魔だなんて、なんだかドラマチックですわ!」
「あの……頭をぶつけたとか、痛い所とか、怪我はないですか?」
穂積が心配そうな口調で、おずおずと男に声をかけた。夏帆の好奇心にも、穂積のお節介にも程がある。
「体に異常は無さそうだ」
「ただ、頭だけが悪いのか」
男が俺を睨み付けたので「顔は良い」そう褒めてやったが、男は鼻を鳴らすだけであった。
「猫ちゃんは何か知ってるのかな?すごく懐いてる感じがします」
穂積が救いを求めるような目で俺を見たが「まさか」と首を振って見せた。猫が抗議するように「ニー」と低く鳴く。
男の容姿にすっかり惑わされているのだ。常々、短絡的で愚かな小鬼だと思っていたが、ここまでとは。男に体を擦り付けては、足で払われている。
「あの……具体的に思い出せそうな事ってありませんか?」
「お前たち同情するのはよせ。俺達はこれ以上、この男に深くかかわらない方が――」
言いかけた所で男が「そう言えば」と顔を上げた。
「何かありますのね?」
「……俺は暗い場所を旅していたのだ」
「暗い所……?」
「ああ、そうだ……そこは冷たく暗い、岩ばかりの場所だ」
夏帆が身を乗り出し「お一人でしたの?」と、男に期待の視線を寄せている。
「傍らに連れもあったような気がする」
猫が興奮したような声で「ニャア!」と鳴き、男へと飛びついた。我こそが旅の連れであると主張しているのだ。
男がじゃれつく猫の首根をひょいと掴むと、穂積が「あ!」と悲鳴をあげた。
「煩わしい」
猫は見事な放物線を描き、遠く投げ飛ばされたが、落ちた先で見事に着地し得意気に鳴いた。
「……やっぱり、リュウトさんと似ている気がします」
「そんな目で見るな。俺はこんな乱暴者ではない!」
腕に絡みついていた夏帆が「お姉様の方が素敵ですわ!」と穂積を一睨みし笑みを俺へと向けた。
夏帆は男の俺より、女の俺の方が良いというのだろうか。
「悪魔さんの記憶が戻れば、リュウトさんが安全に帰る方法も分かるかもしれないですよね」
「……いや、敵かもしれないではないか」
今、この男から敵意は感じないが、ここに居てはいけない--存在してはならない男だ。
「リュウト、お前は魔力を封じられているといったが、追っ手があるのか?」
そんな事とは知ってか知らずか、男が俺に哀れむような視線を向けた。
「人間界まで追いかけてくるような執念深い相手でね。俺はお前が追っ手ではないかと疑ってるよ」
「……人間界だと?」
旋風が髪を大きく乱した。
男が空へと舞い上がったのだ。
「わぁ!」
「もう、あんな高くまで!」
大きく広げられた翼が月を隠していた。
あまりの神々しさに、溜息が漏れそうになるが、慌ててそれを飲み込む。
「悪魔の翼なら容易い事だ、そう驚く事ではない。翼があれば俺だって一夜で千里をも天駆けるのだ」
「お姉様の翼も見てみたいですわ」
その漆黒の翼は今、俺の頭上を旋回しているが今は恨めしい視線を送るしかない……。
「いつまで飛んでるのかな……」
「首が疲れましたわ」
「きっと人間界の夜に圧倒されているのだろう。魔界の夜とはまるで違う」
夜目も利かない貧弱な人間の営みから造り出される明かりは大きく、空から見れば幾つにも枝分かれする光の大河だ。
「置き去りにして、俺達は帰るか」
「いやですわ……!」
俺の提案に夏帆が唇を尖らせた。
「……リュウトさん、あの悪魔さんは、どうしてこんな場所に居たんでしょうか。その、リュウトさんを追って来たのだとしても、出来すぎてないですか?」
穂積が夏帆を横目で見たので夏帆が眉を吊り上げた。
「まるで夏帆が知っていて、お姉様をここまで手引きしたみたいに言わないでくださいまし!」
「夏帆の見た話では悪魔なんて書いてなかったろ?肉の崩れかけた死体がどうとか言ってたよな」
「肉……?」
穂積があからさまに嫌そうな顔を見せた。
「そうですわ『廃寺の裏、呪いの木箱。血に濡れ肉の崩れた死体が、腕だけを振るい内側から戸を叩く』ですの」
得意げな夏帆に穂積が体を震わせ「それを見て、行こうとする人がいるなんて……」と息を飲む。
「全く違いましたのね。ゾンビがいると思ってましたのに」
夏帆の心底残念そうな声に穂積が口元を歪めた。
「あの男が寝ていた事が、面白おかしく伝わったのかも知れんな」
「……ぜんぜん面白くないです」
一番の不思議は男の容姿だが、それは俺の胸の内だけに秘めている。
夏帆が上空を指差した。
「なんですの?」
男が腕を突き上げたのだ。
術だ。
何らかの術を結ぼうとしているのが見て取れた。
悪魔なら、何をするか。考えなくても分かる。町を燃やすだろう。人間の町、虫けらの町だ。
そう思った途端、強く叫んでいた。
「やめろ!」
しかし俺の声は虚しく闇に飲まれ、男は二本の指を市街地へ向けながらゆっくりと下ろしたのだ。
「穂積、夏帆!」
「えっ?」
言うが早いか、穂積と夏帆を両腕に抱いて地面へと飛び込んだ。
土の匂いが頬を擦る。
腕の下で夏帆が声を明るく弾ませ、穂積が「痛い」と、悲鳴を上げたが、より強く二人を地面に押し付けた。
「ホズミ!なんとかしろ!あの男、町を焼く気だ」
「ニャア!」
猫は素早く廃寺の屋根へと登ると、大木へ飛び移り、その頂上から大きく闇夜へと飛び出した。
より強く二人を抱いた。貧弱な俺の腕では二人を守る事もままなら無いかもしれない。
男が弓を射るように腕を引いたのと、高く飛んだホズミが、その腕を捕らえたのは、ほぼ同時に見えた。
しかし、僅かに男の方が早い。
「顔を伏せて耳を塞げ!」
爆音と共に夜空に閃光が走り、昼のように明るく照らすだろう。
人間が、あの莫大な光力を瞳に写せば、その目を焦がすに違いないのだ。
「……!」
静寂と血流の音を聞きながら、後悔や怒り憤り、それらの感情が胸の内より痛みを伴い次々と溢れ、最後に満たした物は喪失感であった。
男を止められなかった……。町の、あの気の良い商店の人間達が死ぬのだ。
誠司や母上。夏帆の家族やアミ。そして、モモリンの中の人間も無事では済まないかも知れない。
ドサッ
近くで何か地につく大きな音と、俺を呼ぶ穂積の声が遠くから聞こえた。
「どうなった……」
言いかけた俺の体が強力な力で持ち上がっていく。
「おい!リュウト!」
男が俺を無理矢理立ち上がらせたのだ。
茶色い瞳が、怒りで顔を歪めた俺を写取っている。
「なんて事をしたんだ!」
「一体どういう事だ!」
同じタイミングで睨み合い、叫んだ。
「町を焼くなんて!」
「魔力が無くなっている!」
「魔力が無かっただと!」
少女たちに目を向けると、穂積はポンポンと膝を叩き土を払い、夏帆は猫を追いかけていた。
術は不発だったのだ。安堵と同時に、さらなる男への怒りが込み上げて来る。
「いきなり町を焼こうとするとは!」
信じがたい、と罵り、お前は何様なのだと、その肩を押すように殴ったが、じゃれついた猫のようにあしらわれ、己の力の無さに、また腹が立ってくる。
「力と血筋に奢った振る舞い、同じ悪魔として反吐が出る!あの夜景を見たか!あの窓の灯りの一つ一つに繋がりのある何者かがあると思え!人間はか弱いのだ、すぐに死ぬ。お前は最低な悪魔だ!」
「最低だと?この俺を侮辱するのか!」
「最低だ!お前のような腐れ悪魔、この俺が冥府へ送ってやる!」
「重てぇ」と、唸り声を上げながら、両手で剣の柄を握り、振り上げて構える。剣の重みで背後に倒れそうになるのを必死で堪え、大きく振り下ろした。
「死ね!」
少女達の悲鳴と、ブンと小気味の良い音と共に、剣は風を斬り、棺の木片を散らしたが、男を断つ事は無かった。
「ははは、リュウト。その剣は分不相応ではないのか?ふらついているぞ」
「何度でも振るってやる、どうせお前は、カリガネの手の者だろう!記憶が戻る前に息の根を止めてやる」
「カリガネ?」
男がまた眉根を寄せた。
「知ったな名だ……」
「当然だ!」
「リュウト、まさか俺の事を知っているのか?」
「よーく知ってるよ!お前の事なら何でもな!」
男の胸ぐらを掴んだ。
少女たちがいなければ、その体を返せと叫んでいたかもしれない。
「リュウトさん!」
穂積の声と共に、男の頬に平手を放った。パンッと乾いた音が響く。
痛てぇ……。
その手がじんと痛む。堪らず男を睨みつけた。
「……少しだが、思い出してきた」
男は平然とした顔で俺を見据えていた。
「あぁ?思い出しただと?」
偽物に何の記憶があるというのだ!
「……断片的だが……女だ」
「女?」
「ニャ!」
「恋人ですの?」
「いや、分からない。しかし……闇夜にいくつもの精霊の炎が浮かび彼女を照らすのだ」
「記憶、戻りそうなんですか?」
「女は……青い。青い女、そして水辺……」
男の言葉に胸がざわつき、想定したより大きな音量で叫んでいた。
「黙れ!それ以上は思い出しても口に出すなよ!」
「……どうした?」
「良いから黙っていろ!」
背伸びをし、無理やり男の口を手で押さえ、その腕を掴むと、少女達から隠すよう廃寺の影へと連れ込んだ。
「お姉様?」声がかかるが「ついて来るな!」とその声を制す。
青い女だと、そんなまさか!
「念のために聞くが……他には?殴って思い出すなら、殴るが」
ひらひらとさせた手を、男はただ見送っていた。
額に縦皺を作り、記憶を探っているようだ。
「手首には鱗が光り、赤い目が俺を見ている……美しい女だ」
「……」
――青い体に赤い目の美女。おそらく髪は深い緑色の長髪。水棲族ガリオンの姫君の事に違いない。
岩窟に赴く前夜、俺の抱いた女だ。
「そして後悔……そうだ、それを解決すべく俺は薬を飲む為に旅に出たのだ」
……俺にしか知りえない記憶だ。
この男、姿だけではなく、俺の記憶を持っているのかもしれない。
まさか、俺は男と女に分裂したわけではあるまいな……。あらぬ妄想に思わず自分の両手に目をやった。いや、そんな馬鹿げた事は起こりえない。この華奢な手が俺だ。
背に汗がにじむ。
「良いか。何を思い出して、あの小娘共に話すなよ?猫にも聞かれるな。特に女の話は止めろ」
「……ヤキモチと言う事か?生意気な女だと思っていたが可愛らしい所もあるじゃないか?」
男は口の端を吊り上げ、目を細めて見せた。
「アホウ、鏡を見て恋に落ちる愚かな男がいるものか」
いや、居た。が、その事は今は良い。
「良いか?まず、ほんの可能性にすぎないが、お前は俺かもしれない」
男は訝しげに俺を見下ろした。
「何を言う。何もかもが違うだろう」
「体表を滑っていく粘度の高いあの姫君の肢体……忘れたか」
男が目を見開いた。
「……イヴリシア……!」
男が口にしたのは姫君の名だ。
イヴリシアの青い肌は、精霊の炎に照らされ、ぬらぬらと光り、水面に写し取られたその姿は実に妖艶であった。
「お前は何者だ?」
「お前は何者だ?」
二つの声が重なった。
「記憶は曖昧だと言っただろう」
「チッ!俺はお前の言う薬を飲んで、女になったんだよ」
「そんなバカな」
「バカな事の連続だ、バカな事しか起こっていない」
「どういう事だ?」
「俺が知りたいね、右の袖を捲ってみろ、ホクロが二つ並んでいるはずだ」
男が袖をめくるとホクロが見えた。そして己の腕をめくり同じ場所のホクロを見せる。
「その傷は無いが」
「これは、人間界に来て作った傷だ。死戦の末にガラス片を浴びたのだ。男のお前にあるはずがない。よし、次は下服を脱げ、そして右の腿の内を見ろ、大きな切り傷があるはずだ」
俺が「これだ」と、スカートを捲り腿を露出させると男は「良い眺めだ」と笑い、渋々ベルトを外しズボンを下ろした。
「あるな……」
やはり同じ場所に同じ傷。幼少の頃、幻獣の角に突かれて出来たこの不名誉な傷は、今まで誰にも見せた事はない。
「お前が俺?」
男は吸い寄せられるように俺の顔を見つめた。
「美しすぎないか?いや、最初から美しいとは思ったが、改めて見ると美の神のようではないか」
「だろう?お前も良い男だ。どの角度から見ても、不足がない。俺が女ならば夢中になっている」
「霧が晴れていくような思いだ、何かが思い出せそうな気がする」
「お前が敵では無いことを願うよ」
男が俺の両腕をがっしりと掴んだところで、背後から非難めいた声が上がった。
「な、何してるんですか!!」
「お姉様……不潔ですわ……」
「な!おい勘違いするな!お前は早くズボンを履け。それと、いいか?あの人間の娘達に、この事は絶対に言うなよ!これはお前の為でもある」
「ふん。全ては信じられないが、今は従ってやろう」
男の俺は頬を緩めながら少女達に声をかけた。
何を言い出すのか、手を取るように分かる。
「おい、やめろ!余計な事を言うな」
「娘たちよ、俺の記憶は戻った。俺はこのリュウトとは恋人だったのだ」
魔界で無くした俺の片割れがニヤリと笑った。
「こ、恋人ですの……?」
「なんて事を言うんだ、違う!誤解だ」
「恋人……だから雰囲気が似るのかな」
「変な納得をするな!」
男はするりと俺の肩に手を回す。
「気安く触れるな!おかしな事を口走りやがって!」
「俺の事はリンネと呼んでくれ」
「……リンネだと?」
猫が、懐かしそうに「ニャア」と鳴く。
そうだ。今の今まで忘れていた、俺の幼名。男にもこの名で呼ばれた記憶が残っていたのだろうか。
視界が天と地が逆になり、闇が俺を吸い込んだ。若草の香と共に幼い日の記憶がこぼれ落ちてくる。
――私はリンネ。エテルナ家の三女よ
「リンネ」
まるで呼ぶように、目の前の俺が呟いた。
俺が俺を見下ろしている。
俺を「リンネ」と、呼ぶこの男が俺なのか。
俺は誰だ。
背にじわりと汗が滲み、握った拳が震えていた。気が浚われないよう大きく頭を振る。
「リュウトさん?」
「……大丈夫だ」
そう、俺は俺だ。
記憶には、再び蓋をしよう。




