悪魔リュウトと夜の蝶々-3
「ここで働くなんて本気?リュウト、もう一度よく考えてみてよ」
誠司は真剣な面持ちで、俺に説得を続けていた。
言いたい事は良く分かる。ここは淫魔の狩場のような如何わしさは薄いが、都落ちした悪魔の娘が金で笑顔を売るような店だ。
そんな仕事が俺にふさわしいはずは無い。
「頭では理解しているつもりだが……」
一時の我慢がモヤシから俺を救うのだ。働けば俺が壊した電子レンジだって買い直せる。
「男の人を相手にする仕事だよ?お酒が入って横暴になる人も居るしさ……そもそも男の横に座って、興味の無い話もニコニコと聞ける?」
誠司は俺の容姿に惑わされているのだろう、うぶな乙女か子供に諭すよう、随分と包んだ言い方をしてみせた。
「……お前はどう思う?」
「リュウトには無理だ。働いているところが想像できない」
その言葉に、金と己の美貌に欲をかき、沸いていた頭が急に冷えてくる。
誠司め。短い付き合いだが俺の事を良く分かっているじゃないか。
魔界では、風来坊まがいの生き方をして来た。
東に怪物がいると噂が立てば、討伐に赴き、西で内乱があると聞けば、戦況を冷やかし、宝があると聞いたなら、地の果てまで奪いに飛んで行く。そして屋敷に戻れば、血統だけの気楽な皇子様だ。
働いた事も無ければ、誰かの下についた事など一度もない。
想像してみる。俺が働いている姿をだ。
開店前のこの店に、まだ客は居ない。だが、じきに来る。そう、あの黒い皮のソファ。
俺のアリアは男の横に座るのだ。
やって来る客は、鳥の皮のように貧相な男だろう。目は窪み、頬もこけている。黄色く濁った白目に、ぎょろぎょろと動く黒い目。夜の街で女と酒を飲むのが唯一の楽しみ。そんな、さえない人間の中年男だ。
魔界風に言うならば、灰色羽の没落悪魔。枯葉のような色合いの時代遅れな羽織が似合いだ。
鳥皮は「アリアちゃん」と、甘えた声で俺を呼び、胸元を覗き込んで下種な笑顔を向けるに違いない。
そして、安い酒を舐めながら、鼻の下を伸ばすのだ。
一方の俺は「これは仕事だ金の為」と、自らを奮い立たせ、こらえながらも鳥皮に愛想を振らなければならない。
酒を勧め、淫魔の如く囁くのだ「今夜は嫌な事を忘れて、いっぱい楽しもうね」と。
俺の甘美な言葉に、さらに調子に乗った鳥皮は、アリアの可憐な膝に手を当て卑猥な言葉を囁くだろう――。
これ以上は想像でも耐えられない!
美しい俺のアリアが穢されていく。
鳥皮だけではない。羽振りの良い若い男も来るかもしれない。俺が魔界でそうであったようにだ。
浮つく女達の中に混じると言うのか?この俺が。
「……」
露出した両腕に鳥肌が立つのが見えた。
「無理だな……」
俺の言葉を待っていたかのように、誠司が得意げに「でしょう」と、胸を張った。
そもそも、男が男に接客するのだ。耐えられるはずが無い。
しかし、金が要る。金のためには働かねばならない。
「……だが誠司、金を作ると穂積に言って出たのだ」
ついで出た俺の言葉は小鳥のさえずりに消されそうなほど小さく弱々しかった。
「二人分の食費くらい僕が面倒見るよ、ごめん。昨日言えばよかったね、こんな所で働かせるくらいなら――」
誠司が俺の手を取り、肩をすくめて見せた。
「誠ちゃん!アリアちゃんを脅かすのはやめてくれない?」
誠司の言葉を遮るように声を上げたのは、母上だ。
背後からやって来た母上は、俺を誠司から引き離すと。俺の薄い肩をがっちり掴み「アリアちゃんはママがナンパしたんだから」と、抗議の声をあげた。そして「誠ちゃんがそんなに手が早いなんて」と非難して見せた。
「母さん……彼女、僕の家の隣に住んでいて、良く知ってる子なんだけど」
「居候だがな」俺がそう付け加えたのと同時に、母上は「ホントに?」と、俺に頬をぴったりと寄せた。
途端に強烈な白粉の香りが母上から発せられ、鼻をくすぐる。
「まぁ、凄い偶然!あのね、アリアちゃん、誠司は私の息子なのよ」
母上は、自分と誠司を交互に指差し、にっこりと笑った。その目元は確かに似ている。化粧を施した母上は若く、まるで親子には見えないが、町で会った中年の女を思えば、相応なのかもしれない。
誠司の母上が俺の母上という事なのか……。
「でも、それとこれとは話は別よ!誠ちゃん、アリアちゃんには、お仕事に来てもらったんだから、私情を挟まないで!」
玩具を独り占めにする子供のように、母上は俺を抱きしめ、誠司から遠ざけてみせた。
思わず半眼になる。母上の髪から漂う科学的な香料が、すでに白粉の香りと粉っぽさに苦しんでいた俺に追い討ちをかけてきたからだ。
「とにかく、ここでは働かせない」
「藪から棒に何を言い出すのよ」
「リュウトにはこんな仕事、似合わない」
「はっはーん、そう言う事ね。誠ちゃんとママは好きなタイプが似てるもんね」
母上は「うんうん」と、からかう様に大げさに頭を上下させ、誠司が食って掛かる。
「どういう意味で言ってんだよ……!」
「そのままの意味じゃない」
くしゃみを抑える俺の横で親子がじゃれつき合い、その賑やかな声に誘われ、支度を終えた店の女達も集まり、こちらに注目している。
「もう、何と思ってくれてもいいよ。リュウト、着替えて来て。一緒に帰ろう」
「ちょと、誠司!ねぇアリアちゃんはどうなの?」
救いを求めるような視線が胸に刺さる。
「母上、申し訳ないが、仕事をする自信が……」
泣きそうな声だと自分でも分かった。
しかし、これは母上の香りが鼻を刺激しているせいだ。
ぐすりと鼻を鳴らすと、泣きべそでもかいているのかと思ったのだろう。母上は俺の頬を両手で挟み「大丈夫、皆でサポートするから」と、俺を励ました。
だが、母上との距離が近づけば、いっそうの白粉が俺を攻撃し、視界はぼやけていく。
誠司はと言うと、急に眉根を寄せ、真剣な面持ちで俺を見据えた。
「母さん、悪いけど。リュウトに嫌な事はさせたくないから」
その言葉に店の女達が色めいた。
「誠ちゃんってメンクイだったんだ」「好きな子にこんな仕事して欲しくないよねぇ」と、誠司をからかい始める。
誠司は「そうじゃなくて」と女達の言葉を遮るが、夜の女は強い「やだ誠ちゃん、照れちゃって可愛い」と誠司は鼻を摘まれた。
すっかり蚊帳の外だった俺は、鏡の柱に映る美しいアリアと見つめ合う。
肩をすぼめ、震えるように鼻をすするその姿。手を差し伸べたくなるような衝動は、抗えない法則のようなものだろう。
「アリアちゃん大丈夫よぉ」
母上が目尻に皺を作り、俺が盛大にくしゃみを飛ばした、その時だった。
それは外の冷たい風と共に、扉の隙間から縫うよう、店内に侵入して来た。
開店の時間を早まった客かと、女たちは身構え、余所行きの顔を作ったが、それを最初に見た女の短い悲鳴が引き金となり、店内は騒然となった。
不自然にゆらりと動く、影のように黒い侵入者。
黒いフードを目深に被り、背は高いが、羽織った黒い外套は引き摺るほど長く、体型はまるで分からない。フードの隙間から僅かに見えるその顔は、赤い仮面で覆われていた。
そして、その仮面の者は迷う事無く俺へと顔を向け、静かに片手を上げた。
「伏せろ!」
それは光の矢ように直線を描いた。
今の俺に避けられる速さではない、とっさに叫び両手で顔を覆うのが精一杯だった。
店の中にあった花々を散らし、椅子やテーブルカーテンなどを引き裂き、壁に焦げ痕を付ける。
「大丈夫!?」
弾むようにカウンターを飛び越え、誠司が俺の前に立ちはだかる。
「俺は大丈夫だ。皆は?」
顔をあげ見回す。怪我をした者はいないようだ。しかし一瞬の出来事に、恐怖が店を支配していた。
女たちは誰一人声を上げる事ができずに固まっている。
「先に女達を外へ逃がせ!」
誠司は、すぐさま腰の抜けた母上を抱え「裏口に!」そう叫んだ。その声が合図となり、店の女達が、蜘蛛の子を散らすように悲鳴を上げ逃げて行く。
随分とゆっくりとした光景に見えた。逃げる者と向かってくる者。
歩みを進める侵入者の、ゆらゆらと動く黒い頭を俺はただ、真直ぐ見ていた。
それが何であるか、俺には分かる。
とうとう来たのだ、俺を探しに魔界から……。
「ずいぶんと乱暴なお客様だな」
しれっとした顔で珍客に笑顔を向けたが、その胸の内はざわついていた。
カリガネに俺の居場所が見つかった。どこかの境界の扉が開かれ、魔界の者を人間界へ送ってきたのだ。
しかし魔力が高い者は、魔界との境界を超えられない。コイツはどうして魔法が使えたのだ?
そして、それを俺に見せ付けるため、この者たちは先制攻撃を仕掛けて来たに違いない。
カリガネは俺に警告しているのだ「武器が無いと思うな」と。
仮面の者は何も言わずに、俺へと手を伸ばす。
「リュウト!」
誠司が間に飛び込み、それを払いのけた。
「誠司!どうして戻って来た、お前も一緒に逃げろ」
「母さんに今、警察を呼んでもらっている!リュウトも裏から出て!僕がなんとかするから」
「コイツは人間じゃない、魔界の者だ」
「悪者?」
「ああ、もちろんだとも」
「分かった」
言うが早いか、どん、と音がし、どすんと仮面の者が膝を付いて倒れた。
誠司の重たい蹴りが、仮面の者を打ち倒したのだ。
そして仮面の者を床に押さえつけ、その腹に拳を一撃入れると仮面の者は動かなくなった。
「見事!」
あまりの手際の良さに、俺は素直に賞賛を贈っていた。
しかし、誠司は顔を青ざめさせている。
「リュウト、どうしよう息をしていない」
「まさか!今ので仕留めたのか?良くやった」
仮面の者に近づく。ただの物であるかのように、そこに横たわっていた。
胸も肩も動いてはいない。
死んでいる。が、どうもおかしい。温もりがまるで無いのだ。
そっと仮面に手をかけると、胴体がビクッと弾み「うわ!」と、悲鳴を上げたのは誠司だ。
「……ああ、そういう事か」
仮面の下に顔など無く、仮面が外された胴体はシュウシュウ、と音を立て煙を吐いて縮んでいく。
「な、何?どういう事?」
「ただの操り人形だ、生きているように動いていたが、ただの術。しかし魔法まで使うとは随分手の込んだ玩具を寄越したもんだな」
夏帆の部室にあったホムンクルスの術札や憂鬱の石を思い出す。境界は生命は弾くが魔力そのものは通すのだろう。
床に目をやると、いつの間にかその外套だけが倒れた形のまま残されていた。
「誠司、感謝する。助かった」
「やっと格好良いところ見せられたかな」
誠司は初めて会った時のように、若い近衛兵を思わせるはつらつとした笑顔を見せた。
そして、その時、俺の手の中で仮面が湖面のように揺らめいた。俺は慌てて仮面を投げ捨てたが、床に墜落することなく、勝手にふわりと浮き戻ってくる。
この仮面が本体だ。これが人形を動かしていたのだろう。
「……ようやく見つけた」
仮面から聞こえたのはカリガネの声だ。
「喋った!」そう言って誠司は仰け反った。異形の者に対し、あんなにも見事な立ち回りをして見せたというのに、こんな物に驚くとは不思議な男だ。
「その姿、また一段と美しいな、触れられないのが残念だ」
仮面についた目のような窪みから、こちらの様子が見えているのだろうか。俺には知らない術だ。
うんざりと肩を落とし、仮面の額を指で弾いたが、コツンと音を立てただけであった。
「誰がテメェに触れさせるか」
「ふふ、強がりもいつまで言えるだろうか?そろそろ魔界の空気が恋しくなってきただろう」
「ああ、早くお前を殺しに行きたいよ」
誠司が恐る恐る仮面を覗き込み「誰?電話みたいな感じなの?」と、俺に尋ねてくる。
「……その男は?」
カリガネが鋭い声を出した。明らかに不機嫌なその声色、実に心地よい。
俺たちは昔からの馴染みだ、カリガネの性格は良く知っている。
「良い男だろ?俺の王子様だよ」
仮面に向け、にこりと微笑んでみせる。
そして、誠司の肩に手を回し、その唇を奪って見せると仮面はバリンと割れた。
「ちょ!リュウト」
「……すまん」
「いや、え?今、僕に、キスした?したよね?」
誠司は、穂積や夏帆が見せなかったような、恥らった顔で頬を染め高揚し、目を丸めていた。
「そんな顔するなよ、俺まで恥ずかしくなるだろ!」
しかしカリガネの反応は予想以上だった。今頃、魔界で怒りに震え咽び泣いている頃だろう。
嫉妬に焦がれて身悶えているかもしれない。あの男はそういう男なのだ。
「誠司、お前は強い。命を狙われるかもしれないが、なんとか耐えてくれ」
「え!?」
呆然と俺を見る誠司に向け、最高に可愛く見えるよう微笑んだのと、警察官が飛び込んで来たのは、ほぼ同時の事だった。
「明日からの生活費、頼むぞ」
誠司は苦笑いを浮かべて、その場にへたり込んだ。
「リュウト……ここの仕事、向いてるよ」
「もう働けと言われても絶対に働かねぇよ」
そう言った俺の言葉は、何人もの警察官の足音と緊迫した声にかき消され、誠司の耳に届いたかは分からなかった。




