悪魔リュウトと夜の蝶々-1
「失礼ですが客様は未成年ですよね?身分証と保護者の同意書が無いと、買取できない事になっておりまして――」
銀縁眼鏡の気取った男が、俺にそう告げた。
「そんな馬鹿な……どうにもならないのか?」
「決まりですから。大変申し訳ございません」
声色こそ感情的だが、眼鏡の奥の表情は一つも変えてはなかった。
仕切りを挟み、並んで座る女の「ラッキー」と、高く弾んだ声が耳に入る、察するにこちらでは、明朗会計な取引が進められたようだ。
店内を見回せば、数多くの宝飾品、さらには鞄や皮小物までもが、ガラスケースに飾られ、照明も過剰な程に明るく、整然としている。
魔界の買取商と言えば、多くの盗掘品を扱い、出入りするも者と言えば、出生卑しい放蕩無頼の男や、没落貴族の妻達が主で、店内は辛気臭く薄暗い。店の前には武芸に長けた者が立ち目を光らせているような所だ。
人間界と魔界では同じ商売も大きく違うらしい。
「ふぅ。仕方が無い、残念だが出直そう」
外套を羽織り、買取商の前に置いた金の指輪を、無造作に掴む。
女の指には合わず、抜け落ちた俺の指輪だ。
「良い品物ですよ、お嬢さんの持ち物なら大切にした方が良い」
「フン。皇子様からの貢物だからな、そりゃそうだろう」
カリガネから友の印として贈られたが、今となって思えば愛の証だったのかもしれない。
「一つだけ聞いても良いだろうか?この辺りで、角の生えた少女を見なかったか?赤土のような色の髪に、愛嬌のある顔をしている」
「角?」
「左の即頭部に一本」
「いやぁ、見たこと無いよ」
男は冗談でも言われたのかと思ったか、砕けた笑顔を見せた。
人間界へ堕ち、すでに二週間は立とうとしている。しかし、未だにホズミの行方は知れなかった。
俺とは違い、わずかに魔力が使えるのだから、野垂れ死にはしていないだろう。だが、あの間抜けな小鬼が、この人間界でうまく立ち回っているとは考えにくい。
「手間を取らせた。どうも有難う」
目を見てにっこりと微笑むと、男は顔を明るくさせ「本当は買い取ってあげたいけど、決まりだからさ」と、親しみやすい笑顔を見せた。
これ以上の長居は無用「では、失礼」と、指輪を小袋に放り投げ、自動扉の前へ立つ。
この扉に心を奪われたのも、すでに過去の事だ。
しかし、困ったな。
まさか、換金に躓くとは思っても見なかった。
金ぐらい自力で用意できると高を括っていたが、人間界というのは身分の証明が出来ない者には慎重なようだ。
いや、それもそうか。力の無い人間が、自身の身を守る為には必要なのだろう。嘆いていても仕方が無い。
後々高くつきそうだが、夏帆から金でもせびる事にしようか。
吹き込む秋風と同じように懐も寒いのだ。
「ちょっと貴女――」
間延びした声に背後から呼び止められ、振り返る。
中年の女だ。俺の顔を見ると「思った通り」と手を打ち「ねぇ!私の店で働かない?」と続けたのだが、その女の言葉の意味が暫く理解できなかった。
「働く……」
青天の霹靂。
まるで考えもしなかった。働けば金になる。こんな単純な社会的仕組みはない。いや、しかし大悪魔である俺が、人間社会の歯車に加わると言うのは躊躇われる。
しかし、混乱する俺に、女は畳み掛けるように話を続けた。
「あのね、変なお店じゃないの!普通はこんな所でスカウトなんてしないのよ?お仕事は簡単だから!お客さんにお酌をして、にっこりと微笑んでくれているだけで良いわよ!きっと人気が出るわ、貴女、綺麗だし、何だか守ってあげたくなるような優しい雰囲気があるもの」
「酒場の女……」
「どうかしら?この辺じゃ評判なのよ、私のお店。ねぇ、お金が必要なんでしょう?うふふ、実は私も質屋にいたのよ」
女は「お見通しよ」と、言わんばかりに、にっこりと笑って見せた
確かに金は居る。しかし、落ちるところまで落ちたような気がしてならない。
魔界で酒場の女と言えば、淫魔の狩場。俺のような高貴な者には相応しくないだろう。「悪いが……」言いかけたところで女がさらに追随をかけた。
「日給二万円でどう?」
二万円だと……!
この国の通貨にも、かなり明るくなってきた俺だ。二万円とは中々の高額。例えば穂積に手渡されているのは一日、五百円。
そして夏帆からは、顧問料として三千円。
あやつらは所詮、学生。俺のような美しく気高い大悪魔リュウトが、子供の小遣いで囲われているこの現状が、おかしいのだ。
――いけませんよぉ、リュウト様ぁ.!淫魔の真似事など。
姿など見えないが、ホズミの声が聞こえたような気がした。
そうだ、俺は漆黒の翼で黒天を駆け、業火をも制した大悪魔リュウト様だ。しかし、これが人間に堕ち、虫けらの中で生きる俺の生命線なのだとしたら……!
ホズミ、主人を許せ。恨むなら馬鹿皇子を恨むが良い。
「やってやろうじゃないか」
「ほんと?きゃー!良かった!私の事はママって呼んでね」
「ま、ママ?」
「えぇ!本当のお母さんだと思って頼ってね。今から時間があるなら、お店に出てみる?えぇと、今日はミナちゃんとレイナちゃんがいるし――」
早まったか?もしや、俺は今、身売りをしたのか……?
手帳を開き何かの確認をし始めた中年の女に、改めて目をやる。年の割には可愛らしい雰囲気で、背は高く姿勢も良いが、化粧気のない普通の中年の女だ。
この者が俺の母上……!?
「あらあら、大丈夫?緊張してきちゃった?」
ごくりと喉を鳴らした俺に、母上は優しく背を撫でた。その肉厚で温かな手の平は、何故だか穂積の手を思い浮かばせた。
*****
女は好きだ。耳障りの良い言葉を並べ、仮初の愛を囁けば、その柔らかな肢体で極上の快楽を与えてくれる。しかし、それ以上の特別な感情を抱いた事などはなかった。
一時の感情に一喜一憂し、時に愛を歌い、全てを投げ出してでも得たいと願う事など、己には訪れない絵物語の出来事だと思っていた。
だが、この俺の胸の内にある、溢れる思いが、恋なのだとしたら。
全く、どうにかなりそうだ。体の芯が打ち抜かれたような衝動。瞳を閉じ、訪れた闇さえも眩しいと感じる、この高揚感。
「…………」
鏡の中の俺は、もはや今生の者とは思えない程の美貌を湛え、目の前に大きく存在している。
瑞々しく光沢のある唇が、小刻みに震えているのは感動からだ。
適度に巻かれた髪は胸元までしな垂れ、適度な色気を醸し出す。背景に写りこむ裸の女など目に余地すらない。
こんな事ってあるのか……。
胸の高鳴りは抑えられそうもなかった。見慣れたと思った女の姿の俺であったが、化粧を施すと一段と輝いて見せたのだ。
自分である事が悔しいほど、愛しい姿がそこにある。
鏡の中の自分に恋をした籠の鳥の気持ちが、今なら分かる。こんな良い女が自分だなんて……!
陽に照らされた氷河を思わせる淡い水の色のドレスには、金糸が編み込まれ、その輝きが俺をまた惹きたてた。
この美しい女を我が物にしようとしているカリガネを思うと、腸が煮えたぎる。俺達は恋敵だ。
「ママー!この子、凄い綺麗になっちゃった!」
俺に化粧を施した女が叫んだ。
「あらぁ!やり過ぎじゃない?元が良いんだから、ここまでしなくても良かったのに」
「でも、お人形さんみたいで可愛くて、気合入っちゃった」
「ねぇ、自分で見て、どう?」
品の良さそうな貴婦人が俺の顔を覗き込む。誰だ。と、じっと見つめると「嫌だ、私よ」と婦人が笑って見せた。
その笑顔に、この人物が母上なのだと気が付く。
化粧とは、なんて恐ろしい物なのか……。
「魔法にかけられた気分だ」
俺の言葉に母上は小指を立てて笑った。
母上の店は、悪魔の俺から見ても、ここが花街であると一目で分かるそんな町の一角にあり、店は美麗な装飾と花々に飾られ、洗練されていた。
もし、母上の店が薄布一枚の魔女ばかりであったら逃げ帰ろう。そう、肝に銘じていたが、その必要は無さそうだ。
「仕上げにラメでもふっちゃおうか」
客前に上がる支度を整える為、鏡の前に座らされ、なすがままに美しくなっていく。
周りの女達も皆、別人のように変貌を遂げていく。男はこうして騙されるのかと思うと乾いた笑いが出た。
しかし、着替えの為に裸の女が往来しているこの控室こそ、客の男にとっては真の桃源郷であるかもしれない。
「ドレスも素敵でしょう?良く似合ってるわ」
「魔殿に使える占師のような服装だな」
「マデン?」
「邪蛇を祭った祠だ……そこの女達は皆こういう服を着ているのだ」
母上は聞かなければ良かった。と、言う顔をして「アリアちゃんは、お喋りはしないでニコニコしてくれたらそれで良いからね」と、念を押した。
「アリアちゃん」とは俺の仮の名だ。ここに居る女は皆、仮の名前で呼ばれているのだと言う。
――アリア。鏡の君の名はアリアと言うのだ。
「どうしたの?赤くなって」
「い、いや。なんでもない」
自分と目が合った。とは、言えまい。




