出会いの予感に高鳴れば
秩序と混沌とが重なり合う次元に位置すると言われる人間界。
人間達は高度な科学を持つが、個体としての能力は魔界の虫にも劣ると聞いている。
そんな下等で愚かなるお前たち種族が、高貴で優れた悪魔に一目置いてしまうのは、当然の事であろう。
だがしかし、気安く声を掛けられるようになるとは堕ちたものだ。
「ねーねー彼女! すっげー美人だねぇ、もしかしてモデルさん?」
歩を合わせピッタリと横をついてくるのは、前髪の一部を一角魔獣のように尖らせた人間の若い男だ。
見えるように、大きな溜息を一つ吐き出しても、男は引き下がらない。
視界を遮るその姿。実に煩わしい。
「いつも、この辺で遊んでんの?」
「……」
「こんな時間に女の子一人だと危ないよー? 俺と遊ばない? ねぇ俺の頭見て、角! なんつって」
いくら角を模しても、所詮は弱き人間の群れの一匹。どう足掻こうともそこから脱する事はできないと言うのに健気なものだ……。そう考えればこの者に対し同情にも似た親しみを感じる事ができるような気がしてくる。
「やっとこっち見てくれた! ねぇ、もしかしてさ、家出? 困ってるなら助けよっか?」
「……」
「俺の家この近くなんだけどさぁ」
「……」
無視を決め込んだ女に、これ程まで付きまとうとは、まるでヴァンゲルの爪鳥を思わせるしつこさだ。
ヴァンゲルの爪鳥とは廃墟街に住み着く鳥で、目を付けた者に生涯ついて周り、その者が死した時、その骸を食うと言われる魔界の厄鳥である。
「てか、不思議な服着てんねぇ、もしかして何かのコスプレ?」
指摘され自分の服へと目をやる。確かに人間の服とは大きく違っている。それが不恰好なのは自分でも分かっていた。外套からブーツに至るまで全てのサイズがブカブカなのだ。
「始発までまだあるしさー、行く所ないんでしょー?」
男の言うように当てはない。が、夜の寂しさを一人で持て余す安い女だと思われるのも気に障る。
足を止め、笑いかけると男は期待したように眉を上げた。
「鏡を見た事はある?」
「え?」
「鏡を見た事はあるのか。と、聞いている」
「そりゃあるけどぉー?」
「ふふん、ではその勇気を賞賛しよう。その程度の容姿で声をかけてくるとは、並みの精神力では不可能。まぁ、美しい女を求めてしまうのは雄としての本能かもしれないが、君がその思いを遂げる事は、まず無理だろうね」
「なっ……」
「早く帰ってもう一度よく鏡を見ると良い、愚か者め」
最高に美しく見えるように、にっこりと微笑んで見せた。
「すいません……」
非を認め謝罪を入れたその態度には好感を覚えるが、それまでだ。これで後を追っては来ないだろう。
ヴァンゲルの爪鳥を追い払うやり方を試したのが功を奏したようだ。
そう、自尊心を傷つけてやれば良いのだ。
ふーっと大きく息を吐く。東の空が白む。夜明けは近い。夜の底のような闇の岩窟から出で、ようやく陽の光を拝めるのかと思うと、長かった今日一日が終わる。そんな安堵に包まれる。何も変わらなくても一日の始まりは希望に満ち溢れているものなのだ。
視界の先に現れた小さな広場へ、自然と足が進んでいた。
支柱に二本の鎖で繋がれた木の板へ腰掛ける。子供向けの遊具だろうか。座った勢いで大きく揺れる。魔力の抜けきった自分の体は重く、掴んだ鎖に疲労がのしかかる。
魔界の強者として君臨していたのは、たった数時間前までの自分自身だ……。
遊具の揺れに合わせ軋む鎖の音と、ため息とが同じリズムで夜明けに響いていた。