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8話 ザ・ゴースト

 高島が自分の知っている事を三人の男達に話し始めた頃、『三島連命』が何処に居たのかと言えば……ある意味で、最も危険な場所に居た。


「く……あぁぁーー……疲れたっ」


 彼は重い物を運んだ後であるかの様に肩で息をしていて、疲れた様子を見せていた。


「あの、お疲れさまです……」

「ああ、お疲れだよ。精神的にも肉体的にもな。これならまだ変なギャングもどきと一緒に居た方がマシだぜ」


 労いの言葉を聞いて、連命は余計に疲労感を漂わせる。

 そこは崩れ落ちかけた民家の中である。家具の様子から言っても十年以上は確実に人が住んだ形跡が無く、カレンダーは十数前のままで止まっている。

 壁にかけられた止まった時計が、時間が止まっているかの様な民家を表していた。

 そんな場所の破れた畳に寝転がって、連命は自嘲と後悔を顔に浮かべる。


「畜生、俺って馬鹿だな、畜生……!」

「あ、あの……その、でも、僕達は助けてくれて、嬉しかったです……ありがとう、ございます」


 連命に向かって、一人の子供が元気付ける様な声をかけた。オドオドとした話し方だったが、意志自体ははっきりとしている。

 その子供、『立鳥安寧』は上半身に服を着ておらず、少し恥ずかしそうに目を泳がせていた。

 しかし、上半身が裸なのは連命も同じだ。彼らの服は今、ある事に使われているのである。


「いや、本当に馬鹿な事をしたよ。お前等を助けるだけにしておけば良かった……」

「え? あの、それはどういう……」

「こっちの話だ……畜生」


 猛暑の為に寒くは無い筈なのだが、悪態を吐く連命の顔は間違いなく寒気が浮かんでいる。

 その原因となっている者は、彼の隣で倒れ込んでいた。

 三カ所から血を流し、それを三人分の服で無理矢理止められている女----そう、その人物は女なのだ。加えて、連命はその女の顔に見覚えがあった。

 しかも、人殺しの犯人として。


「はぁぁっ……あの三人に見つかったら、俺も殺されるんじゃねえの……?」


 『殺し屋』の三人に知られれば、女と一緒に殺される。そんな確信が連命には存在した。

 男の呟きに、安寧が首を傾げている。すると、壊れかけた民家の奥から少年の声が聞こえてきた。


「安寧ー? 服、見つけたぜ。どうやら服なんかもそのままで家を捨てたらしいな。ちょっとばかり古くてボロいが……」


 奥から出てきた少年は、『三島幽鬼』である。彼もまた女に服を預けている状態の為に、着ているのは破れかけの埃が大量に付着した服だ。

 それでも何も着ないよりは良いと判断したのか、安寧は遠慮がちに手を伸ばした。


「あ、えっと……貰います。渡してくれますか……?」

「おう、ま、その為に探したんだしな」


 気安い様子で幽鬼は出来るだけ汚れていない服を渡し、今度は連命の居る方向へ歩いていく。

 安寧に向ける表情とは違い、連命を見る目には気軽さ以上の疑念が浮かんでいた。それは連命も同じで、彼は幽鬼に向かって眉を顰めている。


「なあ、いや、本当に何で居るんだよ。幽鬼よぉ……」

「それは俺が言いたい。兄貴こそ、何でこんな所に……」


 服を手渡しつつも、二人は微妙な表情になっている。実の兄弟である二人の顔はそれなりに似ていたが、表情の奥にある感情は全く異なる物だ。


「お前が助けてくれって言うから助けたんだぞ、クソが」

「あ? 兄貴、アンタこの人が殺されても良いって言うのかよ、外道か。早く病院に連れていきたいんだよ、俺は」


 幽鬼は非人間でも見る様な目で連命を見つめている。

 何も理解していない様子の幽鬼を見て、連命の顔に苦笑が浮かぶ。


「……俺は外道じゃねえよ」


 柴犬に連れられてビルの外へ出た彼は、空から落ちてきた少年と女を運んで此処まで逃げていた。したたり落ちる血を止める為に、服で押さえつける事までしたのだ。

 勿論、彼はこの町の内部を知らない為、一時避難できる場所を探したのは安寧という少年である。しかし、女と少年達を連れて逃げたのは、紛れもなく連命だった。

 自分の行動がどれほど恐ろしい結果を招くかを知りつつも、連命は弟からの頼みを拒めなかったのである。


「お前等、何も知らないんだな……」

「何だって?」

「いや、何でもない」


 内心の絶望を何とか抑えて、連命が虚空を見つめる。

 幽鬼達が女が『何』であるかを気づいていないのは明白であった。この場で女の正体を理解しているのは連命だけなのだ。


「本当に、勘弁してくれよ」


 ポツリとした呟きが連命の口から漏れる。その言葉は誰の耳にも届かず、消えた。

 その近くでは、破れかけた服を着込んだ安寧が心配そうな表情で幽鬼を見つめている。


「あの、幽鬼さん。怪我は……」

「大丈夫だ」


 身を案じている言葉を受けて、幽鬼は平気な顔で笑みを浮かべてみせる。特に怪我をした素振りは無く、しっかりとした足取りだ。

 ここへ逃げる間にも、かなりの早さで走っていた。それだけならば、問題は無さそうに見える。


「……お話が、有ります」


 そんな幽鬼の姿をじっと見つめて、安寧が静かに告げる。それが決意の籠もった瞳に見えて、幽鬼は安寧の瞳を睨んだ。


「何だ?」

「っ……此処じゃ駄目です、ちょっと、冶木さんも入れて……」


 一瞬だけ怯んだ安寧だったが、すぐに意志の籠もった目を幽鬼に見せつける。

 それを見た幽鬼が嫌な予感を覚えつつ、魂が抜けた様な顔の連命に向かって声をかけた。

 

「話をしてくるから、その人を見ていてくれ。頼んだ」

「……ああ、任せておけ……今の内に、捕まえておこうかな、それならあの三人も……」


 虚ろな目で頷きつつも、連命は手を何度か開いては握り締め、何事かを考え込んでいる。

 それに構っている暇の無い幽鬼は、安寧の隣に付いていく。向かうのは、家の奥だ。そこには冶木が居て、二人を待っているのである。







 家の奥には幾らかの家具が置かれていて、壊れかけた古めかしいパソコンが転がされていた。

 隅に立てられた写真は劣化の仕業か殆ど見えなくなっていて、この部屋を表している事だけが辛うじて理解できる物である。

 箪笥が幾らか開けられた形跡が存在して、その中から数枚の服が取り出されていた。


「……」


 それを見つめているのが、『医査冶木』だった。

 彼はじっと服を広げている。その表情からは何の感情も見て取れず、ただ黙ったまま部屋に佇んでいる。

 そんな部屋に近づいてくる足音が二つ有った。

 音の主達は急ぐでもなく、ゆっくりと近づいてくる。冶木は手に持っていた服を箪笥へ戻し、破れ落ちた襖の方へと目を向けた。


「あの、冶木さん。お話が……」


 部屋に現れた安寧が遠慮がちに話しかけると、冶木は腕を広げて何とも言えない笑い声を上げる。


「おお! 服は着たんだね、似合ってるよ。ふふ、良かった。でも、私ばっかり悪いなぁ」

「いや、お前の服を剥ぎ取る勇気が俺達には無かったんだよ……」


 面白がる様子で目を細めて大きな声を上げると、それを見た幽鬼が困った顔を晒す。

 冶木はどう見ても背が少し高い少女にしか見えないのだ。よって、幽鬼には彼に服を脱がせる事は全く出来る物ではなかった。

 その為、冶木は今まで通りに短めのワンピースに見える服を着込んでいるのだ。


「いや、私は別に裸でも良いんだけど……」

「勘弁してくれ……大体な、お前は本当に男なのか?」

「うん、それは勿論だよ。言うまでもないじゃない」


 冶木は明るい調子で軽やかな笑い声を上げる。口元に手を持っていく姿は、やはり少女の様だった。

 身振り手振り、あらゆる部分が少女に見える冶木の格好を見て、安寧と幽鬼の顔に困った物が浮かんでいく。


「ふうん……?」


 それを感じ取ったのか、冶木は自分の服の裾を掴む。少しだけそれを持ち上げると、ハーフパンツから伸びる綺麗な太股が露出した。


「……確認、する?」

「またそれか。勘弁してくれ」


 恥じらう様な顔をした冶木に向かって、幽鬼は疲れた様子で腕を振る。

 残念そうな顔をして、冶木が指を離した。


「そう、別に見たって何にもならないと思うんだけどね」

「あの、冶木さん、幽鬼さん……?」


 ふざけている様にも思える冶木と、そんな姿を面倒そうに眺める幽鬼。そんな二人に向かって、安寧が怖ず怖ずと声をかける。

 声は弱々しくとも不思議と響き、幽鬼に何とも言えない罪悪感を覚えさせた。


「あ、ああ。悪い。それで、話っていうのは何だ?」


 この場に来た理由を忘れていた幽鬼は、心からの謝罪を口にしながら安寧の方へと顔を向ける。すると、安寧は心配そうな様子で幽鬼の顔に近づいていき、その手を幽鬼の腕に運んだ。


「本当は……怪我を、していますよね?」

「っ……!」


 安寧が腕を這わせると、幽鬼の口から噛み殺した様な声が出て、それを聞いた安寧の目が細められた。


「やっぱり、怪我をしているんですね」

「……あー」


 困った様子で幽鬼はその目を泳がせて、逃げ腰になる。が、安寧の視線と腕が後退を許さず、しっかりと捕まえている。

 幽鬼は本当に困り果てて頭を掻き、静かに苦笑した。


「ま、ビルから落ちたんだからな。腕が酷く痛いくらいなら問題無いさ」

「……そう、ですか」


 俯いた安寧が、胃の奥から湧き出す様な声を上げる。

 冶木がじっと幽鬼を責める視線を向けた。二つの視線が同時に幽鬼に向けられて、彼の胸に嫌な気分がやってきた。


「悪かった」


 彼に出来るのは、ただ謝る事だけだった。


「……分かりました。分かりましたよ、もう」


 渋々に納得した事が明らかな様子で、安寧が一度だけ頷く。そして、彼は幽鬼の手を離すと、少し距離を取って見せる。

 幽鬼が安堵の息を吐く事も無く、安寧は話を続けた。


「それで、これから、どうするんですか……?」

「ああ、確かに。確かにそうだね。私もどうするかは気になるね。で、どうだい?」


 安寧と、それに同調した冶木が揃って幽鬼の顔を見つめた。二人は妙に息が合った様子で、無駄な圧迫感を発しているのだ。

 気圧される物を感じた幽鬼が自然と目を逸らしたが、彼の頭の中には既に回答するべき物が有る。


「そう。兄貴と話して、逃げようかと思ってるんだが。ま、逃げきれるならな」


 肩を竦めながらの行動だったが、幽鬼には一つ、計画を成功する為に『やるべき事』が存在した。

 その為に、幽鬼は静かな覚悟を決めている。が、彼は二人に対してそれを告げるつもりは欠片も存在しない。黙ったまま、行動する気である。

 しかし、幽鬼の覚悟は見抜かれていた様だ。


「僕、僕が、行きます……!」


 安寧が強い覚悟を籠めた声を上げる。それに対して幽鬼と冶木が何かを言うよりも早く、その大きな声は続けられる。


「僕が……囮になります!」


 それを聞いた幽鬼の目が思い切り見開かれた。彼が考えていたのは、まさしく『それ』だったのだ。

 一人で行動し、あえて囮となって目立つ事で追っ手からの視線を逸らす。基本的で単純な行動では有るが、確かな効果が見込めるだろう。幽鬼はその『囮』になる事を考えていたのだ。

 彼は唖然とした様子になり、静かに言葉を吐く。


「……気づいてやがったんだな」

「妙に怖がってる顔をする人の内心くらい、分かります!」


 普段の安寧とは似ても似付かない激しい感情を発露した叫び声が部屋中を埋め尽くす。

 何とも言えない表情をした幽鬼に向かって、安寧の表情は更に強くなっていった。


「だから、僕。僕が、行くんです。僕じゃないと、僕が……! 怖いけど、逃げたいですけど……」


 一度目を瞑り、安寧は深く息を吸う。

 次に目を開いた時の安寧には、普段のオドオドとした態度の片鱗すらも存在しなかった。


「だから、僕が目立って、囮になれば、きっとみんな無事に帰れます!」


 根拠の無い言葉だった。だが、それは同時に魅力的な提案でもあった。今日会ったばかりの単なるチャット仲間を生け贄にすれば、他の者が生存出来る可能性が上がるのだ。


「そうか……」

「そうです! 分かってくれますよね!」


 幽鬼の口から納得の様に聞こえる声が出る。

 すると安寧の表情が目に見えて明るくなり、照りつける太陽よりも輝いて見える様になった。

 自分が死ぬかもしれないというのに、喜んでいる。余程の覚悟を決めていると見えるその顔を見て、幽鬼はその頭を撫で回した。


「いや、覚悟は伝わってきたよ。そうだな、俺だって死にたくないしな」


 撫で回した頭をそのまま引き寄せて、幽鬼は両手を後ろへ持っていく。

 彼は笑みを浮かべたまま、安寧に向かって話しかけた。


「なあ、安寧……悪いな」


 小さな謝罪の言葉。それを口にすると同時に、彼の手が前に出る。

 その両手は何かの物体を握りしめていて、彼が最初から『それ』背中に隠し持っていた事は明らかだった。


「え?」

「本当に、悪い」


 もう一度素直に謝罪すると、彼は『それ』を安寧が目にするよりも早く、安寧の顔に吹きかけた。


「わっ……な、何をするんですか……!」


 顔に謎の物質をかけられた為に、安寧は遠慮がちながら怒りを放つ。しかし、そんな表情が出来たのは僅か数秒程度の事だ。

 すぐに安寧の足取りは怪しくなり、彼は頭を押さえてよろけ出す。


「あ。あれ? これっ……て、あれ……? 何だっけ……?」


 少しずつ意識が朦朧としていくのか、安寧は遂に床へ座り込んだ。

 壊れかけの床板が軋んだが、彼は気づかないまま床に体を預け、微睡む様な息をする。


「あれ……ん……ぅっ……」

「悪い、寝ていてくれ。きっと、無事に帰してやる」


 意識を眠りに落とす寸前の安寧が聞いた言葉は、幽鬼の意思表明に違いなかった。









 床に寝転がった安寧の体をそっと支えて、幽鬼は自分が吹きかけた物体を、実に微妙な様子で眺めていた。

 それは円筒の先にノズルが付いた物体であり、何やら物々しい雰囲気が発せられている。


「すげえ効果だな、これ……一体何に使うんだよ。クソ、死んでないよな、安寧」


 自分でしておいて、幽鬼はとても不安そうな顔をする。

 それは、催涙スプレーであった。冗談にならない程の効果を持っていたそれは、幽鬼の想像を遙かに越えて安寧を昏倒させたのだ。

 倒れ込む安寧をじっと見つめ、冶木が静かな笑みを浮かべる。


「思わず持ってきたが、正解だったな! いや、正解だったのか? 私としては普通に正解だったと思うんだけどね、ふふふ」


 催涙スプレーを持ってきたのは、冶木だったのだ。

 元々は安寧の鞄に入っていた物の一つだ。一体何時持ち出したのか、冶木はそれを幽鬼に渡していた。

 催涙スプレーはしっかりと活用されたが、余りにも凄まじい効果に幽鬼は複雑そうなニュアンスの含まれた感謝を口にする。


「ああ、まあ、助かった」


 手に持っていた恐ろしい催涙スプレーを床に置くと、幽鬼は安寧の腰と肩を支えて立ち上がる。

 部屋の隅に置かれていたベッドに安寧を運ぶと、腕の痛みを堪えて眉を顰めた。


「いてて、ああ、痛い」

「大丈夫かな? 幽鬼君は無理をしたからね、怪我をするのは仕方が無いけどさ」


 気遣う様子すら無い冶木が、声をかけている。それを聞いた幽鬼の顔に真剣な物が宿り、彼は静かに冶木の肩を掴んだ。


「……冶木」

「んん? 何かな。怖い、肩を掴むなんて。いや分かるけど、私を襲うつもり? でも男だよ? それでも……良いの? 良くても私は良くないよ? 嬉しくないし楽しくないし、大体そんな事をしている場合じゃないし、そうでしょ?」

「お前に、頼みが有るんだ」


 戯言を抜かす冶木に向かって、幽鬼は静かながら激情の籠められた声を上げる。

 素早く、冶木の口が封じ込められる。彼が何も言えなくなった事を理解するより早く、幽鬼の言葉は続いた。


「コイツを連れて隠れてくれ。時間は俺が何としてでも稼ぐ。困った事は全部兄貴に頼ってくれ。頼むよ」


 ほんの僅かな沈黙が訪れる。すぐに冶木は目を開けて、理解を示す。


「ああ、本当に囮になるつもりなんだね」

「その通りさ、その通りだよ」


 幽鬼の口元が無理をしている事が分かる笑みを浮かべる。感情の奥に隠された恐怖が見えるかの様だ。

 しかし、冶木は喜びを表して腕を広げて見せた。


「そうかそうかぁ! 私に任せるのか! うんうん、嬉しいよ。頼られるのって人間的にはとても暖かい気持ちになるよね、どんなに人間が嫌いでもさ、ああ、幸せになれるかもしれないよ。有り難う、本当に有り難う!」


 謎の感謝の言葉を口にしつつ、冶木は両手を口元で繋ぎ、体をくねらせる。今にも飛び上がる勢いの明るさが在り、首を何度も振る所が何故か愛らしい。

 一瞬だけだが、幽鬼が困った様子になる。それは本当に僅かな間の事で、幽鬼の表情の中に強い感情が浮かんだ。


「なあ、どこまで本気なんだ?」


 その言葉を聞いた途端、冶木が意外そうに目を見開く。


「……何の事かな?」

「いや、嘘を言うなよ。お前な、言ってる事に真剣味が無いじゃねえか」


 冶木に向けられた強い指摘が続く。確信の籠められた声は冶木に奇妙な発言を許さず、ただ黙り込ませた。

 それでも幽鬼の言葉は止まる事無く、静かに言葉を繋げた。


「答えろ。本当のお前は、誰だ?」


 追求の言葉が響き渡る。

 しかし、冶木は何も答える事は無く、ただ安寧の静かな寝息だけが音となっていた。


「……」

「ま、いいさ」


 完全に黙り込んだ冶木を見て、幽鬼は意外な程に優しげな微笑みを浮かべる。


「教えたくないなら、詳しくは聞かない。だが、兄貴と安寧を連れて逃げてくれ。お前は鬱陶しいが、死んで欲しいとは思わないんだ」


 軽く背中を叩き、幽鬼は力強い瞳で冶木を見つめる。どれほどの恐怖を抑えつけているのだろうか、凄絶な覚悟すら見て取れる。

 それは揺らぎはしても、決して折れない意志の固まりであるかの様だ。冶木は喜びとも悲しみとも取れる表情になって、幽鬼へと純粋な好意を向けた。


「君は、本当に優しいね。凄く自己犠牲的で、とても暖かい気持ちになる。本当に……会えて良かった。君みたいな人、大好きっ……あ、友達としてだからねね?」


 取って付けた様な言葉を加えて、冶木は悪戯っぽく笑い、幽鬼の怪我をした腕に触れる。

 あからさまに動揺した幽鬼が冶木から目を逸らし、思い切り髪を掻き回す。自己暗示の様にそんな挙動を取ると、彼の表情には力強い物が戻る。


「最後の言葉が無かったら、もしかするとお前にドキっとさせられたのかもな……じゃ、行くぜ」


 不敵にすら見える顔をして、幽鬼は勢い良く身を翻す。誰にも止めさせない、そんな意志を放ちつつ、彼は素晴らしい俊足で壊れた窓から飛び出し、家の外へ向かっていった。

 怪我を感じさせない、軽やかな足取りである。そんな背中をじっと見つめ、冶木が部屋に置かれた写真立てを撫でる。

 その顔に浮かぶのは、よく分からない『何か』であった。


「ああ……私を信じるなんて、本当に人が良いよね」


+




「んっ……」


 幽鬼が強固な決意を秘めて飛び出した頃、それに同調するかの様に『地海蒼空』は目を覚ました。

 意識を覚醒させても自分が置かれている状況を理解できなかったのか、彼女は戸惑いを口にする。


「あ、ら?」

「よう、起きたんだな」


 心の中で首を傾げた蒼空に向かって、何者かが話しかけてくる。そこで初めて自分以外の存在に気がついた蒼空は、隣に居る声の主の顔を見る。

 特徴的な人物ではなかった。何処にでも居る普通の人間といった雰囲気であり、偶然会ったとしても気づずに通り過ぎてしまいそうな、つまり地味な男である。

 しかし、蒼空は男の顔を知らない訳ではなかった。それも、自分の犯罪行為の目撃者として。


「あなたは……」

「お前のお陰で追われる事になった男だよ、酷いと思わないか?」


 肩を竦め、男、『三島連命』は睨む様な目を蒼空へと向ける。

 蒼空は思い切り俯き、静かに苦悩した。目の前の男は確かに蒼空を捕まえる証拠を持った人物であり、彼女が殺した者達の上に居る者達が欲する情報の持ち主でもあるのだ。『三人の男達』に追われたとしても、おかしくはない。

 事実とは異なる予想だったが、蒼空は『そうに違いない』と考え、謝罪の為に立ち上がろうとする。


「ごめんなさい……いっ!?」


 しかし、立ち上がろうとした瞬間に彼女は苦悶の声を上げて、自分の胸元を押さえる。そこからは、大量の血が流れた形跡が存在する。

 銃弾によって出来た足と腹部の穴にも、彼女の脳内が麻痺する程の激痛が走っている。

 痛々しい姿を見た連命が思い切り眉を顰め、注意をするのも仕方がないだろう。


「おい、銃弾を三発も喰らったんだ。不思議な事に血は止まったんだが、絶対安静なのは変わらないんだぞ」

「そ、そう、ね……」


 悶絶しながら連命の言葉に同意を示し、蒼空は再び体を床に預けた。

 そこで心配事が頭に浮かんできたのか、蒼空の顔に不安が宿り、連命に向かって尋ねていた。


「その、十歳くらいの子は居ない……?」

「居るよ、一緒に逃げてきた」

「……そう、良かった……私の為に死なせるなんて、あり得ないもの。あなたが連れてきてくれたの?」


 連命の即答を聞いて、蒼空が見るからに安堵して体の力を抜く。感謝を瞳に浮かべ、彼女はじっと連命の顔を見る。

 僅かに居心地の悪い物を感じた連命が目を逸らし、静かに答えた。


「俺がやったのは、お前を此処まで運ぶ事だけだ」

「あ……ごめんなさい、大変だったでしょう?」


 その返答は蒼空の顔色を悪くして、彼女に謝罪を口にさせた。

 何を謝っているのかが分からず、連命は決して相手の顔を見ずに、驚く程幽鬼に近い声音で素直な感想を口にする。


「いや重かったな」

「まあ、そうでしょうね。軽かったら怖いもの」


 特に怒らず、蒼空が同意を示して頷いた。そんな小さな挙動であっても痛みは来るのか、また眉を顰めている。

 しかし、そんな風に痛みに耐えながらも、彼女はやはり心から感謝を口にした。


「本当に、ありがとうございます。私はともかくとしても、あの子達を助けてくれて……本当に」

「大した事はしてねえよ」


 照れくさそうな顔をして、連命が髪を掻く。

 やはり幽鬼とよく似た仕草を無意識に行いつつ、彼はゆっくりと疑念を顔に浮かべている。

 そっと女の顔を見て、彼は心の中に浮かんだ感情を口にした。

 

「なあ、アンタ。本当に人を殺したのか? いや、俺はこの目で見たんだが……」


 その目で見たとしても、今の彼女が同一の人物だとは信じられないだろう。自分の視覚という物が信じられないと言いたげな言葉だ。

 言葉の中には『出来れば否定して欲しい』という意志も含まれていた。これほどに心配性で暖かな雰囲気の女性が笑いながら人を残虐に殺す、思い込みであったとしても嘘だと考えたいだろう。

 だが、連命の期待を蒼空はあっさりと打ち砕いた。


「ええ、そうだけど……?」


 まるで、人を殺す事が当然であるかの様な口振りである。

 寒気を覚えた連命が目を見開き、おぞましい物でも見る様な目を蒼空へと向けた。


「お前……」

「どうしたの? あ、そうね。私が人を殺したから、あなたは追われたんだから、怒るのも当然かな」


 彼女は連命の動揺の理由を全く分かっていない様子だった。

 人の命の価値を何とも思っていない発言は連命の心胆に凍てつく物を覚えさせている。彼女は余りにも非人間的で、一般的な人間の『それ』とは異なる思考を持っている様に思われた。


「お前って奴は……」


 人と同一視するのは困難な雰囲気、連命はそれを感じ取っていた。



 それが故に、彼は背後に何者かが居る事に気づかなかったのだ。


「話はその辺にしておいて貰えると助かるね」

「あ……がっ……!?」


 唐突に、連命の体に強烈な衝撃が走る。

 声は男の物で、何やら危険な雰囲気が存在しているかの様に思われる。何らかの武術でも嗜んでいるのか、連命に加えられた一撃は意識を強烈に揺さぶった。


「お前、一体……!」

「悪いな、死ね」


 朦朧としたままフラフラとしゃがみ込む連命の顔に、男の回し蹴りが迫る。

 だが、その強烈な脚は連命の顔へ届く前に、たった一本の腕によって防がれていた。


「殺しては、いけないよ。命の恩人には、命で答えるべきだから」


 蒼空は、寝転がった状態で腕を持ち上げて、たったそれだけの事で強烈な勢いの有る回し蹴りを止めて見せていた。

 攻撃を止めさせられた男が不満を顔に浮かべたが、それ以上は抵抗せずに脚を下げる。


「……仕方無いな、で、まだ殺せるのか? 復讐は終わっていないんだろう?」


 男は挑発的な事を蒼空に向かって口にする。

 決して友好的とは言えない声を聞き、彼女は口が裂けた様な笑みを浮かべた。


「勿論よ……くっ……うう……ああっ!」


 恐ろしい笑みを浮かべた蒼空は、怪我を無視して立ち上がった。足の出血が再び始まったが、彼女は気にせずに笑みすら浮かべてみせる。

 それを見た男は呆れと畏怖の混じった様子で何度か自分の見ている物が現実である事を確認し、溜息を吐いた。


「お前、本当に人間か?」

「何、人間に決まっているでしょう? 今だって凄く痛いのよ、察して欲しいな」


 自身の言葉通り、蒼空が無理をしている事は明らかである。

 顔に浮かぶ冷や汗も、僅かに震える体も、時折泳ぐ視線も、あらゆる物が無理矢理に体を動かしている事を証明しているのだ。


「ああ、行くぞ」

「そうね、行きましょう……」


 それでも、蒼空は笑って男と共に家を出ようとした。

 そんな彼女の耳に、地獄から響く様な朧気な声が響いてくる。


「待……てよ……まだ、話は……終わって、ねぇ……」


 連命だった。彼は意識を失いかけながら、それでも蒼空を止めようとしていたのだ。

 必死になって意識を保つ姿を見て、蒼空が困った顔になる。が、彼女は足を止めず、また謝罪だけを口にした。


「ごめんなさい」

「気絶しとけ」


 蒼空とは違い、男、いや雨中は冷酷にも聞こえる声を投げつける。

 その言葉が最後の一撃となったのか、はたまた蒼空の謝罪が最後だったのか、連命は家の崩壊した床へと倒れ込んでしまった。


「ごめんなさい。あなたに迷惑をかけた分まで、殺してきます」


 連命の姿を一別して、蒼空は決意も新たに歩みを進めていく。


 その先に有る『真実』に、気づいていなかったとしても。

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