12話
一時間もした後、少年達は喫茶店の中に居た。
相変わらず店員の老人はじっと何処かを見つめていて、客達の事など注意した様子は無い。
しかし、この猛暑の中で空調の有る店に居るのだ。どんな対応でも気にならないだろう。実際、少年達が気にした様子も無かった。
店の対応など気にも留めず、少年達の一人、安寧は不安そうな声を上げている。
「えっと、それであの……僕達は、どうなるんですか?」
俯きながら、安寧が幽鬼に問う。すると、幽鬼は強く強く笑みを浮かべて、安寧の肩を叩いた。
「兄貴からちょっと聞いたんだが、大丈夫だってよ。何も問題は無いってさ」
「そう、そうですか……良かった……」
肩の力を抜いた安寧を見て、幽鬼は気遣わしげに顔を覗き込む。
「ああ、本当に良かった。怪我は平気か?」
「あはは……大丈夫ですよぉ。心配、しないでください、首が絞められた感じも消えました……から」
言いつつも、安寧は自分の首の辺りをしきりに触っている。雨中に絞められた首には、まだ嫌な感覚が残ってるに違いない。
幽鬼は目を細めて、心苦しい気分になりながらも、安寧の肩を掴んで両目を合わせた。
「大丈夫じゃないなら、ちゃんと医者に行こうな?」
「……大丈夫です、僕、平気です」
「……っ」
無理に作ったと分かる微笑みが、幽鬼の心を貫く。
『安寧が人質に取られたのは、自分が囮になれなかったからだ』
少なくとも、本人はそう考えていた。
幽鬼は罪悪感で死にたくなったが、何とか表情に出さない様に努力を重ね、無理矢理に頷いた。
「そう、か? そうなら、良いが……お前は、本当に良い奴だなぁ」
「え、え……そんな事無いですよ!」
謙遜した様子で腰を浮かせて大きく首を振り、安寧が微笑ましい空気を作り上げる。
幽鬼の罪悪感も少しは緩み、彼は死にたくなる気分を払拭する事が出来た。
楽になった幽鬼は、次いで対面席に座っていた人物に目を向ける。
「悪い奴ってのはコイツの事を言うのか?」
視線の先に居るのは、半ばトリップした様子の冶木だった。
「いやあ、悪い悪い! ちょっと目を離した隙に安寧君が居なくなっていてさ! ごめんよ、本当にごめんね! ああ、なんて私は酷い奴なんだろう。こんな私は私じゃない。私じゃないなら誰なんだ、私は一体誰なんだ!?」
「知るか」
やはり奇妙な口調の冶木を一言で粉砕し、幽鬼が鋭く睨み付ける。深い怒りが室内に広がり、その全てが冶木に叩きつけられる。
彼が怒る理由は簡単だ。起きあがってしまった安寧が勝手に駅へ向かってしまったのである。
「俺は、お前に、任せたんだがな……」
幽鬼が地響きの様な声を吐いていて、重苦しい空気が更に酷くなる。
しかしながら、冶木は今にも口笛の一つでも吹きそうな顔をして、軽々と怒りを受け流していた。
「あっはは、しょうがないよね。私だってミスくらいするし、うんうん。ミスさ、ミス……女? そうか、女か! 良いね、良い良い! でも私は男だから!」
「……で、お前は俺達が大変な状況に会った時、何処で何をしていたんだ?」
「さあ? 想像してみるんだイマジンするんだ、考えるんじゃない、感じるんだ。そうすればきっとジークンドーが使える様になる」
「……真面目に答えろよ」
反省した様子の欠片も見せない冶木に対して、幽鬼の視線が更に冷たくなる。空調の冷たさと飲み物の冷たさ、そして幽鬼の冷たさが組み合わさり、極寒の地と勘違いする程の寒気が周囲へと伝播する。
言葉すらも凍り付いてしまう様な空間の中で口を開いたのは、やはり幽鬼自身だった。
「まあ……しょうがねえな、しょうがないよな。俺だって勝手に動いたんだ、人の事は言えないさ。認めたくないけどな」
毒気を抜かれた様子で幽鬼が肩を竦め、冶木を容認する意志を見せた。
凍り付いた様な状態はすぐに氷解し、息を飲んでいた安寧がホッとした顔になる。幽鬼は表情を変えぬまま、馬鹿らしそうに溜息を吐いている。
「はぁ……なんか、この流れ三回くらいやった気がしてきてな」
「ああ、もう良いかって気分になった、と」
「お前が言うな、と言いたいんだが。ま、良い」
変わらぬ冶木にペースを乱されるのか、幽鬼はとても話し難そうだ。それでも先程の様な嫌な雰囲気は流れず、居心地の良い状態になっていた。
良い空気が作られた事で喋りやすくなったのか、安寧が二人に向かって静かに頭を下げる。
「あの、今日は……色々有りましたけど、楽しかったです。怖い事もありましたけど、会えて嬉しかった」
「……そうだな。あはは、ああ、こんなに酷い出会いの日が有るとは」
「一生の思い出になりそうじゃないか。私は良いと思うけどね」
三人は嬉しそうに笑い合っていた。特に幽鬼は幸せそうで、恐ろしい事も苦しかった事も、出会いの前には及ばないのかもしれない。
そんな幽鬼は、店の隅に置いてあった自分のカメラを手に取り、提案する。
「記念写真、撮っておくか?」
「……良いですね、撮っておきましょう!」
「私は、そうだ。うん、良いよ」
冶木が少し迷った様子だったが、最終的には同意する。
三人は即座にカメラを撮れる姿勢に入っていた。
「良し、なら……こうして……」
「どういう笑い方をすれば良い?」
「嬉しいとか、幸せ、とか、楽しかった、とか……そういうの、良いんじゃないですか?」
中央に幽鬼を置いて、その腕を安寧と冶木が左右から組んでいる、背の足りなかった安寧は椅子の上で膝立ちをしている。
三人は静かに笑っていた。
「ああ……じゃ、撮るぞっ」
すると、三人の仲を記録するかの様に、カメラが撮影した事を告げる音を立てた。
「よし、撮れたかな」
「古いタイプだからな、現像してみるまでは分からないさ」
幽鬼は、機嫌良くカメラを握り締める。幸せな沈黙が三人の間に訪れた。
このまま、何事も無く三人は家に帰る事が出来るかもしれない。そんな期待が沸いてしまう程に、彼らは落ち着いている。
「…………」
老人の視線だけが、喫茶店の空気を作っている。
そんな中、安寧が思い出した様に顔を上げると、二人に向かって遠慮がちな声をかけた。
「あの、ちょっと……」
「ん?」
「僕の鞄、なんですけど……取りに行っても良い、ですか? あのビルに置いて来ちゃいました、から……やっぱり、駄目、ですよね……」
気弱な安寧の言葉を聞いて、幽鬼は頭の中で大きな鞄の形を思い浮かべる。
事前に準備をしていた安寧が大量に持ち込んだ道具の数々が、その鞄には入れられているのだ。相応のコストを必要とした事は想像に難く無かった。
安寧に対して申し訳ない気持ちになっていた幽鬼は、何も考えずに頷いた。
「ああ……そうだな、探索どころじゃ無くなったからすっかり忘れてたよ。取りに行こうか」
「良いんですか? あの、ありがとうございます」
「そんな事くらいで感謝しなくて良いって、本当にな」
嬉しそうにしながらも幽鬼は手を振り、気にする必要は無いと言いたげな姿を安寧に見せつける。
それが利いたのか、安寧は明るい顔をして立ち上がった。
「それじゃあ、行きましょうか! 多分、あのビルにまだ有りますよね……!」
「おお、さっさと取りに行くか」
安寧に続いて、幽鬼が腰を浮かせる。勿論、一緒に鞄を取りに行く為だ。
しかし、幽鬼が動き出すかどうかという瞬間に、喫茶店の扉が開く。
「おい、幽鬼?」
扉を開けて顔だけを出したのは、連命だった。
声に反応した幽鬼は、扉に顔を挟んだ状態の連命に、奇妙な物でも見る様な目を向ける。
「お、兄貴」
「ちょっと話が有る。来てくれ…………『シャイニング』みたいだな」
「兄貴?」
「いや、こっちの話だ。来てくれるか?」
連命は適当な戯言を吐いている。幽鬼が首を傾げたが、連命自身は対して気にしていない様だ。
ともかく、連命の目は真っ直ぐに幽鬼を見つめていて、幽鬼が断る事を許さない。
諦めた幽鬼はしっかりと立ち上がり、店の扉へ近づいた。
「悪い、冶木と先に行っていてくれるか?」
「あ、はいっ……」
僅かに残念そうな顔を顔をする安寧を見て、幽鬼はどうも据わりの悪い気分となる。
しかし、連命の居る方へ向かう足は止まらず、その背中に向かって冶木の声が届いた。
「じゃあ、バイバイ」
「永遠の別れみたいに言うなよ、縁起の悪い」
やけに静かな冶木の声を、苦笑しつつも幽鬼は軽く流す。
それが故か、幽鬼は冶木の表情の奥に危険な物が宿っている事にすら全く気づかず、カメラを後生大事に握ったまま、店から出て行ってしまった。
「じゃあ、行きましょう」
「そうだね、うんうん。ビルの方だね、ふふふ、じゃあ行くから、ね! ふふふ……」
怪しげに笑う冶木と、機嫌良く動き出す安寧。
幽鬼が二人の言葉を聞いたのは、それが最後だった。
「兄貴、一体何っ……」
「良いから、ちょっと来い」
喫茶店から出た幽鬼は、一瞬で表情を険しい物に変えた連命によって、すぐに体を引っ張られていた。
勢い良く腕を引かれた為に、幽鬼は驚いた様子で移動させられる。文句を言う暇すら与えられなかった。
不審に思って、幽鬼は眉を顰める。
「どこに行くんだよ、兄貴」
幽鬼が苛立ちを口にして連命を止めようとしたが、彼は止まらず歩き続ける。
先程までの幸せを台無しにされた気がして、幽鬼は本格的に怒りを顔に浮かべた。それでも連命は剣呑なまま警戒感を漂わせていた。
とても奇妙な態度に、幽鬼は不安を覚える。
「何、一体何なんだ、教えてくれよ、なあ?」
「すぐ分かる。黙って着いてこい」
殆ど首根っこを掴む勢いで連命は幽鬼を連れて走っていた。
二人は一分程走っただろうか、連命が森の影に入り込み、連れられていた幽鬼も同じく森の中へ入っていく。
そこには、待ち構えていたかの様に、危険な雰囲気を纏った者達が立っていた。
「着いたぞ。ああ、連れてきたさ」
「え、兄貴……何、これ?」
そこに居る者達は、幽鬼も知っている人物だった。
三人の男達が居たのだ。彼らを見たのは駅前での事で、幽鬼は彼らの力や凶悪な存在感を軽視などできない。
「よう、幽鬼、だったっけな?」
「ちょっとばかり話が有るんだ、なぁ?」
男達は言葉を繋げながら話し、幽鬼の顔を一斉に見つめる。それだけで圧迫感を覚えて、幽鬼の顔が恐怖や戸惑いに染まる。
自分が連れてこられた理由が分からず、幽鬼は必死で声を出した。
「え、ええっと……そうだ、あの変な奴と、蒼空さんは……?」
幽鬼が切り出した話題は、安寧を人質に取った男と、蒼空の事だ。それを聞かれる事は予想していたのか、男達は僅かな躊躇も無く、軽々と答える。
「奴等なら、もう捕まえてある」
「高島がもう運んでいるんじゃないかね」
「だが、今はその事はどうでも良い。どうせ後で殺すから、どうでも良いさ」
寒気のする様な怒りを放ちながらも、彼らはあくまで幽鬼に敵意を向ける事は無い。
彼らの態度が危険な物ではないと知ると、幽鬼も少しは冷静になれた。余裕を取り戻した為か、連命が安堵の息を吐いている事すら分かるのだ。
幽鬼は思わず疑念を抱いた。三人も、連命も表情の何処かに安堵が有る。何が起きたのか、その正体を幽鬼は探ろうとしていた。
しかし、幽鬼が三人の様子を窺うよりも早く、彼らは本題を口にする。
「まあ、先に俺達の話を聞いてくれ」
「そう、お前に一番関わりの有る事なんだ。大事な話だ」
「俺達は、色々と知っているんだよ。この町の事なら、色々と、な……」
彼らからは、重苦しさと軽い調子の混ざった何とも言えない雰囲気が有る。
突然重要そうな話を始める事を告げられて、幽鬼は相手の言葉を聞く姿勢に入った。
「……一体、何の話ですか?」
幽鬼は、三人から危険な物を感じ取れば即座に逃げられる様にする。
当然ながら幽鬼の警戒など男達は察知しているだろうに、彼らは気にせず話をした。
「聞いてくれるか」
「信じられない話だと思うかもしれないがな……?」
「早い話、お前は殺される所だったんだよ」
一度息を溜めて、三人の男達が同時に告げる。
「だが、本当の事だ。聞け……」
そこから語られた内容は、到底信じられない事だった。だが、同時に妙な説得力の有る物であり、何より幽鬼の魂に貫く様な衝撃を与える内容であったのだ。
+
廃ビルの上層階には、安寧と冶木が居る。
荷物を取りに来た彼らは殺し合いでも有った様な部屋の惨状に若干の驚きを見せたものの、すぐに驚愕から脱して鞄を探し始めていた。
「あったあった、有りました!」
鞄はすぐに見つかったのか、安寧は爆弾でも爆発したかの様な部屋の中で、喜びの声を上げる。
部屋の隅で頃がされた家具を眺めていた冶木は、その知らせを聞いて機嫌良く振り向いた。
「おお、良かった……って、あーあ、ボロボロじゃん。一体何が有ったの、この部屋」
「何が有ったのかはともかく、荷物が帰ってきて嬉しいです……!」
安寧が嬉しそうに鞄を撫でている。何らかの物で撃ち抜かれてはいたが、何とか原形と中身は保った様だ。
しゃがみ込んで、安寧は鞄の中身を確認し始めた。
「いやぁ、良かった良かった。大事な荷物なんだから、大事にしないとね」
「そう、ですね。あ、一応全部有るみたいです。でも幾つか中で傷が入ってるのと、使えないのが有りますね……」
殆ど独り言の様に安寧は鞄の状況を口にして、僅かに残念そうな物を顔に浮かべる。
冶木にとっては大して興味の無い事なのか、彼は少女の様な身体を窓の側に近づけた。すっかり割れている窓ではあるが、その方が自然と外を見る事が出来るだろう。
冶木は何も言わず、ただ黙って外の様子を眺めていた。
「……」
憂いを秘めている様にも見える横顔が、とても美しい。顔立ちが、という意味ではなく、冶木の本質に迫った表情が綺麗なのだ。
そんな表情には気づかず、安寧は静かに冶木へと近づいていった。
「あの……」
「んん?」
振り向かず、冶木はただ反射的な声を発する。
そんな対応に気づいていても、安寧はしっかりとした雰囲気で微笑んだ。
「ありがとうございます。僕を助けてくれて」
「何の何の、気にしなくて良いよ。木にしなくて……おお、人柱か! なるほど人柱とは家の柱の代わり、つまり木材に身体を変える事に違いないね! いや待て、じゃあ伐採されるのか、人間は。ならどうやって……恐ろしい話だと思わない?」
また意味不明な発言を繰り返す冶木だったが、安寧は全く気にしなかった。
「僕みたいな子供を信じて逃げてくれたり、本当に、嬉しかったんですよ?」
「……さて、ね」
何処か意味深げな雰囲気を放ち、冶木はじっと空を見つめている。
それを見ながらも、安寧が心から楽しそうに、とても友好な態度で近づいていく。
そして、冶木が振り向いて。
「お礼が、したいです」
冶木が何かを言う前に――
大きな鋏が、冶木の身体に突き刺さった。
「……ふ、ふふ」
手に持った鋏が確実に相手の腹部に刺さった事を確認して、『立鳥安寧』という名の子供が、ぞっとする様な邪悪極まる笑い声を発した。
幽鬼や冶木が一度も聞いた事の無い声であり、こんな状況でなければ安寧がそんな声を発するなど、到底信じられないだろう。
しかしながら、安寧は現実として怪物の如き笑みを浮かべていた。
「あはは、刺さっちゃいましたね。冶木さん、痛いですか?」
暖かく微笑み、安寧はそっと遠ざかる。喜悦に歪む口元が、どこまでも異様だ。
「まあ、困ったよね。鞄が無いんだからさ、信じて貰えたんだし、早く殺したかったのに。遅くなってごめんなさい!」
安寧が申し訳なさそうに深々と頭を下げた。口元の邪悪な笑みを除けば、それはとても弱々しい様に見えるだろう。
そんな豹変とも『変わっていない』とも思える姿に、冶木は辛そうな笑みを浮かべた。
「ああ、やっぱり……ね」
鋏が突き刺さる傷口を押さえ、冶木は納得した様子で声を上げる。鋭い痛みが走っているのか、若干の痙攣らしき物まで起こしている。
確かに痛みを覚えているのだろう。安寧は冶木の様子を嬉しそうに眺めていた。
「やっぱり、っていう事は、気づいていたんだね。僕がどんな人間であるのかを」
「ああ、そうだね。気づいていたさ。行動に移すまでは、信じてあげたかったんだけどね」
片手は傷口に触れたまま、冶木はおぼつかない足取りで立ち上がる。
正体を失ったかの様な姿だった。それが滑稽に見えたのか、安寧は鼻で笑う。
「後学の為に、聞かせて貰えるかな? 僕が一体、どんな失敗をしてしまったのかを」
安寧が尋ねると、冶木の顔に余裕が戻ってきた。冶木は喉の奥から出す様に笑い声を放っていた。
「ふふ、教えて、あげよう」
「……」
「下調べをするにしても、君は詳し過ぎたんだ……工場の内部から誰も住んでいない廃墟まで、色々と調べてくる、なんて、一日じゃ無理だよね……」
楽しそうに語られる内容を、安寧は黙って耳に入れる。
それが更に冶木の心に何らかの火を灯したのか、彼は苦しそうに目を細めた。
「それに、ああ、あの頭のおかしい殺人鬼の女性と意気投合していたじゃないか……君は」
「あ、そこからバレたんだ。妙に波長が合うと思ったら、あの人も酷い奴だったんだね」
自分の事は完全に棚に上げた戯言を吐く安寧。そんな姿を一層悲しそうに冶木が見つめたが、すぐに笑顔に取って代わられている。
冶木の言葉には限りない確信が含まれており、それらは全て安寧の真実を表していた。
「ま、だからね、君は多分、『そういう』趣味の奴なんだろうな、ってそう思ったんだ。だけど、ふふ、彼らの前じゃ殺人を我慢したんだね、偉い偉い」
「悪いけど、子供扱いされたからって僕は怒らないよ」
「怒られるなんて思ってないよ。頭を撫でられたりするのは本当に好きなんだろう?」
「まあね、その通り。困っちゃうなぁ、色々と見透かされていたなんて」
事前に正体が見破られていたと知らされても、安寧の余裕は揺らがなかった。むしろ、冶木の命を握っているかの様だ。
対する冶木は今にも死にそうで、それでも笑みを消す事は無かった。
「それで、この殺人で何人目なのかな?」
「ああ、ごめんね。数えてないんだ」
安寧が悪戯っぽく舌を出している。演技ではなく、純真で残酷な子供の気配が存在した。
「今までも、やっぱり私を刺した方法を使ったのかな?」
「まあね。ハプニングが多かったけど、いや怖かったね。本当に怖かった、死ぬかと思った」
恐怖を表して、安寧の顔に怯えが宿る。
例え邪悪な悪意に満ちた子供であったとしても、この町で起きた事は恐るべき物だったらしい。やはり庇護欲を刺激される弱者の存在感であり、人殺しとは思えないだろう。
「人質にされた時は死んだと思ったなぁ。僕さ、漏らさなかったのが奇跡としか思えないよ」
「助けて貰っておいて、殺すつもりだったんだ?」
「だって、信頼してくれる人に意地悪をするのって、楽しいじゃないですか」
安寧が何処か照れる様子を見せると、冶木は真剣な顔付きとなる。
「成る程ね、うん、分からないでもない気持ちだよ」
「そう、かな? 嬉しいよ、今までの人はみんな僕に罵声を浴びせながら死んじゃって」
「ははっ、私は違うよ」
声だけは笑いながらも、冶木は震え混じりに安寧の顔を見つめる。
それは相手の存在を貫かんばかりに捉えていていて、じっと見つめられるのが鬱陶しいのか、安寧の顔が僅かに歪む。
構わず、冶木は嘘を看過する目で安寧を見定めつつ、静かな声で尋ねる。
「一つ、聞いても良いかな。どうして、君は囮になる様な事を言ったの?」
静かに問う声を聞いて、安寧が僅かな間だけ考え込む。
しかしながら、その顔に浮かぶのは暖かみの類や、囮になると宣言した時の勇気有る少年の物ではなかった。
「まあ……何? 僕みたいな弱そうなの、いや実際に弱いけどさ、まあでも、そんな臆病な奴が必死に勇気を振り絞って命を捨てようとしたらさ、普通……止めるよね?」
安寧が打算に溢れた言葉を口にした。
彼は本気で自分を犠牲にする気など微塵も無く、主に幽鬼が安寧の為に命を捨てる事を期待しての物だったのだ。
「もう、幽鬼さんがちゃんと奴らをおびき寄せてくれると思っていたのに。まさか駅前に居るなんて、役に立たないね」
駅へ逃げようとした所で、雨中に捕まえられてしまったのだ。安寧は幽鬼への落胆を覚えている様子であった。
そんな酷い言葉を聞いて、冶木が気持ち悪いくらいに理解有る表情となる。
「ああ、成る程」
冶木が大きく頷いて、傷口から手を離す。自分に突き刺さった筈の鋏を放置していたのである。
立ち上がり、安寧の顔を睨み付けた。まるで、痛みを感じていないかの様だ。
口元に浮かぶ笑みに、悲しくも残酷な物が宿る。
「……理解したよ、サイコ野郎」
冶木の口から出た声は、深く深く部屋の中に漂った。
使用させていただいた映画タイトル
『シャイニング』