ガンマニア日本人と頽廃ショットガン少女の神話合宿
プロローグ 五人目
桐生翔太は、東雲大学でちょっとした有名人だった。
二年連続で学園祭実行委員を務め、人懐っこく、頼まれごとを断れない。学部も学年も違う友人が三百人はいると本人は自慢していて、スマートフォンの通知はいつも鳴り止まなかった。
だから、その夜に森倉准教授から「少し相談に乗ってほしい。研究室に来てくれないか」とメッセージが届いたときも、翔太はまったく疑わなかった。
「森倉先生に呼ばれたからさ、ちょっと行ってくる」
実行委員の仲間にそう言い残し、閉館間際の人文棟へ向かう。九月の終わりの夜風は、昼間の残暑が嘘のように冷たかった。
森倉博の研究室は、四階の突き当たりにある。
扉を叩くと、すぐに「どうぞ」と柔らかい声が返ってきた。
壁一面の本棚、床に積まれた段ボール、世界各地のものらしい仮面や骨の道具。文化人類学者の部屋らしい、雑然とした空間だった。その真ん中で、四十代前半の男が書類の山を抱え直しながら、困ったように笑っている。
日に焼けた顔、丸い眼鏡、よれたシャツの袖。森倉准教授は、学生に慕われる「優しい先生」の見本のような人物だった。
「いやあ、悪いね。こんな時間に呼び出して。最近は腰にくるんだ、立ち上がるのも一苦労でね」
「先生、まだ若いじゃないですか」
「四十を過ぎるとね、体は正直なんだよ。さあ座って、紅茶でも淹れよう」
森倉は、重そうな段ボール箱を片手でひょいと脇へどけながら、そう言った。
翔太はその動きに少しも違和感を覚えなかった。腰が痛いと言いながら重い荷物を軽々と運ぶ、というのは、先生のいつもの冗談だと思っていたからだ。
湯気の立つ紅茶が差し出される。
「それで、相談って何ですか。学園祭の展示のことですか」
「いや、君のことだよ。最近、少し疲れているように見えたからね」
森倉は穏やかに微笑んだ。
「実行委員、頑張りすぎだろう。友人も多いし、頼まれると断れない性格だ。こういう子ほど、心配になる」
翔太は思わず笑ってしまった。確かに最近は寝不足が続いていたし、誰かに気づいてもらえたことが、なんだか嬉しかった。
「ありがとうございます。先生に言われると、ちょっと救われます」
「それはよかった。さあ、冷める前に飲みなさい」
言われるまま、紅茶に口をつけた。
ほのかに甘く、少しだけ苦い。
ほんの数分後、まぶたが重くなってきた。
「あれ……すみません、なんか急に」
「大丈夫。疲れが出たんだよ。少し休んでいきなさい」
声が、遠くなる。
視界の端で、森倉が窓のカーテンを閉め、部屋の明かりを落とすのが見えた。机の上の仮面が、暗がりの中でこちらを向いているような気がした。
足元から、冷たさが這い上がってくる。
最初はつま先だった。それがふくらはぎに、膝に、ゆっくりと上がってくる。まるで体の内側から、氷が育っていくようだった。
寒い。
そう言おうとしたが、唇がもう動かない。
「ごめんね、翔太君」
森倉の声が、すぐ耳元で聞こえた。いつもと同じ、優しい声だった。
「本当は、今夜、あの方に捧げるつもりだったんだ。でも、君は友人が多すぎた。もう何人かが、君を探している。今のままでは、騒ぎになってしまう」
何を言っているのか、翔太には分からなかった。
「だから、少しだけ、取っておこう。次の機会に、ちゃんと捧げるから。それまでは、ここで眠っていなさい」
寒い、という感覚が、ふっと消えた。
それが、桐生翔太の最後の感想だった。
寒くない。
そう思ったのを最後に、意識は静かに、白く塗りつぶされていった。
――――――――――
森倉博は、凍りついた教え子の体をしばらく眺めてから、小さくため息をついた。
「ああ、また調子が良くなってしまったな。腰が痛いなんて、もう言い訳にならないかもしれない」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
その手は、氷のように冷たかった。
第一話 秋入学
「母さん、エヴァは着せ替え人形じゃない」
「あら、モデルとしては最高の素材よ」
神崎家の朝のリビングは、いつもより騒がしかった。
神崎美月は、手に持った淡いグレーのワンピースをエヴァの肩に当てながら、真剣な顔で唸っている。有名衣服ブランドの経営者である彼女にとって、虹色の光を返す銀髪の美少女は、最高の素材であると同時に、新作を試したくて仕方のない着せ替えの対象でもあった。
「もう三着目なんだけど」
エヴァは、ソファに沈み込んだまま気だるげに呟いた。ふてくされた声音だが、逃げ出す様子はない。彼女なりに、拒否するほどでもないらしい。
「入学初日なんだから、ちゃんとした格好で行かなきゃ。大丈夫、動きやすい生地だし、ベルトも通せるわ」
「ベルトは学校には持っていかないって、昨日言ったじゃない」
「あら、そうだった? ごめんなさいね。じゃあこっちの青もいいかしら」
隼人はトーストをかじりながら、その攻防を黙って眺めていた。
アメリカでの逃避行から数週間。エヴァが神崎家に住み始めてからも、数日が経っている。
最初は戸惑っていた隼人も、今ではこの光景に慣れつつあった。なにせ母は、同居が決まったその日のうちに、家の空き部屋を一つ丸ごとエヴァの部屋に作り替えてしまったのだ。しかも「死んだらあの世でぶち殺すから、生きて帰ってきなさい」と、初対面の少女に向かって真顔で言い放った人物でもある。
エヴァは当初、日本語に不安を見せていた。しかし、持ち前の知能と母の付きっきりの教育のおかげで、わずか数週間で日常会話をほぼ不自由なくこなせるようになっていた。ギフテッドの学習速度は、見ていて空恐ろしくなるほどだった。
「ほら、これで決まり。隼人、どう?」
母に促されて視線を向けると、ネイビーのワンピースに身を包んだエヴァが、不機嫌そうにこちらを見ていた。
腰まで届く銀髪は、結ばずに背中へ流してある。病的なまでに整った顔立ちと相まって、確かに、学生というより雑誌の一ページから抜け出してきたようだった。
「……いいんじゃないか」
「それだけ?」
「それ以上、何を言えと」
「ケチ」
エヴァは、むっと頬を膨らませた。
ほんの数週間前まで、アメリカの砂漠で銃を撃ちながら笑っていた少女の仕草とは思えない。だが隼人は、この落差にも、もう驚かなくなっていた。
――――――――――
東雲大学は、都内近郊にある大規模な私立大学だ。
学生数は一万人を超え、広大なキャンパスには学部ごとの棟が点在している。エヴァが今日から通うのは、国際教養学部の一年。アメリカの高校を飛び級で卒業した、秋入学の留学生という扱いだった。
隼人は文学部の二年生で、エヴァとは学部が違う。それでも、初日だけは案内役として一緒に登校することになった。
「ここが学食。あっちが図書館で、向こうが教室棟」
「ふーん」
「一応聞いてるか?」
「聞いてる。全部、頭に入った」
エヴァは、キャンパスの案内板すら見ずに、そう答えた。
「いや、そういう意味じゃなく」
「分かってる。でも、本当に入ってる」
その言葉に、嘘はなかった。
エヴァの頭の中は、常に情報で溢れている。目に入る景色、耳に入る話し声、足音、空調の唸り。それらを全部同時に処理してしまうため、一つのことに集中することが、逆に彼女には難しい。アメリカの逃避行で、彼女自身がそう語っていた。
だから今も、彼女は無表情のまま周囲を見回しながら、何百人もの学生の会話を、すべて頭の中で拾っているのだろう。
初日の授業を終えたエヴァと学食で合流したのは、昼過ぎのことだった。
エヴァはテーブルに突っ伏して、ぐったりしていた。
「どうだった」
「つまんない」
「初日からそれか」
「全部知ってる。教授の話し方が遅すぎて、待ってる間に頭の中がうるさくなる。退屈なのに、うるさい」
「それは……大変だな」
隼人は、かける言葉に困った。
退屈なのに、うるさい。彼女にとっては、授業という時間が、静けさとは真逆のものらしい。あの旅の途中、エヴァは「戦っているときだけ頭の中が静かになる」と言っていた。それを思い出すと、日常という平和な環境こそが、彼女にとっては苦痛なのかもしれない。
「そのうち、お前の頭が静かになる場所が見つかるといいな」
隼人がそう言うと、エヴァは顔を上げて、少し驚いたようにこちらを見た。
「それ、本気で言ってる?」
「本気だけど」
「……変な人」
その声は、少しだけ照れているように聞こえた。
そのとき、背後から声がかかった。
「隼人くん、みーつけた」
聞き覚えのある、やけに甘い声だった。
隼人は、反射的に肩をすくめた。
「……美冬さん」
振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
肩甲骨まで届く艶やかな黒髪。白いブラウスに、膝丈のスカート。柔らかな微笑みを浮かべた、清楚で穏やかな美人。通りがかった男子学生が、思わず二度見をするような容姿だった。
四葉美冬。この大学の大学院で社会学を専攻している二十三歳で、隼人の幼馴染にあたる。高級住宅街で、家が三軒しか離れていなかった。
「久しぶりね。夏休み明けから全然会えなかったから、寂しかったのよ」
「俺はそんなに寂しくなかった」
「あらあら、相変わらず冷たい」
美冬は口元に手を当てて、くすくすと笑った。その仕草は、誰が見ても上品な年上のお姉さんだった。
だが隼人は、この笑顔の裏に隠れたものを、誰よりもよく知っている。
高校二年の夏、「廃病院で面白い話を聞いたの」と連れ出されたことがあった。大学一年の冬、「山奥の旅館に変な噂があるのよ」と誘われたこともあった。そのどちらも、結果的には命がけの騒ぎになった。それを彼女は、毎回「ちょっと面白いお話」と呼んで楽しんでいた。
隼人が戦闘にやたらと慣れている理由の半分は、父マーカスの教育。残りの半分は、この人のせいだった。
「あなたが、エヴァちゃんね」
美冬は、隼人の隣に座るエヴァへ、柔らかな視線を向けた。
「お母様から聞いてるわ。四葉美冬です。隼人くんの、お隣さんで、幼馴染で、頼れるお姉さん」
「頼れる、は自称だ」
隼人が小声で挟んだが、美冬は気にも留めない。
エヴァは、無表情のまま美冬をじっと見つめ返していた。
その視線は、普段の気だるげなものとは少し違っていた。まるで、獲物を観察する動物のような目だった。
「……この人、嘘つきの匂いがする」
「ちょっと、エヴァ」
「別に悪口じゃない。同類の匂い」
美冬は、一瞬だけ目を丸くした。そして、ふっと口元を緩める。
「あら、鋭いのね。気に入ったわ」
「隼人は、私の同居人だから」
エヴァが、なぜか対抗するようにそう言った。声に、わずかな棘が混じっている。
「ええ、知ってるわ。大事にしてあげてね、うちの隼人くんを」
「うちの、じゃない」
隼人が疲れた声で訂正した。二人の間で、見えない火花が散っているのを感じる。なぜ初対面でこうなるのか、理解できなかった。
美冬は、ひとしきり楽しそうに笑ってから、不意に声のトーンを落とした。
「ところで、隼人くん。ちょっと面白い話があるの」
その瞬間、隼人の背筋に悪寒が走った。
「聞きたくない」
「そう言うと思った。でもね、うちの大学の話なのよ。ここ最近、学生が何人かいなくなってるの。知ってる?」
「……知らない」
「そうよね。普通は、気づかないもの。詳しいことは、今夜そっちに寄ってから話すわ。お母様にもご挨拶したいし」
美冬は、ひらひらと手を振って去っていった。
その背中を見送りながら、隼人は深いため息をついた。
「あの人、面白い人?」
エヴァが尋ねる。
「面白がってるのは、本人だけだ」
「ふーん」
エヴァは、意味ありげに目を細めた。
「でも、嫌いじゃない」
「やめてくれ。これ以上、厄介ごとを増やさないでくれ」
隼人は、頭を抱えた。
また始まるのだ。あの人が持ち込む、面倒ごとが。
窓の外では、秋の空が高く澄み渡っていた。それなのに、隼人にはなぜか、その空気が少し冷たく感じられた。
第二話 体験会
その夜、美冬は本当に神崎家へやって来た。
「まあ、美冬ちゃん。いらっしゃい、お隣さんなのに久しぶりねえ」
「ご無沙汰してます、美月さん。これ、つまらないものですけど」
玄関先で、美月と美冬は朗らかに挨拶を交わしていた。美冬は清楚な笑顔のまま、有名洋菓子店の紙袋を差し出している。隼人は階段の途中からその様子を眺めて、ため息をついた。この人は、近所の大人たちからの評判だけは、昔から異様に良い。
リビングで紅茶を飲みながら、美月は「じゃあ私はお風呂に行ってくるわね。若い子たちで積もる話でもして」と、あっさり席を外した。肝が据わっているというより、単に勘の鋭い人なのだろう。何か面倒な話が始まりそうなのを察して、先に退場したのだと隼人は思った。
ソファには、隼人と、膝を抱えて座るエヴァ、そして向かい側で優雅にカップを傾ける美冬。
「さて」
美冬はカップを置くと、持参したタブレットを机の上に滑らせた。
画面には、五人分の顔写真と名前が並んでいた。
長谷川悠。宮下玲央。白石凛。町田浩二。桐生翔太。
「この一年ほどの間に、東雲大学で行方不明になった学生たち。全員、今も見つかっていないの」
「五人もか」
隼人は、思わず声を上げた。
「大学が大きいから、行方不明そのものは珍しくないのよ。ちょうど今くらいの時期は、後期の履修が始まって、退学や失踪が一番多い季節だもの。それに、五人の間には、表面上の接点がほとんどない。学部も学年もバラバラ」
「警察は?」
「ちゃんと捜索願は出てる。でも、成人の失踪は事件性がないと積極的には動いてくれないでしょう? しかも、全員の担当教員から『最近悩んでいる様子だった』という証言が出ていて、個人の問題として処理されてるの」
「全員から?」
「正確には、全員の知り合いの先生から。その中でも一番丁寧に聞き取りに応じたのが、人文学部の森倉博准教授」
美冬は、タブレットの画面を指でなぞった。
「森倉先生とは、面識はないの。私は社会学で、分野も違うしね。学内の評判を聞いてるだけ。学生思いで、フットワークが軽くて、体力が落ちたって嘆いてばかりの四十代。すごく人気のある先生よ」
「お前、そんなことまで調べたのか」
「面白そうだと思ったら、調べるのよ。学生課の事務の人に差し入れを持っていって、世間話をして。各学部の友達に、最近いなくなった子の話を振って。学内掲示板やSNSに出てる『探しています』の投稿も、片っ端から集めて」
美冬は、さらりと言った。この人の「ちょっと調べた」は、探偵事務所並みの量であることを、隼人は経験上よく知っている。
「そうしたら、五人の全員が、民族文化研究会という、森倉先生が顧問をしているサークルの体験会に、一度は顔を出していたの」
エヴァが、初めて顔を上げた。
「その人、いい人?」
「評判はとてもいいわ。怪しいところは、まったくない」
「それなら、どうして気にするの?」
「だから面倒なのよ」
美冬は、にっこりと笑った。
「怪しいところが一つもない人の周りで、人が五人消えてる。そういうの、気になるでしょう?」
隼人は、タブレットの画面を見つめた。
「それ、偶然じゃないのか。人気のあるサークルなら、体験会に来る学生なんていくらでも」
「そうね。だから、確証はないの。でも、ちょっと気になるでしょう?」
「気になるのは、お前の性格だ」
「あら、ひどい」
美冬は、くすくすと笑った。この人は、いつもこうだった。事件の匂いを嗅ぎつけると、不謹慎なほど楽しそうな顔をする。
「いつから、怪しいと思ってた」
隼人は、何気なく尋ねた。
「ん? 最近かな。ここ数日」
美冬は、あっさりと答えた。その表情からは、嘘か本当か、読み取れなかった。
――――――――――
翌日の午後、エヴァは文化人類学概論の教室にいた。
最初は退屈そうに窓の外を眺めていたが、講義が始まって十分も経たないうちに、背筋が伸びたのを、後ろの席から見ていた隼人は見逃さなかった。
壇上に立っているのは、丸い眼鏡をかけた四十代の男。森倉博准教授だった。
「北の海には、古くから語り継がれる民話があります。氷山に乗って現れる、白い大きな蟲の話です」
森倉は、教卓の前を行ったり来たりしながら、楽しそうに話していた。
「その蟲は、知恵のある者を好んで喰らうといいます。賢い者、物知りな者、魔術を使う者。そういった人々の頭の中身ごと、飲み込んでしまう。だから、北の村々では、賢い者ほど身を隠したそうです」
教室に、小さな笑いが起きた。
「もちろん、ただの民話ですよ。ただ、この話の面白いところは、その蟲が火を嫌ったと伝えられている点です。氷山の上から来るのに、焚き火の輪には近づけなかった。だから村人たちは、不思議な蟲が来ると、夜通し火を焚いて夜明けを待ったといいます」
そのとき、教室の前列で、細い手がすっと上がった。
「質問、いいですか」
エヴァだった。
「どうぞ。ええと、新入生の……ヴァレンタインさんだったかな」
「知恵のある者を喰うなら、頭がいい人間のほうが、火を使うのも上手なはず。なのに、どうして蟲は、わざわざ火を使う人間を狙うの?」
教室が、一瞬静まり返った。
森倉は目を丸くしたあと、心の底から嬉しそうに破顔した。
「素晴らしい。いい質問だ。そこに気づく学生は、毎年一人いるかどうかなんだよ」
「答えは?」
「実は、はっきりとは分かっていない。だが、ある研究者は、こう考えている。知恵を持つ者が火を使うと知ったからこそ、蟲は火を恐れるようになったのではないか、と」
「つまり、学習した」
「そう。その通りだ」
エヴァの瞳が、わずかに輝いた。
後ろの席でその様子を見ていた隼人は、はっとした。
エヴァの表情が、普段とは違う。気だるさが消えて、頭の中のざわめきが、ほんの少しだけ静まっているような、そんな顔をしていた。
それは、旅の途中で彼女が戦っているときにだけ見せていたものに、どこか似ていた。
講義が終わると、森倉は配布資料を回収するために、通路を歩いてきた。
隼人は、美冬の依頼で後ろの席からこっそり観察を続けていた。そのため、気づいてしまった。
森倉が、教卓の脇に積まれていた重そうな機材ラックを、片手でひょいと持ち上げたことに。
「いやあ、やっぱり腰にくるね。この歳になると、こういう作業が一苦労で」
そんなことを言いながら、ラックを軽々と台車に載せている。
隼人は、思わず自分の目を疑った。あれは、大人の男が二人がかりで運ぶ重さだ。
さらに、森倉がエヴァの机に資料を返却しに来たとき、指先が彼女の手の甲に軽く触れた。
エヴァが、ほんのわずかに眉をひそめた。
「……冷たい」
「ああ、すまないね。冷え性なんだ」
森倉は、屈託なく笑った。
「そうだ、ヴァレンタインさん。もしよければ、うちのサークルの体験会に来ないかい? 今夜、部室でお茶会をやるんだ。民族資料もたくさんあるから、きっと君なら楽しめると思う」
「行く」
エヴァは、即答した。
「おい、エヴァ」
隼人が慌てて割り込んだ。
「付き添いが必要なら、君も来るといい。保護者さんだね」
森倉は、人懐っこい笑顔でそう言った。
「保護者じゃなくて、同居人」
エヴァが、なぜか訂正した。
――――――――――
民族文化研究会の部室は、学生会館の三階にあった。
十畳ほどの部屋は、世界各地の仮面や織物、木彫りの像、骨で作られた道具などが所狭しと並べられていた。壁には、フィールドワークの写真が何枚も貼られている。
そして、部屋の中は、不自然なほど涼しかった。
「資料の保存のために、冷房を効かせているんだ。寒かったら、遠慮なく言ってね」
森倉は、そう言って温かい紅茶を配って回った。三宅瑞希という二年生の女子が、人懐っこい笑顔でお菓子を勧めてくる。他にも数人の部員がいて、全員が和やかで、感じの良い雰囲気だった。
どこにも、怪しいところはなかった。
だからこそ、隼人は逆に落ち着かなかった。
エヴァは、森倉と部屋の隅のテーブルで向かい合っていた。
二人は、北方の民の信仰について、ずっと語り合っている。
「君は、神話や信仰を、どういうものだと思う?」
「世界を理解するための、圧縮形式。難しいことを、物語にして覚えやすくしたもの」
「面白い。では、その圧縮を解くと、何が出てくると思う?」
「解く人間の知識次第。だから、同じ神話でも、人によって別のものが出てくる」
森倉の目が、嬉しそうに細められた。エヴァの口元も、わずかに緩んでいる。
その光景を、隼人は部屋の反対側から、複雑な気持ちで眺めていた。
エヴァが楽しそうなのは、いいことだ。頭の中のうるささが、ほんの少しでも静まっているのなら、それは彼女にとっての救いになる。
だが、その救いを与えているのが、五人の失踪者と繋がっているかもしれない男だという事実が、隼人の胸の奥に引っかかっていた。
そのとき、隼人は部屋の隅に目を留めた。
壁際に、古い灰色のロッカーが並んでいる。そのうちの一つだけが、真新しい大きな南京錠で閉じられていた。
「あのロッカーは?」
隣にいた三宅に、さりげなく尋ねてみた。
「ああ、あれ? 貴重な資料が入ってるの。先生が管理してるから、私たちも触れないんだ」
三宅は、にこにこと笑って答えた。
その屈託のなさが、かえって不気味に感じられた。
「そうだ。今度の週末に、フィールドワーク合宿があるの。山の演習林にある山荘に泊まるんだけど、よかったら、エヴァちゃんも来ない? きっと楽しいよ」
隼人は、エヴァの方を見た。
エヴァは、森倉との会話に夢中で、こちらの会話に気づいていない。
「……考えておきます」
隼人は、そう答えるしかなかった。
部屋を出て廊下を歩いているとき、階段の踊り場から、聞き慣れた声がした。
「あの、失礼いたします。人文学部の森倉先生でいらっしゃいますか?」
振り返ると、階段を上がってきた美冬が、清楚な笑顔で森倉に頭を下げていた。手には、きちんとした書類封筒を持っている。
「社会学研究科の四葉美冬と申します。突然、申し訳ありません。民間信仰と学内コミュニティの関係を研究しておりまして、民族文化研究会の活動を、ぜひ調査させていただけないかと」
森倉は、目を丸くしたあと、心の底から嬉しそうに笑った。
「おお、社会学の。それは光栄だ。うちのような小さな会に、興味を持ってもらえるなんて」
「先生のお噂は、かねがね。学生思いの素敵な先生だと、いろいろな方から伺っています」
「いやいや、体力の落ちた、ただのおじさんだよ」
森倉は、照れくさそうに頭を掻き、握手を求めて手を差し出した。美冬は、少しの躊躇もなく、その手を握り返した。
その一瞬、美冬の笑顔が、ほんのわずかに強張ったように見えた。
――あの人でも、冷たいと思うのか。
隼人は、そんなことを考えながら、静かに階段を下りた。
美冬と森倉は、これが初対面のはずだった。それなのに、数十秒のやり取りで、森倉はすっかり彼女を気に入ったようだった。あの人当たりの良さこそが、彼女の一番の武器なのだと、隼人は改めて思った。
エヴァは、森倉の背中を見送りながら、小さく呟いた。
「面白い人だった」
「そうだな」
隼人は、短く答えた。
「でも、手が冷たかった」
「ああ」
「たぶん、あの人、普通じゃない」
エヴァの声には、恐れではなく、わずかな高揚が混じっていた。隼人は、その響きを、聞かなかったことにした。
第三話 種まき
四葉美冬は、人の組織が軋む音が好きだった。
最初は、ほとんど聞こえないほど小さな音から始まる。誰かの不満、些細な疑念、口に出せない嫉妬。それらが静かに積み重なって、やがて決定的な一言で、組織全体が崩れ落ちる。その過程を眺めるのは、どんな娯楽よりも心地よかった。
ただし、彼女にはいくつか流儀があった。
一つ。自分の手で、誰かを直接こうしろと焚きつけない。ただ質問をして、相手が自分で答えにたどり着くのを待つ。
二つ。自分の名前が残る場所では、何もしない。
三つ。標的の組織に、決して、自分が敵だと悟らせない。
「だから、こういう仕込みは、地道にやらないといけないのよね」
森倉准教授との初対面から二日が過ぎた昼休み、美冬は学食の隅の席で、ICレコーダーのデータを整理しながら呟いた。
森倉は、彼女の調査協力の申し出を、二つ返事で快諾した。「社会学の先生に見てもらえるなんて光栄だ。部員にも伝えておくから、好きなときに部室に来なさい」。その言葉どおり、美冬は今では「調査に来ている親切な大学院生のお姉さん」として、民族文化研究会の部室に自由に出入りしている。
誰も、彼女を疑っていない。
それが、最初の種だった。
――――――――――
「就活、順調?」
向かいの席に座った柏木大地に、美冬は柔らかく声をかけた。
民族文化研究会の三年生で、就職活動中の彼は、スーツ姿のまま定食に箸をつけていた。一昨日、調査の合間にインタビューをした相手の一人だ。そのとき、彼は「財団の推薦をもらえそうで」と、少しだけ誇らしげに語っていた。
「ぼちぼちです。四葉さん、わざわざすみません」
「いいのよ。大学院生って、暇なの。就活の相談くらい、いつでも乗るわ」
美冬は、にこやかに言った。
それから、さりげなく付け足す。
「そういえば、財団の推薦って、順番とか決まってるのかしら。私の知り合いが、その話を気にしてて」
「順番、ですか」
「ほら、推薦って、先に決まった人から、連絡がつかなくなったりすることがあるでしょう? 就活あるあるで」
柏木は、きょとんとした顔をした。
「そういうこと、あるんですか」
「ううん、私もよく知らないの。ただ、ネットでそんな書き込みを見かけたものだから。気のせいね、きっと」
美冬は、あっさりと話題を変えた。
柏木は、箸を持つ手を止めたまま、何かを考え込んでいる様子だった。
その書き込みは、実在する。
昨夜、美冬が、自宅の机で、三つの使い捨てアカウントを使い分けて作ったものだった。就職活動の匿名掲示板に「北辰民族学研究財団の推薦枠って、実際どうなんでしょう」という質問を立て、別のアカウントで「推薦をもらった先輩と、そのあと連絡が取れなくなった」と返信し、さらに別のアカウントで「それ、うちの学部でも聞いたことある」と相槌を打つ。
嘘は、一つも書いていない。「連絡が取れなくなった先輩」は、実際に五人いる。ただ、それが推薦と関係あるかどうかは、誰にも分からない。分からないからこそ、読んだ人間が勝手に不安を膨らませる。
作業を終えたあと、美冬は、使い捨てのアカウントを、すべて削除した。痕跡は、何も残らない。
「それじゃあ、頑張ってね、柏木くん」
「あ、はい。ありがとうございます」
柏木は、半分ほど残した定食を置いたまま、ふらふらと立ち上がった。その手が、スマートフォンの画面を、何度もなぞっている。
美冬は、その背中を見送りながら、小さく口角を上げた。
「まず、一人」
――――――――――
午後の部室には、藤堂灯がいた。
森倉准教授の最も熱心な信奉者で、資料の整理から会計処理まで、雑務のほとんどを一人で引き受けている。美冬が部室に入ると、彼女は、棚の仮面を一つずつ、柔らかい布で磨いているところだった。
「藤堂さん、今日もお疲れさま。差し入れよ」
「あ、四葉さん。ありがとうございます」
藤堂は、丁寧に頭を下げた。眼鏡の奥の目が、少しだけ、疲れているように見える。
美冬は、窓際の椅子に腰掛けて、取材ノートを広げた。
「今日は、藤堂さんのお話を聞かせてほしいの。先生のことを、一番近くで見てきた人の視点で」
「私なんて、そんな」
「そんなことないわ。みんな、言ってるもの。『先生のことを一番理解してるのは、藤堂さんだ』って」
藤堂の頬が、かすかに赤くなった。
美冬は、それから三十分ほど、ひたすら聞き役に徹した。先生がどれほど優しいか。どれほど研究熱心か。どれほど学生を大切にしているか。藤堂は、頬を紅潮させて語り続けた。
「そういえば」
話が一段落したところで、美冬は、何気なく付け足した。
「今年の新入生の留学生の子、すごいわよね。先生の講義に、あんなに食らいついていくなんて。先生、あんなに楽しそうに話してるの、初めて見たって、みんな言ってたわ」
藤堂の手が、ぴたりと止まった。
「……そうですか」
「あら、藤堂さんは、そう思わない?」
「私は」
藤堂は、言葉を探すように、唇を噛んだ。
「先生が嬉しそうなら、それでいいんです」
「そう。偉いわね」
美冬は、にっこりと微笑んだ。それ以上は、何も言わなかった。
言う必要がなかったからだ。
雑巾を握る藤堂の指が、白くなっているのが、はっきりと見えた。
――この子は、本物ね。
純粋に、心から、森倉を信じている。だからこそ、その信頼に亀裂が入ったとき、一番激しく燃え上がるのは、この子だ。
その少し離れた場所で、三宅瑞希が、お菓子の袋を整理していた。人懐っこい二年生で、体験会の勧誘役を務めている。
「三宅さんも、一つどうぞ」
美冬が、クッキーの箱を差し出すと、三宅は嬉しそうに受け取った。
「ありがとうございます。私、こういうの大好き」
「体験会に来てくれた子たちって、その後も、連絡を取り合ってるの?」
「え? あ、はい。仲良くなった子とは、LINEとか」
「そう。みんな、元気かしら」
三宅の手が、ほんの一瞬、止まった。
「……はい、たぶん」
その一瞬の沈黙を、美冬は聞き逃さなかった。
――――――――――
その日の夕方、美冬は人文棟の四階にある、森倉の研究室を訪ねた。
扉を開けると、書類の山の中から、いつもの穏やかな声が聞こえてきた。
「おや、四葉さん。また来てくれたのかい」
「調査のご相談です、先生。今日は、先生ご自身のお話も、少し伺えたらと」
「私の話なんて、面白くもなんともないよ」
森倉は、嬉しそうに笑いながら、紅茶を淹れてくれた。丸い眼鏡、よれたシャツ、疲れたような笑顔。学生に慕われる優しい准教授の、お手本のような姿だった。
美冬は、ノートを広げながら、世間話を始めた。
先生のフィールドワークの思い出。学生時代の失敗談。最近は腰が痛くて、重い荷物を持つのが大変だという愚痴。
「でも先生、この前、重そうな機材のラックを、片手で持ち上げてましたよね」
「え?」
森倉の手が、ほんの一瞬、止まった。
だが、すぐにいつもの照れ笑いを浮かべる。
「ああ、あれはね、火事場の馬鹿力というやつだよ。体が覚えてるんだろうね、フィールドワークで鍛えられた頃の感覚を。口だけは年寄りになったけど、体はまだ、意外と動くのさ」
「そうなんですね。お元気で何よりです」
美冬は、あくまで朗らかに頷いた。
口だけ年寄り。うまい言い訳だと思った。
そのやり取りの間に、森倉は、書棚の奥から資料を取り出そうと、席を立った。机の上には、鍵束が無造作に置かれている。
数秒。それで、十分だった。
森倉が振り返ったとき、鍵束は、元の位置に、元の向きで、置かれていた。
「先生、貴重な資料まで見せていただいて、ありがとうございます」
「いやいや、君のような熱心な学生さんは、大歓迎だよ」
研究室を出たあと、美冬は、廊下の窓から、夕焼けに染まる中庭を眺めた。
二人目の宮下玲央がいなくなったとき、彼女は違和感を覚えた。
宮下は、美冬が、社会調査の演習でティーチングアシスタントを務めていた授業の学生だった。無口だが、約束は必ず守るタイプで、提出期限を破ったことは一度もなかった。その彼が、何の連絡もなく、授業に来なくなった。
三人目の白石凛のときには、ほぼ確信に変わっていた。
それでも、動かなかった。
理由は、とても単純だった。
――あのレポート、書き終えないと、後々めんどくさいのよね。
社会調査実習の最終レポートの提出期限が、迫っていた。それを終えるまでは、余計なことに首を突っ込めない。終わらせてから、少しずつ調べて、種をまいていけばいい。たぶん、あの子も、巻き込まれることになるだろうから、準備だけはしておかないといけない。
そう考えて、先延ばしにした。
そして、結果的に、三人が犠牲になった。
美冬は、スマートフォンの画面を見つめた。五人分の名前が、メモアプリに並んでいる。
長谷川悠。宮下玲央。白石凛。町田浩二。桐生翔太。
全員の顔と、名前と、いなくなった日付を、彼女は完璧に覚えていた。
「……ごめんね」
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
それが本心なのか、そうではないのか、自分でもよく分からなかった。ただ、その言葉が口から出たことだけは、事実だった。
――――――――――
学生会館の三階に戻ると、部室の前で、人の声が聞こえた。
美冬は、足音を殺して、扉の隙間に耳を寄せた。
「いつまで待たせるつもりだ、先生」
低く、冷たい声だった。見覚えのない、スーツ姿の男が、森倉と向かい合っている。四十代後半、神経質そうな細面で、ネクタイの結び目の位置まで完璧に整っていた。
久世恭介。北辰民族学研究財団の理事で、民族文化研究会に助成金を出している「支援者」だった。
「上は、結果を求めている。五人も捧げて、まだ足りないのか」
「久世さん、焦らないでください。私たちの契約は、あくまで質の問題です。数ではありません」
森倉の声は、いつも通り穏やかだった。だが、その穏やかさが、かえって不気味だった。
「あの留学生は、実にいい器です。一週間も経たないうちに、私の講義を吸収していく。あれほどの頭脳は、数十年に一人でしょう」
「だからこそ、急ぐべきだろう」
「彼女はまだ、熟していません。もう少し知識を溜め込ませてから、捧げるのが最善です。焦って捧げれば、あの方は満足されない」
「……予定を早めることも、考えておけ」
久世は、苛立たしげにそう言い捨てた。
「先生、あなたは優秀だが、時々、危うい。私の組織は、いつまでも待てるほど気長ではない」
「肝に銘じます」
扉の向こうで、足音が遠ざかっていく。
美冬は、廊下の影に身を寄せて、その場をやり過ごした。足音が完全に消えてから、ようやく、息を吐く。
「器、ね」
小さく口に出して、口元を緩める。
「それに、予定を早める、ですって?」
久世と森倉の間には、すでに温度差がある。それを、少しだけ広げてやればいい。
もちろん、自分の手でやるつもりはなかった。ただ、きっかけを、置いておくだけだ。
美冬は、スマートフォンを取り出して、隼人にメッセージを送った。
『今夜、部室の見学に付き合ってね♪』
即座に返信が来た。
『断る』
『来てくれないと、エヴァちゃんに、隼人くんが小学生の頃にやらかした恥ずかしい話を、全部教えちゃうわよ』
数秒の沈黙のあと、返信が来た。
『……何時だ』
美冬は、人気のない廊下で、声を殺して笑った。
この「面倒な幼馴染」は、本当に、からかい甲斐がある。
第四話 ロッカー
午後十一時を回った学生会館は、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。
非常口の緑色のランプだけが、廊下の床を薄く照らしている。サークル棟は大学院生や一部の学生に限って、夜間も出入りできる仕組みになっていた。美冬は、ICカードをかざして、涼しい顔で扉を開けた。
「院生の特権よ。こういうとき、便利でしょう?」
「便利で済ませていい話じゃないと思う」
隼人は、小声で返した。懐中電灯を片手に、背後を何度も振り返る。
「それと、なんでお前までついてきてるんだ」
「面白そうだから」
エヴァは、隼人の隣を平然と歩いていた。ネイビーのワンピースの上に薄手のカーディガンを羽織り、手ぶらだ。昼間は、さすがにショットガンを持ち歩けない。それは隼人にとっても、少し心細い点だった。
「危ないから留守番しろって、あれだけ言っただろ」
「今回は危ないからやめろ、でしょう。それなら、危なくなったら私が撃つから問題ない」
「持ってきてないだろ、銃」
「だから、素手でやる」
「それが一番問題なんだよ」
隼人は、ため息をついた。エヴァは「今回は危ないから駄目」という言い方には耳を貸すが、「それでも行く」と決めたことは、そう簡単には曲げない。その線引きが、最近ようやく分かってきたところだった。
三階の突き当たりに、民族文化研究会の部室がある。
美冬が、懐から取り出した合鍵を、鍵穴に差し込んだ。
「その鍵、どうしたんだ」
「今日の夕方、先生の研究室にお邪魔したとき、鍵束の型を、ちょっとだけ取らせてもらったの」
「窃盗だろ。しかも、初対面の相手にだぞ」
「初対面でも、親切にしてもらったら、お返ししないとね。バレなければ犯罪じゃないって言うでしょう?」
「言わない」
カチリ、と乾いた音がして、扉が開いた。
――――――――――
部室の中は、昼間よりもずっと冷え込んでいた。
息が、わずかに白くなる。九月の終わりの夜に、これはおかしい。
「冷房は、切ってるはずよね」
美冬が、壁のスイッチを確認した。冷房のリモコンは、電源が入っていない。
「つまり、この冷たさは、冷房のせいじゃない」
エヴァが、淡々と言った。
三人は、部屋の奥へ進んだ。仮面や木彫りの像が、懐中電灯の光に照らされて、不気味な影を壁に落としている。
隼人は、壁際に並ぶ灰色のロッカーの前で立ち止まった。
新しい大きな南京錠が掛けられた、あのロッカーだった。扉の表面に、うっすらと白い霜が張りついている。
「霜、ついてる」
隼人は、無意識に手を伸ばして、扉に触れた。
「……冷たい」
冷蔵庫から出したばかりの缶のような、いや、それ以上の冷たさだった。指先が、ぴりぴりと痺れる。
「開けるわよ」
美冬が、別の鍵を南京錠に差し込んだ。これも合鍵だろう。かちりと小さな音がして、錠が外れた。
「ちょっと待て、俺が開ける」
「はいはい、お願い」
隼人は、懐中電灯を口にくわえ、両手でロッカーの扉の取っ手を掴んだ。
ゆっくりと、引く。
白い冷気が、足元に流れ出した。
そして、懐中電灯の光が、中を照らした。
「……っ」
息を呑んだ。
人が、立っていた。
正確には、立った姿勢のまま、透き通った氷の中に閉じ込められていた。Tシャツにジーンズ姿の、二十歳前後の青年。目を閉じ、眠っているような穏やかな顔で、全身を白い氷に覆われている。
氷は、驚くほど透明だった。髪の一本、まつ毛の一本まで、はっきりと見える。
隼人は、冷静だった。
少なくとも、頭の中では。
伏せる。位置を確認する。状況を見極める。父に叩き込まれた手順が、条件反射のように動いていた。
「死体、だな」
「ええ、そうね」
美冬は、いつもの調子で頷いた。
「……溶けない」
エヴァが、氷の表面にそっと指を触れた。
「触るな」
隼人が慌てて制した。
「大丈夫。冷たいだけ」
「そういう問題じゃ」
隼人は、ポケットからライターを取り出し、氷の表面に炎を近づけてみた。
数秒、数十秒、一分。
氷は、わずかに表面が濡れることもなく、変わらずそこにあった。
「溶けない氷、ね」
美冬が呟く。その声から、いつもの愉快そうな響きが、すっと消えていた。
「桐生翔太くん」
彼女は、小さな声で、氷の中の青年の名前を口にした。
「五人目。学園祭実行委員の、顔が広かった子。たぶん、友人が多すぎて、すぐに捧げられなかったんでしょうね」
「捧げ、られなかった?」
「ええ。別の誰かが探し始めたから、先に保管したんじゃないかしら。順番が狂ったのよ」
その淡々とした分析に、隼人は、奇妙な苛立ちを覚えた。
「お前、さっき名前を即答したな」
「全員、覚えてるもの。長谷川悠くん。宮下玲央くん。白石凛さん。町田浩二くん。そして、桐生翔太くん」
美冬は、五つの名前を、一つも詰まらずに言い切った。
隼人は、ロッカーの扉を静かに閉めた。それから、振り返って、美冬を真正面から見据えた。
「いつから、気づいてた」
「え?」
「最初に話を聞いたとき、お前『最近』って言ったよな」
美冬は、少しだけ目を細めた。
「……二人目の、宮下くんのあたりかな。私が、授業のアシスタントをしてた子でね。約束は絶対に破らない子だったの。だから、急に来なくなったのが、おかしいと思って」
「二人目」
隼人の声は、低かった。
「それで、なんで動かなかった」
「ごめんね。でも、あのとき、実習のレポートがあって」
「レポート」
「提出期限が近くて。終わらせてから、種をまこうと思って」
静寂が落ちた。
エヴァは、黙って二人の様子を見ている。
「三人、死んでるんだぞ」
隼人は、感情を殺した声で言った。
「うん。知ってる。ごめんね」
美冬は、いつもの笑顔で、そう答えた。
「ごめんね、ってちゃんと思ってるのよ。たぶん」
「たぶん、って何だ」
「自分でも、よく分からないのよ。でも、隼人くんが怒ってくれるのは、悪い気がしないわ」
隼人は、何も言えなかった。
この人は、本当に、どこか壊れているのだと思った。それでも、ほんの一瞬だけ見せた表情を、彼は見逃さなかった。五つの名前を口にしたとき、美冬の指先が、かすかに震えていたことを。
「……あとで、ちゃんと話そう」
隼人は、それだけ言った。
「ええ、いくらでも」
美冬は、いつもの微笑みを取り戻していた。
「隼人、怒ると静かになるね」
エヴァが、ぽつりと言った。
「怒鳴らないんだ、あなた」
「怒鳴ってもしょうがないだろ」
「ふーん」
エヴァは、少し感心したような顔で、隼人を見ていた。
――――――――――
学生会館の外に出ると、隼人は人気のない植え込みの陰で、スマートフォンを取り出した。写真を数枚撮ったあと、父の番号にかける。
呼び出し音が二回鳴っただけで、マーカスの声が応答した。
『隼人か。こんな時間にどうした』
「親父、話がある。大学で、人が死んでる。遺体を見つけた」
『……詳しく』
隼人は、手短に状況を説明した。五人の失踪、民族文化研究会、森倉准教授、凍った遺体。通話の向こうで、父が低く息を吐く音が聞こえた。
『分かった。まず、そこから動くな。遺体にも、これ以上は触れるな』
「警察に通報するのか」
『それは、できない』
マーカスは、きっぱりと言った。
『溶けない氷の遺体、なんてものを警察に見せても、事態が混乱するだけだ。こういうものは、俺の知り合いが「処理」する』
「また、非公式のルートか」
『そうだ。お前らは、今夜は家に帰れ。それと、明日からは身の回りに、必ず護身用の装備を携行しておけ』
「……分かった」
『もう一つ。その大学の背後には、おそらく「銀の黄昏」が絡んでる』
「銀の黄昏?」
『海外の結社だ。神話の力を、金と権力に変えたがる連中だよ。詳しいことは、明日話す。とにかく、今夜はもう動くな』
通話が、切れた。
隼人は、冷たい夜風の中で、しばらく立ち尽くしていた。
――――――――――
同じ頃、人文棟の四階。
研究室の机の前で、森倉博は、湯気の立つ紅茶を口に運んでいた。
不意に、うなじのあたりに、ひやりとした感触が走った。
森倉は、ゆっくりとカップを置く。
「……おや」
指先で、自分の首筋に触れた。氷のように冷たい指が、さらに冷たいものを感じ取っていた。
「誰かが、あの子に触れたね」
穏やかな声だった。優しく、柔らかく、いつもの彼のままだった。
机の上のスマートフォンを手に取り、一つの番号に電話をかける。
「ああ、久世さん。夜分にすみません。少し、予定を早めることにしました」
『ほう。急に、どういう風の吹き回しだ』
「気づかれたようです。今週末の合宿で、儀式を行いましょう。彼女には、あくまで自分の意志で来てもらいます。手荒な真似は、避けてください」
電話の向こうで、久世が鼻で笑った。
『善処しよう。ただし、保証はできんがな』
森倉は、通話を切ると、窓の外の暗闇を見つめた。
遠くの空は、星一つ見えない、厚い雲に覆われていた。
第五話 襲撃
翌朝、神崎家の玄関先には、細長いケースが二つ置かれていた。
一つは、黒い楽器ケースのような形。もう一つは、竹刀袋に似せた布製の長い袋。差出人の名前はなく、ケースの上に、乱暴な字で書かれたメモが一枚貼ってあった。
『存在しないことになっている荷物だ。使うなと言いたいが、使え。——父』
隼人は、メモを読んで、深いため息をついた。
楽器ケースの中身は、見慣れた形をしていた。ボルトアクションの狙撃銃。父が何年も前から、隼人のために手を入れてきた、精度と威力、射程だけを徹底して突き詰めたカスタム品だ。日本では、どう転んでも存在してはいけない代物だった。
「竹刀袋のほうは?」
エヴァが、玄関の上がり框に座って、あくびをしながら尋ねた。
「たぶん、お前のだ」
隼人が袋の口を開くと、中から、見覚えのあるシルエットが現れた。ロシア製の自動式ショットガンをベースに、特注の改造を重ねたエヴァの愛銃だった。
「あ、私の」
エヴァの目が、わずかに輝いた。
「久しぶり」
「お前、嬉しそうだな」
「嬉しい。ずっと会いたかった」
そう言って、彼女は愛おしそうに銃身を撫でた。その仕草は、犬猫を可愛がる子供そのものだったが、手の中にあるのは紛れもなく殺傷用の武器だった。
「学校には持ち込まないぞ」
「知ってる。放課後に、受け取ればいいんでしょう」
そういうわけで、隼人とエヴァは、ケースを自室に隠したまま、いつも通りに大学へ向かった。
その日の夜までは、何事もなく過ぎていった。
――――――――――
午後九時半。
隼人とエヴァは、最寄り駅から自宅までの帰り道を歩いていた。
高級住宅街の夜は、静かだった。高い塀に囲まれた大きな邸宅が、一定の間隔で並んでいる。街灯の明かりが、アスファルトの道を点々と照らしていた。
隼人の背中には、あの楽器ケース。エヴァの肩には、竹刀袋。さすがに、通りすがりの人間に見られたら言い訳に困る組み合わせだが、この時間、ここを通る人はほとんどいない。
「ねえ、隼人」
エヴァが、足を止めた。
「どうした」
「寒くない?」
その言葉で、隼人は、はっとした。
確かに、寒かった。つい数分前までは、秋の夜らしい涼しさだったのに、今は吐く息が、はっきりと白い。
街灯の柱に、霜が這い上がっていた。まるで、足元から冬が忍び寄ってくるようだった。
「……来たな」
隼人は、背中のケースを下ろし、素早く留め具を外した。
エヴァも、竹刀袋の口を開いて、中から銃を引き抜く。流れるような動作だった。彼女の口元には、すでに薄い笑みが浮かんでいる。
道の先から、白い霧が、ゆっくりと流れ込んできた。
その霧の中に、人影が浮かんだ。
一つ、二つ、三つ。
人の形をしていたが、人間ではなかった。全身が、半透明の氷のようなものでできていて、顔にあたる部分は、のっぺりと白く、目だけが暗い空洞になっている。
「氷の霊、っていうやつか」
隼人は、冷静にそう分析した。
冷気の霧は、音を吸い込むように、辺りを包んでいく。この霧の中では、銃声も、おそらくほとんど外には漏れないだろう。厄介だが、同時に、この住宅街で撃ち合いをするには好都合でもあった。
「隼人、後ろにも」
エヴァが、淡々と告げた。
振り返ると、反対側の道の先に、黒いバンが停まっていた。扉が開き、黒い服に身を包んだ男たちが、次々と降りてくる。全員が、顔をマスクで覆っていた。
六人。
前後を挟まれた形だった。
そして、さらにその奥、黒いセダンの後部座席の窓が、静かに下りた。
「夜分遅くに、失礼します」
落ち着いた、しかし冷たい声だった。
セダンの中にいたのは、スーツ姿の男。四十代後半、神経質そうな細面。久世恭介だった。
「森倉先生が大切に育てている器を、頂きに参りました。あなたたちに恨みはありませんが、男のほうは、不要です」
「器、ね」
エヴァが、肩をすくめた。
「私、そういう言い方、嫌い」
「それは失礼。ただ、あなたの意志は、あまり関係ないのですよ」
久世が、手を上げた。
それが合図だった。
氷の霊たちが、一斉に動き出した。
「隼人、左!」
「分かってる!」
隼人は、地面に片膝をつき、ライフルを構えた。目の前の道路は、街灯が点々と並ぶだけの見通しの良い直線。距離は、およそ五十メートル。霧の影響で視界は悪いが、問題ない範囲だ。
最初に狙ったのは、黒いバンから降りてきた男たちの先頭だった。
ライフルの先端が、男の拳銃を握った右手を捉える。
引き金を絞る。
乾いた発砲音が、霧に吸い込まれる。男が悲鳴を上げ、拳銃を取り落とした。
隼人は、人を殺したくなかった。必要であれば撃つが、殺しを楽しむ趣味はない。だから、狙うのは、いつも手や足、武器そのものだった。
「甘いね、隼人」
エヴァが、笑い声混じりに言った。
「でも、嫌いじゃない」
エヴァは、その場を動かなかった。肩付けしたショットガンの銃口が、迫ってくる氷の霊の胸元を捉える。
引き金を引く。
重い発砲音とともに、散弾が氷の霊の上半身を粉砕した。白い破片が飛び散り、砕けた体が霧の中に消えていく。
二体目、三体目。
エヴァは、一歩も引かず、冷静に撃ち抜いていく。その表情は、いつもの無表情から、少しずつ解き放たれていた。目が、輝いている。口元が、吊り上がっている。
「あはっ」
小さな笑い声が、彼女の口から漏れた。
「やっと、来た」
隼人は、横目でその横顔を盗み見た。
いつもの、あの顔だった。彼女が、戦闘中にだけ見せる、生き生きとした、獰猛な、少女の笑み。
ただ、今日は、一つだけ違うところがあった。
彼女は、人間の男たちには、決して致命傷を与えようとしなかった。氷の霊は、容赦なく粉砕する。だが、黒服の男たちが接近してきたときは、銃口を足元へ向け、膝や脛を撃ち抜いて、動きを止めるだけだった。
殺さないのだ。
それは、アメリカで見た彼女の戦い方と、同じだった。
「エヴァ、住宅から離れろ! そっちの家に流れ弾が行く!」
「分かってる。もう少し、あっち」
エヴァは、跳ぶように後退して、住宅の壁から距離を取った。戦いの場を、人のいない通りの中央へと、少しずつ誘導していく。
「私、一般の人を巻き込むのは、好きじゃないから」
彼女は、戦いながら、そう言った。
隼人は、少しだけ笑ってしまった。
「それが分かってるなら、いい」
「でしょ」
黒服の男たちは、次々と足を撃たれ、地面に倒れていった。氷の霊も、数を減らしていく。
残った黒服の一人が、焦ったように、拳銃をエヴァに向けた。
その瞬間、隼人は、迷わずライフルの引き金を引いた。
男の肩に、弾丸が命中した。
「ぐっ!」
男は、拳銃を落とし、膝から崩れ落ちた。
「ナイス」
エヴァが、振り返りもせずに言った。
「当たり前だ」
セダンの後部座席で、久世が、顔をしかめていた。
形勢は、明らかに彼の側にとって不利だった。部下は倒れ、氷の霊も数を減らし、標的の二人は、ほとんど無傷だ。
「車を出せ。撤退する」
運転手に、そう命じたのが聞こえた。
隼人は、素早くライフルの照準を、セダンの前輪に合わせた。
撃つ。
乾いた音と同時に、タイヤが破裂した。セダンが、がくりと傾いて、動けなくなる。
久世は、舌打ちをして、ドアを開けると、車から飛び出した。
「待て!」
エヴァが、すぐに追おうとした。
「エヴァ!」
隼人が、鋭い声で呼び止めた。
「今回は、深追いは危ないからやめろ」
エヴァは、足を止めた。振り返った彼女の顔には、あからさまな不満が浮かんでいる。
「えー」
「えー、じゃない。まだ周囲に、何がいるか分からない」
「……分かった」
エヴァは、むくれた顔のまま、銃を下ろした。その仕草は、遊びを途中で止められた子供そのものだった。
久世は、その間に、暗い路地の奥へと姿を消していった。
――――――――――
十分後、黒い大型のバンが、住宅街の路地に静かに入ってきた。
運転席から降りてきたのは、日に焼けた精悍な顔の男。マーカスだった。後ろからは、スーツ姿や作業服姿の男たちが、手際よく降りてくる。全員が、どこか軍人めいた雰囲気を持っていた。
「派手にやったな」
マーカスは、倒れた黒服の男たちを見渡して、そう言った。
「全員、足と肩だけだ。死んじゃいない」
隼人が答える。
「上出来だ。後は、こっちで処理する」
マーカスの部下たちが、呻く男たちを担架や毛布で包み、次々とバンに積み込んでいく。氷の霊の残骸は、溶けて水になりかけていたが、それも手際よく回収された。霜に覆われたアスファルトに、温風機が当てられる。
「近所の人間は?」
「この霧のおかげで、誰も気づいていない。運が良かった」
「運じゃない。敵が音を消してくれたんだろ」
マーカスは、苦笑した。
「それは、まあ、そうとも言う」
そのとき、住宅街の入り口から、軽快なヒールの音が聞こえてきた。
「あら、みんなお揃いで。どうしたの?」
両手に大量の紙袋を提げた、美月だった。
夜遅くまでの買い物帰りらしい。上機嫌な笑顔で、霜に覆われた道路と、怪しげな黒いバンと、倒れた男たちの残りを一瞥した。
そして、少しだけ首を傾げた。
「あら、今日は随分と冷えるのね。季節外れの霜かしら。庭の薔薇、大丈夫かしら」
「……母さん」
隼人は、頭を抱えた。
美月は、隼人の顔と、エヴァの手の銃と、父の渋い顔を順に眺めた。
そして、何も言わずに、にっこりと笑った。
「お夕飯、あるわよ。お風呂も沸かしてあるから。後片付けが終わったら、みんなで食べなさい」
そう言い残して、彼女は優雅に自宅の方へ歩き去っていった。
マーカスと隼人は、顔を見合わせた。
「あいつは、いつもこうだ」
「俺も、そう思う」
――――――――――
道端の縁石に腰を下ろして、エヴァは、静かに空を見上げていた。
銃は、竹刀袋に戻してある。隼人は、その隣に座って、ぬるくなった缶コーヒーを差し出した。
「ほら」
「ありがと」
エヴァは、缶を両手で包むように持った。
「久しぶりに、頭の中が静かだった」
「そうか」
「でも、前と、ちょっと違った」
「違った?」
エヴァは、少し考え込むように、缶の縁を指でなぞった。
「戦ってる間、隼人の声が、ずっと聞こえてたの。普通なら、他の音と一緒に、うるさくなるはずなのに」
「俺の声が、うるさくなかった?」
「うん。むしろ、そこだけ、ちゃんと聞こえて、他が静かになる感じ」
エヴァは、そこで言葉を切った。
「変なの」
隼人は、何と答えていいのか、分からなかった。
「……そうか」
それしか、言えなかった。
エヴァは、缶コーヒーを一口飲んで、小さく笑った。
遠くで、霜の溶けていく水の音が、小さく響いていた。
第六話 合宿
土曜日の朝、神崎家のダイニングテーブルは、異様な顔ぶれで埋まっていた。
上座に、無精ひげを生やした元デルタフォースの父、マーカス。その隣で、エプロン姿の美月がパンケーキを焼いている。向かい側には、寝癖のついた銀髪を隠そうともしないエヴァと、疲れた顔の隼人。そして、なぜか当然のように席に座って、紅茶を飲んでいる美冬。
「美月さんが、朝ごはんに誘ってくださったの」
美冬は、にっこりと笑った。隼人は、何も言わなかった。
「さて」
マーカスは、パンケーキを一枚口に放り込むと、真顔になった。
「昨日の襲撃で確保した連中から、いくつか情報が取れた」
「早いな」
「プロが聞き出したからな。まず、連中の背後にいるのは『銀の黄昏教団』の日本窓口だ。表向きは、北辰民族学研究財団を名乗っている」
「理事の、久世恭介か」
「そうだ。やつは、教団と大学の間の連絡役だ。民族文化研究会に助成金を出して、サークルを人材集めの場として使ってきた」
マーカスは、テーブルの上に、一枚の写真を置いた。森倉准教授が、学生たちに囲まれて笑っている写真だった。
「森倉博は、教団から見れば『契約魔術師』だ。生贄を捧げて、神格から知恵を授かっている。その神格が」
「ルリム・シャイコース」
美冬が、先回りして口にした。
「『白き蟲』。北の海の氷山に乗って現れる、知恵ある者を喰らう存在。講義で森倉先生が話していた、あの民話の蟲そのものよ」
「俺の知り合いに、こういうものを専門に調べてる奴がいる。講義のノートと遺体の写真を送ったら、すぐに特定してきた」
マーカスは、苦い顔をした。
「問題は、連中の目的が、エヴァだってことだ」
視線が、エヴァに集まった。
エヴァは、パンケーキにメープルシロップをたっぷりかけながら、平然と言った。
「知恵を溜め込ませてから、食べるんでしょう? 家畜を肥らせるみたいに」
「……よく分かったな」
「森倉先生、私に本をたくさん貸してくれた。講義のあとも、ずっと質問に答えてくれた。普通なら、親切で優しいだけ」
エヴァは、フォークを置いた。
「でも、全部、私に知識を詰め込むためだった。そう考えると、全部つじつまが合う」
マーカスは、重々しく頷いた。
「その通りだ。それと、これを見ろ」
彼は、スマートフォンの画面を見せた。エヴァ宛てに届いた、森倉からのメッセージだった。
『昨夜は怖い思いをさせたようで、申し訳ない。久世さんは、少し焦りすぎたようだ。私の意志ではなかったことを、どうか信じてほしい。それでも、もし君が来てくれるなら、今週末の合宿で、改めてお詫びがしたい。君の自由意志で、来てくれると嬉しい』
「抜け目がない」
隼人が呟いた。
「あくまで、優しい先生のままでいたいのね。それに、久世さんとの距離も、さりげなく作ってる」
美冬が、楽しそうに言った。
「森倉は、エヴァを自分の意志で来させたい。久世は、力ずくでも確保したい。その温度差が、こっちにとっての最大の隙になる」
「三宅ちゃんが、うっかり漏らしてくれたの」
美冬が、補足した。
「儀式は、合宿の二日目の夜。山荘で、人目につかないように行うんですって」
「つまり、行かなければ、また家の近くで襲われる」
エヴァが、淡々と言った。
「それなら、私が行ったほうが早い」
「やめろ」
隼人が、即座に言った。
「今回は、危ないからやめろ」
「それ、前にも言われた」
「何度でも言う」
「でも、理屈で考えて」
エヴァは、指を一本立てた。
「行かなければ、また襲撃される。しかも、次はもっと強い手段で。その場所が、この家の近くになる確率が高い。そうなれば、美月さんの薔薇が、全滅する」
「薔薇かよ」
「大事でしょう?」
美月が、フライパンを振りながら、くすくすと笑った。
「あら、嬉しいわ。エヴァちゃんは、本当に私の薔薇を気に入ってくれてるのね」
「それに」
エヴァは、少しだけ視線を逸らして、小声で付け加えた。
「面白そうだし」
「それが本音だろ」
隼人は、頭を抱えた。
マーカスが、深いため息をついた。
「俺は、反対したい。反対したいが、他に手がないのも事実だ。やるなら、条件がある」
彼は、指を折りながら告げた。
「一つ。エヴァには、通信機を持たせる。一つ。隼人は、山荘の外で待機。狙撃と監視を担当しろ。一つ。美冬は、調査協力者として内部に潜入。エヴァの安全を確保しつつ、内部の分裂を煽れ」
「喜んで」
美冬が、にっこりと答えた。
「それと、もう一つ」
マーカスは、隼人とエヴァの顔を順に見た。
「俺は、現場には出ない。後方で、全体の動きを見る。だが、お前たちが戻ってきたとき、全員が生きていることを前提に、後始末の準備をしておく」
「前提、か」
「そうだ。死ぬな」
その言葉を引き継ぐように、フライパンを置いた美月が、テーブルに身を乗り出した。
彼女の目は、笑っていなかった。
「死んだらあの世でぶち殺すから、生きて帰ってきなさい。二人とも、美冬ちゃんもよ」
静寂が落ちた。
エヴァは、一瞬きょとんとした顔をしたあと、ふっと口元を緩めた。
「……はい」
その返事は、小さかったが、いつもの気だるげな響きではなかった。
――――――――――
昼前の大学の駐車場には、一台のマイクロバスが停まっていた。
十四人乗りの貸切バスで、運転席には隼人が座っている。民族文化研究会の合宿の足を担当する運転手が、直前になって急にキャンセルになったと、三宅が慌てていたのだ。そこへ、「知り合いの子が、運転できますよ」と美冬が助け舟を出した。もともと彼女は、「調査の一環で、ぜひ合宿にも同行させてほしい」と三宅を通じて申し出ていて、森倉から快諾を得ている。部員たちにとっては、すっかり頼りになる、親切なお姉さんになっていた。
「……お前が、仕組んだのか」
運転席で、隼人は、後ろの席に座る美冬に小声で尋ねた。
「さあ? たまたま、運転手さんが急病になったのよ。偶然って、怖いわね」
美冬は、あくまで清楚な笑顔で、窓の外を眺めていた。その膝の上には、小さな金属製のケースが載っている。
「それ、何だ」
「お楽しみ」
「中身を教えろ」
「教えたら、面白くなくなるじゃない」
隼人は、諦めて、前を向いた。
バスには、森倉准教授を含めて七人の部員と、調査協力者の美冬、そしてエヴァが乗り込んでいた。三宅は、屈託のない笑顔で、お菓子を配って回っている。柏木は、窓際の席で、青白い顔をして、スマートフォンを握りしめていた。藤堂は、通路の反対側から、エヴァを睨むように見つめている。
エヴァは、その視線をまったく気にしていなかった。足元の大きなダッフルバッグの底には、バラバラに分解したショットガンが、寝袋に包まれて眠っている。
森倉は、助手席に座って、運転する隼人に気さくに話しかけた。
「いやあ、助かったよ。運転手が見つからなくて、バスを諦めようかと思っていたんだ」
「いえ、大したことでは」
「君は、ヴァレンタインさんの同居人だったね。優しいなあ。保護者の鑑だ」
「……どうも」
森倉は、屈託なく笑った。荷物の積み込みのとき、重いクーラーボックスを片手で運んでいたのを、隼人は思い出していた。そして、その後に「腰が」と呟いて、顔をしかめるふりをしていたことも。
――この人は、自分が嘘をついているという自覚が、もうないのかもしれない。
そんな考えが、頭をよぎった。
――――――――――
東雲大学の北嶺演習林は、都心から車で二時間ほどの山あいにあった。
細い林道を抜けた先、標高八百メートルほどの斜面に、二階建ての古い木造の山荘が建っている。大学の演習林の管理棟を、サークルの合宿用に貸し出しているのだと、森倉が説明した。
「一階に、広間があるんだ。五十畳ほどの広さで、昔は村の集会所として使われていたらしい」
バスを降りた一行を、森倉が案内した。
中に入ると、古い木の匂いが鼻をくすぐった。広間は、がらんとした板張りの空間で、中央には、昔の囲炉裏の跡らしい四角い板が嵌め込まれている。
「囲炉裏は、使えないんだ。板で塞いである。危ないからね」
森倉は、何でもない調子で言った。
隼人は、広間の南側に、大きな窓が並んでいることに気づいた。斜面に面した大きなガラス窓で、その向こうには、深い杉林が広がっている。
「裏手に、プロパンガスのボンベがあってね。冬に備えて、新品に替えたばかりなんだ」
森倉は、そう言って、玄関の扉の方を指差した。
隼人は、その言葉を、何気なく、頭の片隅に刻んだ。
荷物を降ろし終えたあと、森倉は、隼人に向き直った。
「ここまで、本当に助かったよ。迎えは、日曜の夕方で頼めるかな」
「はい。分かりました」
隼人は、頭を下げた。
そして、一度だけ、エヴァの方を見た。
エヴァは、少し離れた場所で、バッグを抱えたまま、静かにこちらを見返していた。その表情には、不安も、緊張もなかった。ただ、ほんのわずかに、笑っているように見えた。
隼人は、小さく頷いて、バスに乗り込んだ。
――――――――――
林道を下った先の、待避所に、隼人はバスを停めた。
周囲に、人の気配はない。エンジンを切ると、深い山の静けさが、耳に染み込んできた。
後部座席の下に隠していた楽器ケースを取り出す。中のライフルを、慎重に、手早く組み立てた。冷たい金属の感触が、手に馴染んでくる。
小型の無線機を取り出し、スイッチを入れた。
「聞こえるか」
数秒の沈黙のあと、イヤホンの向こうから、小さな声が返ってきた。
『聞こえる』
エヴァの声だった。銀髪の下に隠した小型のイヤピースが、問題なく動いているようだった。
「こっちは、山荘の南側の斜面に回り込む。二百メートルほど離れた尾根から、広間の窓が見えるはずだ」
『分かった』
「何かあったら、すぐに声を出せ。合図は、二度、咳払い」
『了解。……隼人』
「なんだ」
『寒くない?』
「山の中だぞ。寒いに決まってる」
『風邪、ひかないでね』
隼人は、思わず苦笑した。
「お前のほうこそ、気をつけろ」
『うん』
通信が切れた。
隼人は、ライフルを背負い、杉林の斜面を登り始めた。落ち葉を踏みしめる音と、自分の呼吸だけが、静かな森に響いた。
夕暮れが近づいていた。空は、茜色に染まっていたが、その色は、どこか、冷たい白に侵食されつつあるように見えた。
足元の落ち葉の端に、うっすらと霜が降り始めている。
九月の終わりの山の夕方に、それは、あまりにも早すぎた。
隼人は、ライフルのスリングを握り直し、歩を速めた。
戦いの夜まで、あと一日。
第七話 山荘の夜
最初の夜は、驚くほど穏やかに過ぎていった。
山荘の広間では、大きな長机を囲んで、夕食が振る舞われていた。カレーとサラダ、手作りの漬物。三宅が嬉しそうに配膳を手伝い、部員たちは、冗談を言い合いながら笑っている。電気ストーブの赤い光が、板張りの床をぼんやりと照らしていた。
エヴァは、森倉の隣の席に座っていた。
「北方の民は、氷に名前をつけたんだ。一年の中で、氷の種類が十七通りに分かれると言われていてね」
「十七。多すぎない?」
「寒い土地に住む人間にとって、氷は命に関わるものだからね。見分けられなければ、死ぬこともある」
森倉は、カレーを口に運びながら、楽しげに語った。エヴァは、その話に、静かに耳を傾けていた。
普段なら、広間にいる九人の話し声、食器の音、ストーブの唸り、外を渡る風の音。それらがすべて、頭の中に同時になだれ込んでくる。だが、森倉の声を聞いているときだけ、それらが、遠くなっていく。
――ああ、静かだ。
エヴァは、スプーンを持つ手を止めて、目を細めた。
それは、これまでの人生で、あまり経験したことのない感覚だった。戦っている間だけに訪れる集中が、会話という形で、ゆるやかに降りてくる。
「ヴァレンタインさんは、本当に聞き上手だね」
「先生が、話し上手なだけ」
「それは、嬉しい褒め言葉だ」
向かいの席で、藤堂灯が、箸を握りしめていた。
その視線が、エヴァの横顔に、じっと突き刺さっている。
「……エヴァさん」
食後、片付けの最中に、藤堂が低い声で声をかけてきた。
「あなたが来る前は、先生の隣は、いつも私だったんです」
「ふーん」
「先生の研究も、私が一番理解していました。誰よりも長く、支えてきたんです」
「そう」
エヴァは、手を止めずに、皿を重ねていた。
「だったら、あげる」
「え?」
「先生の一番。私、いらないから」
藤堂は、絶句した。
「欲しいなら、あなたがなればいい。私は、ただ話を聞いてるだけ」
エヴァは、悪気なく、そう言った。本心だった。特別扱いにも、期待にも、彼女は興味がなかった。ただ、頭の中が静かになる時間が、心地よかっただけだ。
藤堂は、唇を震わせて、何も言い返せなかった。
その場を離れるとき、彼女の目には、屈辱と、そしてどこか、恐怖に似た光が宿っていた。
――――――――――
夜、割り当てられた二階の小部屋で、エヴァは、イヤピースのスイッチを入れた。
『……聞こえるか』
低く、少し疲れた声が、耳元に響いた。
「聞こえる」
『異常はないか』
「ない。みんな、普通に寝た」
『そうか。こっちは、ヒルに襲われてる』
「ヒル?」
『ヤマビルだ。落ち葉の下から湧いてくる。ズボンの裾から入ってきやがった。寒いし、湿ってるし、最悪だ』
エヴァは、思わず噴き出した。
『笑うな』
「ごめん。想像したら、おかしくて」
『こっちは真剣なんだぞ』
「うん、分かってる。でも」
エヴァは、膝を抱えて、小さく笑った。
「隼人の声、聞くと、安心する」
通信の向こうが、一瞬、静まり返った。
『……そうか』
「うん」
『寝ろ。明日は長い』
「おやすみ」
通信が、切れた。
エヴァは、布団に潜り込んで、天井を見つめた。
頭の中は、静かだった。森倉の話を聞いていたときとは、少し違う種類の静けさだった。あたたかい、と言ってもいいかもしれない。
――変なの。
彼女は、そう思いながら、目を閉じた。
――――――――――
二日目の昼過ぎ、四駆車が二台、山荘の前に停まった。
降りてきたのは、久世恭介と、見慣れない顔の男が六人だった。昨日の連中とは別の、より装備の整った部隊だと、美冬は一目で判断した。全員が、体格が良く、動きに隙がない。
「久世さん、お待ちしておりました」
森倉は、いつもの穏やかな笑顔で出迎えた。
「予定より、少し早く着いてしまった」
久世は、冷たく言い放った。それから、窓際でお茶を飲んでいた美冬に、鋭い視線を向けた。
「そちらは」
「調査にいらしている、社会学研究科の四葉さんです。うちの活動を、研究してくださっていて」
森倉の紹介に、美冬は、清楚な笑顔で会釈をした。
「お邪魔しております。研究のお手伝いをさせていただいていて」
久世は、数秒だけ彼女を値踏みするように眺めたが、すぐに興味を失ったように視線を外した。
「学者の卵か。邪魔にならないようにしてくれ」
「はい、もちろんです」
美冬は、おっとりと頷いた。
――ほら、来た。そして、疑われてもいない。
誰も、この無害な外部の院生が、組織の軋みを聞いて楽しんでいるとは、夢にも思っていなかった。
「四葉さん」
そのとき、背後から、小さな声がした。
振り返ると、柏木が、青い顔で立っていた。
「あの、一昨日の話ですけど」
「ああ、就職の件ね」
「財団の推薦、本当に、順番とか、あるんでしょうか。久世さんは、そのへんのことを、全部知ってるんですよね?」
美冬は、あくまで穏やかに微笑んだ。
「私には分からないわ。気になるなら、直接聞いてみたらどうかしら。理事さんなら、ご存じのはずよ」
それだけだった。それ以上の誘導は、何もしなかった。
柏木は、ごくりと唾を飲み込んだ。
数分後、玄関の脇で、久世を呼び止める柏木の姿があった。
「あの、久世さん。少し、お聞きしたいことが」
「何だね」
「推薦の件です。就職の。僕は、本当に、財団の推薦をもらえるんでしょうか」
久世は、足を止めた。
そして、心底面倒そうに、柏木を見下ろした。
「推薦? ああ、そういえば、そんな話もあったな」
「え?」
「君に、推薦など出すつもりはない。君は、ただの駒だ。使い終われば、それまでの人間だよ」
柏木の顔から、血の気が引いた。
「でも、先生は、優秀な学生に推薦を」
「あれは、先生が学生を集めるための方便だ。まさか、本気にしていたのか」
久世は、鼻で笑った。
そのやり取りを、たまたま廊下を通りかかった三宅が聞いていた。彼女は、手に持っていたお盆を、小さく震わせていた。
「……ひどい」
三宅は、小さく呟いた。人懐っこい笑顔は、そこにはなかった。
美冬は、窓の外の杉林を眺めながら、心の中で、満足そうに頷いた。
――いい音。軋んでる。
内部の亀裂は、確実に広がっている。しかも、そのきっかけが自分だと気づく者は、一人もいない。
そして、その少し離れた場所で、エヴァは、無表情に壁を見つめていた。
広間の隣の、小さな応接室から、森倉と久世の声が、壁越しに漏れてくる。普通の人間なら、聞き取れない音量だった。だが、エヴァの耳は、あらゆる音を拾ってしまう。
『……約束を破ったのは、あなたです、久世さん。彼女に、手を出さないと言ったはずだ』
『契約書には、そんな条項はない。結果が出れば、手段は問わない』
『あなたは、あの方を理解していない。これは、取引ではないんです』
『取引だよ、先生。私にとっては、すべて取引だ』
エヴァは、小さく息を吐いた。
――いい感じに、こじれてる。
そう思ってしまう自分が、少し可笑しかった。
――――――――――
日が暮れると、山荘は、ひどく冷え込んだ。
九月の終わりとは思えない、肌を刺すような寒さだった。窓ガラスの内側に、びっしりと霜が張っていく。電気ストーブの赤い光は、もうほとんど役に立たない。
夕食のあと、森倉は、申し訳なさそうに美冬へ声をかけた。
「四葉さん、すまないね。今夜は、研究会の内輪の勉強会があるんだ。調査は、明日、改めてということで、今夜は早めに休んでもらえるかな」
「もちろんです。お気遣いなく」
美冬は、にこやかに頷き、二階の部屋へと上がっていった。
その廊下で、彼女は、後から階段を上がってきたエヴァと、すれ違った。
「行くのね」
「うん」
エヴァは、白い布を肩に掛けていた。儀式用にと渡されたものだ。その下、背中のスリングには、夕方に自室で組み直したショットガンが吊られている。弾は、悟られないように、ポケットへ忍ばせられるだけの数しか持ち込めなかった。誰も、布の下の重みには気づいていない。
「もう、気づいてるんでしょう。あの静かさが、あの人の餌だって」
「知ってる」
エヴァは、小さく答えた。
「でも、気持ちいい」
美冬は、何も言わなかった。ただ、少しだけ眉を寄せて、エヴァの横顔を見ていた。
「ねえ、美冬さん」
「何?」
「もし、私が、戻ってこなくなったら、隼人に、ごめんって言っておいて」
「自分で言いなさい」
美冬は、きっぱりと言った。
「あの子は、そういう伝言を、一番嫌うわよ」
エヴァは、一瞬だけ、目を丸くした。
そして、ふっと笑った。
「……分かった」
エヴァは、階段を下りていった。
その背中を見送ったあと、美冬は、自室には戻らなかった。
古い集会所だった広間は、天井が吹き抜けになっていて、二階の廊下が、手すり越しに広間全体を見下ろせる造りになっている。彼女は、その廊下の暗がりへ、足音を殺して身を滑り込ませた。
「悪いけど、見学させてもらうわね」
誰に言うでもなく、そう呟く。
眼下の広間の板張りの床には、白い塩のようなもので、巨大な円が描かれていた。その円の縁に沿って、六本の細い柱が立てられている。円の中心には、何も置かれていない。
六本の柱の前には、六人の信者が立っていた。藤堂、柏木、三宅、そして三人の部員たち。全員が、白い布を肩にかけ、うつむいている。
入口の二つの扉の脇には、久世の部下たちが、黒い服で立っていた。
そして、円の中心に、森倉博が立っていた。
白い長衣のようなものを羽織り、手には、一本の杖を握っている。杖は、白い骨でできているように見えた。太く、わずかに湾曲していて、まるで巨大な肋骨のようだった。
「よく来てくれたね、ヴァレンタインさん」
森倉は、いつもと変わらない優しい声で言った。
エヴァが、広間の入口から、ゆっくりと歩いて、円の中心へ向かう。
その姿を、美冬は、二階の手すりの陰から、息を潜めて見守っていた。
円の中心に、エヴァが立った。
森倉が、杖を高く掲げる。
「それでは、始めよう」
低い詠唱が、広間に響き始めた。
人間の声帯では出せない、不気味な旋律だった。六人の信者が、それに合わせて、声を揃えて唱え始める。床の塩の円が、ぼんやりと青白く光りだした。
空気が、一気に冷えた。
息が、白く凍る。窓ガラスが、軋んで、細かくひび割れていく。
「……来た」
エヴァは、呟いた。
床の円の外側、広間の隅の暗がりから、白い霧が、ゆっくりと立ち上がってくる。その霧が、人の形を取っていく。一体、二体、三体。昨日の夜よりも、ずっと数が多い。
氷の霊たちが、円の外周に、ずらりと並んだ。
そのとき。
エヴァの頭の中に、声が、響いた。
声、と言っていいのかどうかも分からなかった。音ではなかった。ただ、冷たくて、柔らかくて、底なしに深い何かが、頭の内側に、直接触れてきた。
『――騒がしい子』
それは、言葉ではないのに、意味だけが、はっきりと分かった。
『ずっと、うるさかったのだろう』
エヴァは、息を止めた。
『その騒がしさを、すべて、喰らってやろう。静かにしてやろう。何も考えなくていい。何も聞こえなくなる』
頭の中の雑音が、少しずつ、遠ざかっていく。
何百人もの話し声。足音。空調の唸り。窓の軋み。自分の鼓動。思考の渦。
それらが、一つ、また一つと、吸い込まれるように、消えていく。
そして、世界から、音が消えた。
完全な、静寂だった。
エヴァは、生まれて初めて、本当に何も聞こえない世界の中に、立っていた。
第八話 決着
静かだった。
エヴァは、白い息を吐きながら、その静寂の中に立っていた。
音が、ない。
広間を満たしていた詠唱も、信者たちの声も、窓の軋みも、すべてが遠くへ消えていた。頭の中でずっと鳴り続けていた雑音の渦が、ぴたりと止んでいる。
――ああ。
これが、静けさというものなのか。
エヴァは、胸の奥に、じんわりと温かいものが広がるのを感じていた。生まれてからずっと求めていたものが、手の届く場所にあった。
『それでいい』
冷たい声が、頭の奥で囁いた。
『そのまま、身を委ねなさい。すべて、預けなさい。お前の騒がしい頭を、私が引き受けてやろう』
エヴァは、ゆっくりと目を閉じた。
悪くない、と思った。
このまま、何も聞こえない世界にいられるなら、それでも――
その瞬間だった。
耳の奥で、かすかな音がした。
『……エヴァ』
小さな、少しかすれた声だった。
『エヴァ、聞こえるか。応答しろ』
隼人の声だった。
静寂の中に、ひびが入った。
『反応がない。おい、返事をしろ。こっちからは、広間が真っ白に凍って見えない。何があった』
声は、ひどく焦っていた。いつもの落ち着いた調子ではなかった。冷静さを装おうとして、うまくいっていない、不器用な響きだった。
『頼むから、返事してくれ。エヴァ』
エヴァの口元が、ふっと緩んだ。
――うるさい。
その声は、うるさかった。頭の中の静けさを、容赦なく乱してくる。邪魔で、騒がしくて、ひどく不器用で、そして。
――やっぱり、これだけは、ちゃんと聞こえる。
エヴァは、目を開けた。
「……ふふ」
小さく笑う。
『何を、笑っている』
冷たい声が、わずかに揺らいだ。
「静かになったら」
エヴァは、独り言のように呟いた。
「隼人の文句が、聞こえなくなるでしょ。それは、困る」
『――愚かな』
「うん、そうかも」
エヴァは、肩に掛けられていた白い布を、ばさりと床に払い落とした。
布の下から、背中に吊っていた黒い銃身が現れた。彼女は、流れるような動作でスリングを滑らせ、グリップを握り込む。
「私、頭の中、うるさいままでいい」
エヴァは、銃を構えた。
銃口が、森倉の胸元に向いた。
「――あはっ」
笑い声が、爆発した。
――――――――――
広間の空気が、一変した。
エヴァの銃声が、轟音となって、凍りついた空間を引き裂いた。
森倉が、驚愕の表情で、杖を握りしめる。
「ヴァレンタインさん、何を」
「ごめんなさい、先生」
エヴァは、にっこりと笑った。
「あなたの話、面白かった。でも、静かになるのは、嫌なの」
散弾が、森倉の足元の床板を砕いた。森倉は、のけぞりながら飛び退いた。その動きは、四十代の男のものではなかった。
円の外側で、氷の霊たちが、一斉に動き出した。
「美冬さん!」
エヴァが、二階の手すりに向かって叫んだ。
「はいはい、了解」
暗がりから、美冬が身を乗り出した。広間の惨状を見下ろしながら、彼女は、驚くほど通る声を張り上げた。
「みんな、逃げて! 部外者の私にだって分かるわ、先生は、もうあなたたちを見ていない!」
その声は、清楚な外見に似合わず、広間の隅々まで響いた。
「さっき、久世さんが言ったでしょう? あなたたちは、使い終われば、それまでの人間だって! あの方に捧げられるのは、エヴァちゃんだけじゃないのよ!」
誰も、彼女がこの場に隠れていたことを、不思議に思わなかった。ただ、危機を見かねて声を上げた、親切な外部の院生。それが、彼女に貼られたラベルだった。
柱の前で、柏木が、がくりと膝をついた。
「……僕は、駒だって」
「そう。聞いたでしょう、あなたも」
美冬は、三宅の方へも、声を向けた。
「三宅さん、ここで死んだら、誰が、あなたの名前を覚えてるの?」
三宅の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「いや……いやだ、私、死にたくない」
三宅が、柱から離れた。
続いて、柏木が、よろめきながら立ち上がった。
「俺も、抜ける」
二本の柱が、倒れた。
床の塩の円が、ぶつりと音を立てて、青白い光を失った。
「何をしているんだ、君たち!」
森倉が、悲痛な声で叫んだ。
「儀式は、まだ途中だ。皆の力が、必要なんだ。戻りなさい。先生の言うことを、聞いてくれ!」
その声は、これまでで一番、優しかった。
それが、かえって、六人の信者たちの背筋を凍らせたのかもしれない。
「先生」
藤堂灯が、震える声で、一歩前に出た。
「私は、先生を信じています」
「ありがとう、灯君。君は、本当にいい子だ」
「だから、お願いです。あの子たちを、責めないでください」
藤堂の眼鏡の奥から、涙がこぼれていた。
森倉が、小さく息を呑んだ。
その隙に、久世が、扉の脇から、鋭い声を上げた。
「何をしている! 標的を押さえろ!」
黒服の六人が、一斉に動いた。
エヴァの銃口が、そちらを向いた。
「あ、来た」
エヴァは、目を輝かせた。
「やっと、本番」
――――――――――
森の中。
隼人は、杉の枝の隙間から、山荘の広間を睨んでいた。
スコープの向こうで、窓ガラスが、真っ白に霜に覆われている。中の様子は、まるで見えない。何度も呼びかけたが、エヴァからの返答は、途絶えていた。
――頼む。
額に、冷たい汗が浮かんだ。
そのとき、イヤホンの向こうから、ようやく声が戻った。
『……聞こえてる』
「エヴァ!」
『ごめん。ちょっと、静かになってた』
「は?」
『大丈夫。今から、暴れる』
「おい、待て、状況を」
次の瞬間、イヤホンの向こうで、銃声が響いた。
重い散弾の音が、連続して。
隼人は、思わず息を吐いた。
「……生きてたか」
『当たり前』
「無事なら、早く言え」
『忙しいの』
エヴァの声は、いつもの気だるさを完全に脱ぎ捨てていた。弾んでいる。楽しそうだった。
『隼人、お願いが一つある』
「なんだ」
『窓、開けるから、そっちから、撃てるようにして』
「窓を開ける?」
『この霜じゃ、中が見えないでしょ。私が、窓ガラスを撃ち抜く』
隼人は、数秒、考えた。
「どの窓だ」
『一番大きい、真ん中のやつ。三、二、一、でいく』
「分かった。位置につく」
隼人は、ライフルの姿勢を、さらに低くした。
呼吸を整える。風向き、湿度、距離、気温。父に叩き込まれた手順を、頭の中で一つずつ確認していく。
『三』
引き金に、指をかける。
『二』
視界が、スコープの中の一点に絞られていく。
『一』
広間の大窓が、内側から、轟音とともに砕け散った。
――――――――――
広間の中は、混沌としていた。
エヴァは、軽やかに床を蹴って、黒服の男たちの間を駆け抜けていた。ショットガンが火を噴くたび、男たちの足や肩が弾けて、悲鳴が上がる。致命傷は、一つも与えていない。それでいて、一撃一撃が、確実に相手の戦意を奪っていく。
「楽しい、楽しい」
エヴァは、歌うように笑っていた。
氷の霊は、数が多かった。だが、それらを撃ち砕くたびに、彼女の口元は、さらに綻んでいく。
「エヴァちゃん、弾は大丈夫?」
二階の手すりの上から、美冬が叫んだ。
「ええと」
エヴァは、引き金に指をかけて、少しだけ考えた。
「あと、二発」
「少なっ」
「でも、問題ない」
エヴァは、残りの氷の霊を一体、撃ち砕いた。
最後の一発を、まだ残している。
その瞬間、広間の中央から、冷たい空気が、爆発するように膨れ上がった。
「……もう、いい」
森倉の声だった。
優しい声ではなかった。何かを押し殺したような、低く、軋むような声だった。
「君たちが、ここまで愚かだとは思わなかったよ」
彼は、杖を床に突き立てた。
床の円が、再び、強烈な青白い光を放ち始める。信者たちを必要としなくなったのか、力の流れが、完全に森倉一人に集中していく。
森倉の体が、変わっていった。
肌が、蝋のように白くなっていく。吐く息が、真っ白な霧になって広がる。目の色が、薄い青に染まり、瞳孔が、細い針のようになった。
「私は、あの方に、すべてを捧げたんだ」
その声は、もはや人間のものではなかった。
「もう、戻れない。だから、最後まで、やり遂げる」
次の瞬間、森倉の姿が、消えた。
「え」
エヴァが反応する前に、彼女の目の前に、白い手が伸びていた。
鋭い衝撃が、腹部を貫く。
エヴァの体が、後方へ吹き飛んだ。背中が、壁に叩きつけられる。息が詰まる。
「あ……」
「大丈夫かい、ヴァレンタインさん」
森倉は、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「痛いだろう。すぐに楽にしてあげるよ」
その声だけは、いつもの優しい、穏やかな調子のままだった。
エヴァは、床に倒れたまま、ショットガンを構えようとした。だが、腕に力が入らない。
「残念だ。君ほど、いい器は、他にいなかったのに」
森倉が、杖を高く振り上げた。
白い骨の杖の先端が、冷たい光を放つ。
そのとき、イヤホンから、声が響いた。
『エヴァ! 見えた! 窓が開いてる!』
隼人だった。
『今、お前のいる位置から、森倉の杖が見える。そのまま動くな。じっとしてろ』
「……簡単に、言うね」
エヴァは、かすれた声で、呟いた。
「でも、了解」
彼女は、右手の指を、そっと動かした。
銃口は、森倉の方を向いていなかった。わざと、まったく別の方向を向けている。森倉の視線が、その銃口の先に、一瞬だけ流れた。
その、ほんの一瞬だった。
――――――――――
隼人は、スコープの向こうで、凍った広間の中を、はっきりと捉えていた。
割れた窓から、冷気が白い煙のように吹き出している。その向こうに、森倉の姿があった。杖を振り上げて、エヴァに歩み寄っている。
距離は、およそ二百メートル。
風は、わずかに右から。気温は低く、空気は重い。
――外せば、終わりだ。
隼人は、息を止めた。
心臓の鼓動が、ゆっくりと遠ざかっていく。視界が、スコープの十字線の一点に、ぴたりと収束した。
標的は、骨の杖の中ほど。
引き金を、絞る。
乾いた発砲音が、山の静寂を、一瞬だけ切り裂いた。
弾丸は、冷たい空気を貫いて、一直線に飛んだ。
そして、森倉の手の中の杖を、真っ二つに砕いた。
「――ジャックポット」
隼人は、小さく呟いた。
――――――――――
杖が砕けた瞬間、世界が、悲鳴を上げた。
「あ、ああああああっ!」
森倉が、絶叫した。
杖から迸っていた光が、一気に消える。床の円が、ばりばりと砕けていく。氷の霊たちが、次々と崩れ落ちた。
「ばかな……バカなああああ!?」
森倉は、床に這いつくばって、砕けた杖の欠片を、必死にかき集めた。
「ありえない! 私は、あの方に選ばれたんだぞ! 何年もかけて、五人も捧げて、やっと、やっと手に入れた力が!」
その肌の色が、少しずつ、人間らしい色を取り戻していく。同時に、さっきまで全身に漲っていた力が、嘘のように抜け落ちていった。膝が笑い、息が上がる。
「戻れ、戻れ、戻れよ! なぜ動かない! 返せ、私の力を返せ!」
欠片を握りしめて叫ぶ声は、もはや、優しい准教授のものでも、威厳のある魔術師のものでもなかった。思い通りにならない現実に取り乱す、ただの凡庸な男の声だった。
そのとき、彼の背後の床が、不気味に盛り上がった。
白い、環状の肉の塊が、床板を突き破って、せり上がってきた。
ぬめりを帯びた、白い蟲の頭。大きな口が、花弁のように開き、その縁に並んだ無数の歯が、ぬらりと光っている。血の滴のような色の玉が、口の奥に、ぼんやりと浮かんでいた。
それは、蟲の、ほんの一部に過ぎなかった。
「ひっ」
森倉は、振り返って、その姿を見た。
顔から、一切の余裕が消えた。
「ま、待ってください! 違うんです、これは事故で! あの子たちが、邪魔をしたから!」
彼は、床を這って後ずさった。眼鏡が外れて、レンズが割れている。
「次の器は、すぐに用意します! もっと賢い子を、もっとたくさん! だから、だから!」
蟲は、答えなかった。
「契約したはずだ! 五人も捧げたじゃないか! 私は、選ばれた魔術師なんだぞ! 私は、凡人じゃない! 凡人じゃないんだ!」
腰を抜かし、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、彼は叫び続けた。優しい准教授の面影も、魔術師の威厳も、そこには何も残っていなかった。ただ、死にたくないと泣き叫ぶ、凡庸な男が一人、いるだけだった。
「いやだ! やめろ! お願いします、お願いだから、ひい、ひいいい!」
エヴァは、壁にもたれたまま、その様子を冷めた目で眺めていた。
「……ふーん」
小さく、呟く。
「食べる側のつもりだったんだ」
蟲の口が、森倉の頭上に、ぱくりと降りてきた。
「ばか、な、バカ、な、あああ――」
くぐもった絶叫が、白い口の中に、吸い込まれて消えた。
蟲の口が、音もなく閉じた。
――――――――――
「全員、壁から離れろ!」
隼人の声が、通信機から、割れんばかりに響いた。
「ガスボンベを撃つ! 裏手の、プロパンだ! すぐに窓から飛び出せ!」
エヴァは、全身の痛みをこらえて、身を起こした。
蟲の頭は、森倉を飲み込んだあと、ゆっくりと、こちらへ向き直った。口の縁から、冷たい霧が、どろりと垂れている。
「美冬さん!」
「分かってる! 今、下りるわ!」
二階から階段を駆け下りてきた美冬は、動けなくなった信者たちを、窓際へと引きずっていた。
「藤堂さん、立って! 先生はもう戻らないの!」
「先生が、先生が」
藤堂は、泣き叫びながら、床に崩れていた。
美冬は、彼女の腕を掴んで、強引に引き起こした。
「あなたが死んだら、あなたのご両親が泣くわよ!」
その言葉は、ごく当たり前で、だからこそ、効果があった。
藤堂は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、ふらふらと立ち上がった。
久世は、既に広間の扉から逃げ出していた。部下たちも、ほとんどが負傷して動けない。
エヴァは、残っていた最後の一発を、蟲の頭に向けた。
「ごめんね、これ、ただの時間稼ぎだけど」
引き金を引く。
散弾が、蟲の口の周りの肉を、ずたずたに引き裂いた。
蟲が、声のない悲鳴を上げて、のけぞった。
「今!」
エヴァは、割れた窓から、外へ飛び出した。
美冬が、信者たちを連れて、続く。
その、直後だった。
山荘の裏手で、爆発音が、轟いた。
隼人の弾が、プロパンガスのボンベを、撃ち抜いたのだ。
炎が、一気に膨れ上がった。
熱風が、広間の中を駆け抜ける。赤い火が、古い木造の壁を、瞬く間に舐めていく。
白い蟲が、身をよじった。
火を嫌う、と伝えられていた存在は、その伝承に違わず、炎に包まれた床の上で、ぶるぶると震えていた。冷気の領域が、音を立てて崩れていく。霜が溶け、水になって滴り落ちる。
蟲の体が、少しずつ、溶けるように、小さくなっていった。
「……撤退、してる」
エヴァは、燃え盛る山荘を見上げて、呟いた。
蟲の頭は、床の穴から、ずるずると、下へ引っ込んでいく。やがて、白い影は、完全に消えた。
炎だけが、夜の山に、赤く立ち上っていた。
――――――――――
林道の途中で、隼人は、ライフルを抱えたまま、全力で走っていた。
足が、もつれそうだった。だが、止まるわけにはいかなかった。
山荘の前の広場に出たとき、燃え上がる建物の前に、人影が並んでいるのが見えた。
エヴァと、美冬と、信者たちだった。
「エヴァ!」
隼人が叫ぶと、銀色の髪が、くるりとこちらを向いた。
エヴァは、全身泥だらけで、服もところどころ焦げていた。それでも、無事だった。
「あ、隼人」
「お前、無事か」
「うん」
「怪我は」
「ちょっと、お腹が痛い」
「ちょっとって、お前」
隼人は、駆け寄って、エヴァの両肩を掴んだ。
「痛いのは、どこだ。見せろ」
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃない顔してる」
「してない」
エヴァは、むっとした顔をした。それから、ふっと力が抜けたように、隼人の胸に、こつんと額を預けた。
「……静かだった」
「え?」
「さっき、ほんとに静かだったの」
エヴァは、顔を上げずに言った。
「でも、隼人の声が聞こえたから、戻ってきた」
隼人は、何と言っていいか分からなかった。
「……そうか」
「うるさかった」
「悪かったな」
「ううん」
エヴァは、少しだけ、笑った。
「悪くなかった」
夜空に、火の粉が舞い上がっていた。
燃え尽きていく山荘の向こうで、遠く、サイレンの音が聞こえ始めていた。
エピローグ その後
夜が明けきらないうちに、林道の入り口には、見慣れた黒いバンが停まっていた。
燃え尽きかけた山荘から逃れてきた一行を、毛布を抱えたマーカスの部下たちが、手際よく迎え入れた。信者だった学生たちは、全員が呆然とした顔で、保温シートに包まれている。藤堂は、最後まで山荘の方を振り返って、嗚咽を漏らしていた。
「全員、生きてるな」
運転席から降りてきたマーカスは、隼人とエヴァと美冬の顔を、一人ずつ確かめるように見た。
「死んでない」
「それなら、上出来だ」
マーカスは、短くそう言ってから、隼人の頭を乱暴に撫でた。
「やめろ、親父」
「いいから、じっとしてろ」
その手は、少しだけ、震えているように感じられた。
久世恭介は、林道を下る途中の杉林で、マーカスの部下たちに身柄を押さえられていた。逃走用の四駆が、ぬかるみに嵌まって動けなくなっていたらしい。彼は、その後、公式には存在しない手続きを経て、国の然るべき部署へと引き渡された。
山荘の火災は、老朽化した設備による失火として処理された。学生たちは、突然の寒波と、ガス爆発に巻き込まれた軽傷者。それが、世間に流れた説明だった。
合宿に同行していた社会学研究科の大学院生は、「危険を察して学生たちを避難させた、親切な部外者」として、感謝の言葉とともに事情聴取を終えた。信者だった学生たちも、後に事情を聞かれたとき、あの場で声を上げてくれた外部の先生としか語らなかった。教団の関係者は、最後まで、彼女が何をしたのかを知らなかった。
森倉博准教授は、「山中で行方不明」とされた。
ロッカーの中の氷は、あの夜のうちに、音もなく溶けていた。
桐生翔太の遺体は、山での遭難死として、家族のもとへ返された。ほかの四人の遺体は、結局、見つからなかった。
――――――――――
三日後の夕方、美冬は、学生会館の前のベンチに、一人で座っていた。
民族文化研究会は、活動停止になった。部室の扉には、「立入禁止」の貼り紙が貼られている。
彼女は、自動販売機で買った缶コーヒーを、五本、ベンチの端に並べていた。
「長谷川悠くん」
一本目を、指で軽く弾いた。
「宮下玲央くん」
二本目。
「白石凛さん」
三本目。
「町田浩二くん」
四本目。
「桐生翔太くん」
五本目の缶を、そっと撫でた。
「次は、もっと早く動くね」
小さく、そう呟いて、すぐに、自分で苦笑した。
「……守れない約束は、しない主義なんだけど」
そのとき、背後から、足音が近づいてきた。
「何してるんだ、こんなところで」
隼人だった。
片足を軽く引きずっている。山の斜面で捻った足首が、まだ腫れているのだ。
「あら、隼人くん。お見舞い?」
「違う。家の前を通ったら、お前の母さんが『美冬ちゃんが、全然ご飯を食べてない』って心配してたから」
「あらあら」
「それ、飲まないのか」
隼人は、ベンチの缶コーヒーに目をやった。
美冬は、少しだけ、答えに詰まった。
「……供養、みたいなものよ」
「柄にもないな」
「失礼ね。私にだって、そういう日はあるわ」
隼人は、何も言わずに、ベンチの空いた端に腰を下ろした。それから、五本の缶の一番端を手に取って、プルタブを開けた。
「いただきます」
「それ、桐生くんの分」
「そうだろうな」
隼人は、一口だけ飲んで、缶を元の位置に戻した。
「次は、レポートより先に動け」
美冬は、目を丸くした。
それから、ふっと、肩の力を抜いて、笑った。
「努力するわ」
「期待しないで待ってる」
「あら、冷たい」
夕焼けが、キャンパスの建物の窓を、赤く染めていた。
――――――――――
その夜の神崎家のリビングは、いつもと変わらない、騒がしさに包まれていた。
「はい、ご飯よ。たくさん食べなさい」
美月が、大皿に山盛りの唐揚げを運んできた。テーブルには、サラダやスープ、煮物まで並んでいる。三人分には、明らかに多すぎる量だった。
「母さん、作りすぎだ」
「あら、いいじゃない。死んでないんだから、お祝いよ」
美月は、さらりとそう言って、エヴァの前に皿を置いた。
「エヴァちゃん、お腹は大丈夫?」
「うん。もう、痛くない」
「それはよかった。ちゃんと食べなさい。食べないと、大きくなれないわよ」
「私、もう十八」
「関係ないわ。食べなさい」
エヴァは、むくれた顔をしながらも、唐揚げに箸を伸ばした。口に入れた瞬間、目が少しだけ丸くなる。
「……おいしい」
「でしょう?」
美月は、得意げに笑った。
食後、エヴァはリビングのソファで、毛布にくるまっていた。
テレビの音が、小さく流れている。キッチンでは、美月とマーカスが、洗い物をしながら、何か言い合っていた。
隼人は、その隣に腰掛けて、スマートフォンを眺めていた。
ふと、肩に、重みが乗った。
見ると、エヴァの銀髪が、隼人の肩に預けられていた。長い睫毛が、閉じられている。規則正しい寝息が、すぐ近くで聞こえた。
「……寝たのか」
隼人は、小声で呟いた。
「あの、頭がうるさいやつは、どうしたんだ」
答えは、返ってこなかった。
だが、エヴァの寝顔は、いつもよりずっと穏やかだった。眉間の皺もなく、唇が、わずかに緩んでいる。
戦いの中でしか静まらなかった頭の中は、今は少しだけ、凪いでいるのかもしれない。
隼人は、動けなくなった。
起こさないように、スマートフォンの画面を消して、ソファの背もたれに体を預けた。
キッチンから、美月がこちらを覗き込んで、にんまりと笑った。
「あら、いい光景」
「撮るな」
「撮らないわよ。……一枚だけ」
「撮るなって言ってるだろ」
小声の応酬が、リビングに響いた。
――――――――――
翌朝、神崎家のインターホンが鳴った。
玄関のドアを開けると、そこには、白いブラウス姿の美冬が立っていた。その腕には、見覚えのある、小さな金属製のケースが抱えられていた。
「おはよう、隼人くん」
「……何の用だ」
「朝ごはんに、お邪魔しようと思って」
「それは、口実だろ」
「あら、バレた?」
美冬は、ケースを胸の前に持ち上げて、にっこりと笑った。
「次の面白い話があるの。聞いてくれる?」
「聞きたくない」
「そう言うと思った」
「帰れ」
「やだ」
そのとき、廊下の奥から、のそのそと、寝癖だらけの銀髪が現れた。
「……誰、朝から」
エヴァは、半分眠ったままの目で、玄関の様子を見て、固まった。
そして、すぐに、むっと頬を膨らませた。
「また来た」
「あら、エヴァちゃん、おはよう。今日も可愛いわね」
「隼人は、私の同居人」
「知ってるわ。でも、隼人くんは、私の幼馴染でもあるの」
「だから何」
「だから、二人で分け合いましょう?」
「分け合わない!」
二人の間で、再び、見えない火花が散った。
隼人は、玄関先で、天を仰いだ。
「……またかよ」
その小さな呟きは、秋の朝の澄んだ空気の中に、静かに溶けていった。
遠くで、美月の「朝ごはんよー」という声が、のんびりと響いていた。




