川の胎にて産まれる
名波幹久はプールの監視員に引かれて隅の方に寝転がされた。周囲 がざわめいている。
──まただ……。
幹久は 金槌でもないのに水場でよく溺れる。
むしろ泳ぎはうまい方だと思う。手前味噌だが、クロールだろうがバタフライだろうが見るものをうっとりさせるほどのフォームだ。
だがいつも突然、足が動かなくなるのだ。
まるで何かに掴まられているように。
まるで何かに引っ張られているように。
そうなると幹久は沈むほかない。
周囲から見ると、上手に泳いでいたのにいきなり沈むから、まるで気を失っているように見えるのだという。
しかし毎回溺れるのは一瞬のことなのだ。
一瞬だけ溺れたら、まるで何かしがらみが解けたかのようにふっと動けるようになる。
そうしていつもは自力で再び泳ぐのだけれども、今回は監視員に気づかれて助けられてしまった。
ゆえにこのような騒ぎになってしまったのだ。
幹久は申し訳ないやら恥ずかしいやらで、消えてしまいたかった。
これが嫌だからなるべく海やプールに行かないようにしていたのに……。
サークルの仲間に誘われていってしまったのが間違いだった。
つまりは浮かれて油断していたのだ。
幹久は仲間に「大丈夫か」と声をかけられながらも体調が悪いからと言って足早に帰った。
どうしてこんなことになったんだろう?
きっかけは子供の頃のことだったと思う。
子供の頃 幹久 は 夏休みの長期休暇など父方の祖父母の 家によく遊んでいた。
その家は山の中にあった。そしてその山の中には川があったのだ。
幹久はその川でよく遊んでいた。
そしてその川で 溺れて……──
……幹久が水場で溺れるようになったのは、それからだったはずだ。
その日溺れた以外にも何かあった気がするのだが……どうしてもそれが、幹久には思い出せなかった。
祖父母は幹久が溺れた件があってからすぐに引っ越し、今はもう少し栄えた別の場所に住んでいる。
幹久の母はよく「あの家だってまだ十分に住めたのに、わざわざ 新しい家を買うだなんて無駄遣いだ 」とぼやいていた。
おそらく母は、後に入ってくるであろう遺産が減るのが面白くないのだと幹久は最近になって気づいた。
母の意向はともかくとして──幹久は両親にその時の話をされるたび、祖父母が別の場所に引っ越してくれてよかったと心底思っていた。
ゾッとするからだ。
ネットやニュースで川に流された子供の話を 見たり聞いたりするたび、自分も他人事ではなかったのだと。
なまじ今だに半端に溺れたりするからこそ、 今でも自分ごととして考えられる。
けれどもその一方、幹久は自分でも奇妙に思うのだが……、もう一度あの山と川に行きたいという思いもあった。
それはあまりに奇妙な考えだと自分でも思うから、それが頭に浮かぶたびに自身で打ち消している。
しかしその考えは 幹久の意志に反して、何度でも頭に浮かぶのだ。
ゾッとしながら──けれど、ある種恍惚な想いとともに。
◆
ぐらぐら ゆらゆら
それが地震だと気づくのに幹久は幾分か時間がかかった。
深夜、幹久の就寝中の出来事だった ことと 震度4程度の揺れだったせいだ。
幹久は手探りで枕元を漁り、スマホを手にして ニュースを見た。
そして思わず 眉を上げた。
震源地は祖父母の元いた山の近くではないか。
祖父母は土地持ち、あの家も別に手放していたわけではない。
引っ越した後も取り壊したわけではなかったはずだ。
ということはあの家は山の中で瓦礫の塊になっているかもしれないのか。
一人暮らしで幹久以外は誰もいない家だというのに幹久は布団を頭まですっぽりかぶり 両手で耳を閉じた。
不安だった。
理由は分からないが取り返しのつかないことがおこってしまったような気がした。
──なんだよ、取り返しのつかない事って?
自らに問う。
──地震が起きたせいで あの家が崩れたせいで 山の神様が怒ってしまったって?
我ながらなんと馬鹿げた考えだと、幹久は布団の中でケタケタと笑った。
◆
「祖父母の家の片付けを手伝ってくれないか」と父から言われたのはそれから半年後のことだった。
なぜ今と思ったが、父としては余震や避難民の状況など、色々と頃合いを考えた末のことらしい。
「別にいいけど、どうして俺まで?」
幹久は言って茶碗を母に差し出した。現在は春休みで実家で帰省中だ。
「それはもちろん、男手はひとりでも多くいた方がいいから決まってるだろ。片付けって言ってもね、結局は更地にしてもいいように大事なものを探して、家に持って帰ろうってことなんだから──。その中に重いものがあったら、父さん一人じゃ持っていけない」
「そしたら潔く諦めろよ……」
幹久の言葉を遮るように、母は 「そんなの駄目に決まってるじゃないっ」と一括した。
「ほらな」と父は幹久に気づかれないようにウィンク 。幹久は呆れた。
「とはいえ無理にとは言わない。どうする?幹久」
「俺は……──」
途端、幹久の足から全身に登るように鳥肌が立った。
見なくてもわかる。足元が濡れている。
掴まれたのだ、奴に。いつも幹久を溺れさせ、しかし決して死なせはしない──中途半端な何者かに。
そいつの手は幹久を掴んでは離し、軽く叩き軽快に、リズミカルに──。
幹久は下を向く。奴の事は視えない。視えないのに……。目があったことが、幹久にはわかった。
幹久は気がつくと両親に呆けた顔で見つめられていた。
それで自身が、絶叫を上げていたことに気づいた。
◆
電車の窓辺の景色はその街並みに関わらず 良いものだと思う。
結局幹久は父と新幹線に乗って、あの家に向かっていた。
乗って一時間も経っていないというのに父は早くも 寝息を立てている。
「まったく……」
幹久はため息をはいて、ペットボトルのジュースをひと飲みした。
……あれからあの家に本当に行くか、迷わないでもなかった。
あの山は、家は──夏休みの度に幹久が遊びに行っていた場所。
だから 溺れるまでは たくさんの楽しい思い出で溢れていた はずなのに──。
……実は幹久には、その記憶のほとんどが欠けてしまっていた。
物心がつくのが遅かったのか、溺れたショックであの山と川の記憶をほとんど消してしまったのか。
それゆえに幹久は不思議でならない。
何度頭の中で打ち消しても消えない、あの山と川への切望する思い。
この思いはどこから来るのかと……。
幹久は震える。
父からあの山に行ないかと言われた時、幹久は嫌だと思う 一方、頭の片隅のもう一人の自分は──歓喜していた。
足を掴まれ、悲鳴を上げながらも、歓喜していたのだ。
──それを熱望しているのは俺なのか?それとも奴なのか?
幹久は足元を見る。あれ以来足元に奴がくることはなかった。
その時、父の携帯からアラームが鳴った。
一部常識のかけるところがある父は、基本的に電車の中でもマナーモードにすることがない。
父は目をこすりながら「はいはい」とスマホのボタンを押した。
「さすがに 座席で電話をするなよ」と幹久は咎めるように視線を向ける。
父はスマホに耳を当てた瞬間、顔をしかめた。
父の耳元から聞きなれた声が、微かに漏れ響く。
『──っかく───のにっ───川はっ──取り憑かっ──』
── 何と言っているのだろう?川?
「 はいはいわかりましたよ! え?違う違う、 綾子が言い出したんじゃないって。まったく、父さんも母さんの綾子の悪口ばっかり言って! そんなに僕の選んだ妻が気に入りませんか」
「……」
どうやら電話の相手は父からの祖父母のどちらかのようだ。
受け答えの様子を聞くに、ずいぶんと怒っている。
祖父母は元々母とが折り合いが悪かったが、父と言い争うのは珍しい。 ひょっとしたら幹久が知る限り、初めてかもしれなかった。
「 はいはい、わかりましたわかりました!おおせの通りにいたします!」
父はそう言って逃げるようにスマホの電源 ボタンを押した。
「 どうしたの?珍しいじゃん」
「幹久…… 聞こえてたのか」
「 それは真隣であんな大きい声で話してたら音漏れもするだろ」
「だな……」
父はスマホをカバンにしまった後、少し考え込んだ風に腕を組んだ。
「 お前にももうそろそろ話そうかなと思っていたんだが…… 僕側のおじいちゃんおばあちゃんと母さん、 随分仲が悪いだろ?」
「そうだね」
けれど、珍しいことじゃない。
大方母のがめつい部分が、祖父母の逆鱗に触れるような出来事があったのだろう。 くらいに幹久は考えていた。
けれど父はそんな 幹久の考えも見透かすように首を振る。
「 違うんだよ幹久。母さんと親父が仲違いした理由は、性格が合わないとか、そういう単純なものではないんだ。 何と言うか──」
父は言いづらそうに声を震わせた。
「親父たちが変な考えに固執してしまったせいなんだよ……」
「変な、考え?」
「 つまり……お前が呪われたって言ってな……、 いろんな拝み屋を雇ってこっちに持ってきたり……」
「なっ……」
そんなの初耳だ。幹久は刺すように父を見つめる。
「 ……またそれの、理由がさ……」
父は一筋の汗をかいて、目を伏せた。
◆
新幹線を降りてからレンタカーを借りた。幹久達は今、山道を走っている。
山近くになってからは父に運転を変わってもらった。「 まだお前では危ないからな」と。
父と 幹久の間に会話はない。 どこか重苦しい、陰鬱な雰囲気が2人の間を漂っていた。
新幹線で、父が言った言葉。
その後父はすぐ、「やっぱりいいや」と話すのをやめてしまった。
あれほど歯に衣着せずをモットーとする父なのに。
理由、とは?祖父母はおかしな宗教にでも入ってしまったということか?
祖父母の新しい家は、至って普通の住宅だったが……。
幹久は気になって仕方がない。
そう言って何度聞いても、父はもう答えてはくれなかった。
そうなると幹久は、自分の記憶をたどるしかない。
何だっけ?じいちゃんとばあちゃん、 母さんと昔から仲悪かった気がしたけど……。
いやけどもっと昔は……それこそ──
山で、遊んでいた頃は……。
車の揺れが心地いい。気がつくと幹久はまどろみの中にいた。
…… 川のせせらぎが、優しく聞こえた気がした。まるで子守唄みたいに──。
◆
「 先輩 、好きな人いるでしょ?」
これが夢だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
幸か不幸か、母に似て端正な顔立ちの幹久は よく女子からアプローチを受けることがあった。
この夢に出ている子は、そのうちのどの子だろう?
正直幹久はその全ての女子の顔を、朧気にしか覚えていなかった。
この子は特定の誰かではなく、 ──いわゆる幹久の記憶の集合体なのだろうか。
幹久に声をかけた女子たちは、皆 一年もするとそんな風に問い詰めてきた。
同じ。皆同じだ。
そうして「違うよ」と言うと、
「 嘘。私、ずっと見てたからわかるもの。 先輩はずっと何かに恋をしているって。……ねぇ、先輩」
── 教えてください。あなたが誰に恋をしているのか。
……だから、そんなのいないんだって!
──嘘。嘘。嘘。
そう言って去って行く彼女の背中を追いながら、幹久は叫んだ。
しかし幹久 はこれ以上彼女を追えない。足元が濡れる。奴に、足を掴まれている。
雑音。 それは奴の笑い声にも、 水が勢いよく滴ってるような音にも聞こえる。
「 嘘だよ、嘘。だって俺はぁ、昔からずぅっとみていたからな」
やがて声は彼女の声ではなく、奴に──。
「やめろ!」
弾けるように幹久はまどろみから目覚めた。
ガタガタという音は、父が驚いて急ブレーキを踏んだからだ。
「あ……つっ……」
幹久は全身がぐっしょりと汗で濡れている。
足元には──足首には…… 爪で引っかかったような跡が三本、はしっていた。
薄らと滲んだ血は、水が混じってピンク色だ。
「なんだ?さてはお前……いい年してやっちまったかー?」
冗談めかした ように言う父に、幹久は「バーカ」と首を振った。
「ま、冗談はさておき……ちょうどいいところに目覚めたな。着いたぞ幹久」
父はガシュリと車のキーを回し、外した。
なんだかその鍵を回す音が、異界への扉の鍵を開けた音にも聞こえて、幹久は身震いする。
窓を見つめる。 おぼろげな記憶だがわかる。〈そこ〉はあの頃と何一つ変わってはいなかった。
幹久はドアを開け、 外へ一歩踏み出す。
── おかえり。
◆
「 おいおい、まじかよ……」
車を降り、父は動揺しあたりを見回した。
そう、 何一つ変わっていないというのは比喩表現ではなく──
「 ……親父たちが引っ越した頃と全く家が変わってないじゃないか!本当に10年以上空き家だったんかここはぁ?地震だって……っ」
家に入る。 中も埃 一つない、あの頃と同じだ。
思い出す。 家具の配置だって何一つ変わっていない。
父はそんな家の様子を見て、しばらく首を傾げていたが、そのうち「ははぁーん?」 と 幾分下品な笑みを浮かべた。
「 さては親父たち、定期的に家の手入れをしていたんだな。 なるほどなるほど。 確かに俺たちにあんなことを言った手前、それはさぞ内緒にしておきたいことでしょうね」
あんなことって何だよ。
そう思ったけれど、もう幹久は聞かなかった。
父は「何だ何だ」と言いながらソファーにゴロンと寝そべる。そのまままた寝息を立ててしまった。
父はよく寝る。
でも今に限っては寝かされてしまったのだろう。
幹久は全身を汗びっしょりにしながら、震えながら、外靴を履いた。
「行かなきゃ……」
ずっと女の子のことが 、好きになれなかった。
だからと言って、別に男が好きだというわけでもない。
母さんが気が強くてごうつくばりだから、きっと女に幻想抱けないんだろって思っていた。
だが水に溺れかけるたび、幹久はあの山を思い出した。
その恍惚とした思いは、きっと恋に似ていた。
そんなのおかしいと思っていた。思っていた、のに。
── 勝手に足が進んで行く。 どうした、俺。 どうしたんだ俺……っ?
進んだ先に行けば全ての理由がわかるのだろうか? 自分は普通の男として、生きていけるようになるのだろうか?
違う。
自分はそんな 前向きな理由で今 足を進めているわけではない──。
湿った草木の匂いがする。
虫の通る音。 川のせせらぎ音。
全てが幹久を歓迎している。
「……つっ」
ピチャリ、ピチャリ。また足が掴まれる。
幹久は下を見つめる。
視えた! 今度こそ奴が視えた。
奴は…… 茶緑色の、河童だった。 所々苔が生えていて、 濡れた古木のようだ。 ただ 目だけは人間の子供のように、 美しく澄んでいる。
「よぅ! ようやくここまでこれたな」
それで幹久は全てを思い出した。
物心ついた頃からこの山には多くの魑魅魍魎がいた。
幹久はそれが当然のように視えたし、 みんな友達だった。
あの河童もよく遊ぶ友達のうちのひとり。
けれども 一番仲が良かったのは山の神そのものだった。
彼女の声色は優しく心地良い。
姿形は見えなくとも、 幹久は山の神に触れることができた。
目をつぶると、 そよ風が幹久の頬を撫でる。 もっとすごいことだってできた。
──なぁ幹久。お前も怪になって、ずっとわしと一緒におらぬか?
そして山の神もまた、幹久を求めた。
怪となれば、 彼女の姿を視ることもできると。
幹久は迷うことなく頷いた。
「……そうだ、 そうだ俺は……。けれど、川の中にいるところをじいちゃんに見つかって……」
祖父母は恐れおののいた。幹久が山に取り憑かれてしまったと。
そして祖父母は一切の荷物をそのままに、 山を降りた。
その行動は両親から見たら、さぞ常軌を逸したように見えたろう。
「はは……」
──なんだ。全部、全部。俺のせいだったのか。
足首が水に浸かる。
いつのまに幹久は川辺まで歩いていたのか、川の方からやってきたのか。
「 大丈夫だでぇ神様ー。
俺はぁずぅっと見てきたけども、たしかに幹久はあなた様のことを溺れたショックで忘れていましたけどもぉ、だけんどずぅっとずぅっと恋しく思ってただよ」
ペタリ。 茶緑の手が増える。
「 俺はぁこうして幹久が本当にぃ俺たちのことを忘れないように、時々いたずらをしていたんだぁ。
だけどもぅ。
幹久はぁそうするといつも嬉しそうな顔ぉしているんだよ」
「 きっと昔にそうされたことを思い出していたんだなー」
ペタペタ。手が増える。
今度は茶緑ではない、手が──。
川の水が幹久の全身を覆う。
引きずられている。魑魅魍魎達に引きずられているのだ。
幹久は絶叫する。 それが恐怖から来るものなのか歓喜からくるものなのか、自分でも分からない。
── おかえり。おかえり、幹久。
今 、この川の水は羊水なのだ。
この山の神の、羊水。
幹久を、産まれ変わらせるための──。
幹久は変わる。人をならざるものに変わるのだ。
そして山の女神と共に──。
──ああ、 ただいま。これからはずっと一緒だよ。
幹久は瞳を閉じ、体の力を抜いた。
了