山の上の恋
人生には、ときおり「もしも」が立ち止まって待っているような瞬間がある。
この物語は、そんなひと夏の記憶についての話です。
特別な出来事でも、大きな奇跡でもない。けれど、忘れようとしても、心のどこかでずっと息をし続けている。そんな一片の記憶。
誰かと出会い、なにかを選び、そして別れる。
そのすべてが、自分の人生を静かにかたちづくっていく。
夏の午後と、山の風と、チーズケーキの甘い香り。
これは、ある男の、戻れない過去と向き合う短い物語です。
田舎の小さな駅に降り立ったのは、夏の午後だった。電車が走り去ると、あたりには蝉の声と風の音しか残らない。
駅舎は古く、改札もないような場所だった。
牧場のチーズケーキ──世界でいちばん美味いと噂されるそれを求めて、俺は一人、山道を登ろうとしていた。
そのときだった。
ひとりの少女が、駅のベンチに腰かけていた。
金髪の白人女性、まだ十代にも見える。
視線が合った瞬間、彼女はにこりと笑った。
「Hi… Are you going... up?」
うまく聞き取れなかったが、たぶん彼女も、あの牧場を目指しているのだろう。
「Yeah. Let's go together.」
言葉はたどたどしかったが、不思議と通じた。
それから俺たちは、長くて急な山道を登った。
木漏れ日、汗、無言の時間。けれど、何かが確かに芽生えていた。
山頂の牧場は、絵のように美しかった。
そして、あのチーズケーキは、本当に「世界で一番うまい」と思った。
その晩、山小屋の一室で俺たちは結ばれた。
しかし、俺は一度、拒んだ。
「ゴムが、ないから……」
彼女は笑って、首を振った。
「It’s okay. Today... safe.」
終わったあと、俺は聞いた。
「……もし子供ができたら、結婚する?」
彼女はベッドの中で、すぐに答えた。
「No.」
それは、まるで未来など考えていないような、軽やかな「ノー」だった。
そして、数日後。駅で別れた。
彼女は何も言わず、ホームの向こう側から手を振って、電車に乗った。
それっきりだった。
数年が過ぎたある日。
俺は仕事前にテレビをぼんやり見ていた。
旅番組だった。どこかで見覚えのある、あの山頂の牧場が映し出される。
「世界で一番美味いチーズケーキ──」
画面に現れたのは、あのときの少女。
そして、彼女の隣には、金髪の双子の子どもたちがいた。
「ケーキの味が忘れられなくて……気づいたら、ここで働いてたの。」
そう、彼女はカメラに微笑んだ。
そのとき、背中から声がかかった。
「そろそろ出かけないと会社に遅刻しちゃうよ。私はアリスを保育園に連れて行ってから行くからね。」
振り向くと、妻がバッグを肩にかけて、玄関のドアを開けるところだった。
アリス。
あのときの少女と、同じ名前だった。
思わずテレビに目を戻す。
彼女と、双子の笑顔。
遠い、けれど消えない夏の記憶。
俺はそっとリモコンでテレビを消し、立ち上がった。
この人生を選んだことに、後悔はない。
でも、あの山の風の匂いは、今も胸の奥で息をしている。
チーズケーキの味が、あの夏の記憶を呼び覚ますように
ふとした瞬間に、過去は息を吹き返します。
人生は、選んだあとの積み重ねです。
もしあのとき違う道を選んでいたら——
そんな問いは、答えを持たないまま、胸の奥に静かに沈んでいきます。
でも、思い出すことは悪いことではない。
それがあったから、今の自分がここにいるのだと、そう思えるなら。
読んでくださったあなたの中にも、きっと何かの「匂い」が残っていれば嬉しいです。
たとえば、チーズケーキの上に乗った、あの夏の風のような記憶。