08.ポトフと公爵夫人の矜持-01-
すっかり、セシリアはアルフォンスと夜食を食べることに慣れてしまった。
それが良いことなのかどうかはさておき、引きこもりがちだったセシリアが、外に出向く頻度が高くなったことは、良い変化だといえよう。
王都エリオプスの市場には様々な店が並び、賑わっている。
その一角に、セシリアはいた。
「ちょいちょい、こっちの野菜も安いよぉ!」
「……わぁ、じゃあ買っちゃおうかな!」
「ゆっくり見てっておくれ!」
セシリアは、野菜売りの店の前で立ち止まる。店先には、本日の売りであるトマトやナスが山積みにされており、朝露が反射してきらきらと輝いていた。
(旬の野菜を使うのもいいけれど……)
セシリアは先日、ナスのミートソース焼きを作ったばかりである。
頭を悩ませながら、店頭に干してあるハーブやスパイスを意味もなく眺める。
「セシリア様ぁ! こっちの肉も見ていっておくれよ!」
「ちょっと、おばさま! 名前呼ばないで! 声が大きいです!」
セシリアは、辺りをきょろきょろを見渡し、ローブを被り直した。
アルフォンスに夜食を作るようになってからというもの、毎日のように市場に通っている。そのため、セシリアは市場の店主たちの間では、ちょっとした有名人だった。
初めて市場に足を運んだときは、なるべく目立たないように努めたが、鋭い店主たちはすぐに彼女が「グレイブ公爵夫人」だと気づいた。それからは、隠すのをやめ、店主たちとフランクに話すようになった。
ウィンターズ領は、領主と領民との距離が近い。セシリアにとって、町の人々と親しくなるなんて、朝飯前なのである。
「いやぁ、セシリア様が来てくれると嬉しくって、つい大声になっちゃうのよ」
「こんなに可愛くて美人なセシリア様と婚約破棄するなんて、ユリウス様は本当にバカだよなぁ」
「おじさま、そんなこと言っても、今日はイモとニンジンしか買いませんからね?」
手に取ったイモをじっくり見つめながら、セシリアはかつての生活を思い出していた。栄養の少ない土でも育つイモ。1年前までは、屋敷の外の寂れた畑でこのイモを育てていたものだ。
(旦那様は、イモなんて食べたことないだろうな……『これは何だ?』って聞かれそう)
無言でイモをもぐもぐ食べるアルフォンスの姿が浮かび、セシリアは思わず笑みをこぼす。冷酷無慈悲だと外で噂される彼が、田舎料理を好むとは誰も知らない。そんな可愛らしい一面を知っているのは、自分だけだと思うと、セシリアの心に小さな優越感が広がる。
「セシリア様、今日はご機嫌ですね?」
にやりと笑うのは、肉屋の店主だ。彼女は身を乗り出しながら意味ありげに言葉を続ける。
「何か良いことでも?……公爵様と?」
「そ、そんなことないです!」
思った以上に大きな声が出てしまい、声が裏返ったセシリアは慌てて口元を押さえるが、もう遅い。
店主たちは商売人だ。客の一挙一動を見逃さない。
「おやおやぁ、セシリア様、怪しいじゃないか」
「公爵様とうまくいってるのか!」
(あと1か月と経たずに『白い結婚』を理由に離婚します……!)
そんなことは、口が裂けても言えるわけがない。セシリアは困った顔をしながら、買い物を済ませる。イモ、ニンジン、ホウレンソウにブロッコリー、さらには鶏肉だけ買うつもりだったのに牛肉まで買ってしまった。
完全に動揺して買い過ぎた。笑顔の店主たちは「ありがとうございました!」と手を振るだけだ。
(この商売上手が!)
心の中で賞賛と毒を吐きながらも、セシリアはご機嫌で買い物を終えた。
そうして、セシリアが籠を持ち直し、市場を後にしようとした時だった。
聞き覚えのある声が、彼女の耳に飛び込んできた。
「やあ、セシリア、久々じゃないか」
その、少し傲慢そうな、自信に満ち溢れた声の主は。
「ユリウス卿、お久しゅうございます」
セシリアの前に立っていたのは、元婚約者のユリウス・フォーンであった。
今日は地方の男爵家の集まりがあるらしい、とマリーが言っていた気がする。それで王都に滞在しているのだろう。
ユリウスと会うのは、ほぼ1年ぶりだ。風の噂で、司法官の試験に受かったとは聞いていたが、その態度や見た目は、婚約破棄を告げられたあの日から何ひとつ変わっていなかった。
もちろん、悪い意味で、である。
唯一変わったことがあるとすれば、彼の横に恋人であるアリアがいないことだろうか。
セシリアが、疑問に思っていると勘付いたのだろうか。先手を打つようにユリウスは言った。
「あの女とは別れた! 振ってやったんだこっちから!」
「あー……」
振られたんだな、とセシリアはすぐに察した。
ユリウスは、見た目は悪くないし、婚約していた頃も、そこそこモテていた。その分性格に圧倒的に難ありなせいで、まあ、お察しである。
だが、それを深く突っ込むほど、セシリアも野暮な人間ではない。
「たまたまそこを通りかかったら、お前の声が聞こえてな」
「そうですか」
ユリウスとは対照的に、セシリアの表情は暗い。できれば、こんな市場で目立ちたくないのである。
噂好きのエリオプスの人間は、すぐに彼がユリウス・フォーンだと気が付くだろう。それならば、相手は一体……?と次はセシリアが注目を浴びてしまう。
セシリアは、フードを深く被りなおした。
「お前が殺されていないようで安心したよ。セシリア」
「はい?」
唐突な彼の言葉に、セシリアは首を傾げた。
「契約結婚なんだろう? だって、公爵とお前に繋がりなんてなかっただろうが」
そう言って、ユリウスは右手を差し出す。
「お前は顔が可愛いから。きっと社交界に戻ってくればさぞ映えるだろう。綺麗なドレスを買ってやる。持参金もたっぷり用意しよう」
「…………」
「僕は、この前司法官の試験に通ったんだ。……公爵は冷酷無慈悲だと聞く。僕は、離婚歴は気にしないぞ」
(ああ、なんで、私は)
こんな人のために、精神をすり減らしていたのだろうか。彼は、セシリアの見た目や肩書きしか興味が無いのだ。
彼の主語はいつも、『僕』だ。自分のことしか考えていない。
「……なあ、僕のところに戻ってこないか?」
きっと、ユリウスの中でセシリアは『惨めな貧乏伯爵令嬢』のまま、時が止まっているのだろう。愚かな人間だ、とセシリアは思う。
でも、そんなことよりも。
「……旦那様は、冷酷無慈悲ではありません」
自分が舐められていることよりも、ずっと。馬鹿にされることよりも、ずっと、ずっと、ずっと。
アルフォンスを悪く言われたことに腹が立った。
(私が、彼の何を知っているっていうの。11か月間、まともに会ったことすら無かったくせに)
たった数週間。セシリアの作った料理を分け合っただけの仲だ。
アルフォンスからすれば、セシリアの弁明なんて不要だろうと思う。それでも、セシリアは腹の底から湧いてくるこの感情を抑えることができなかった。
「盗賊を差し向けて、家族を皆殺しにした男だ。お前も殺され────」
「うるさい!」
「……!?」
突然のセシリアの怒号に、ユリウスは肩を揺らした。
甘い、と言われればそれまでかもしれない。お人好しだ、と笑われるかもしれない。何様のつもりだ、と怒られるかもしれない。
それでも、セシリアは自分の中に芽生えたこの思いを目の前の男にぶつけたかった。
「───旦那様は、とっても優しくて、とっても強い、素敵な方ですから! 貴方なんかよりもずっと!ずうっと!」
その大声とともに、フードがはらりと落ち、いつの間にかセシリアの艶やかな水色の髪が露わになる。それに伴って、周囲の人間が騒めきだした。
ああ、しまった、とセシリアは思う。
目立つつもりは無かったのに。
注目を浴びてしまったのならば、仕方がない。
セシリアは、なるべく優雅に一礼をして、ユリウスの目を見つめる。強く、強く、まるでアルフォンスの瞳のように。ユリウスの瞳を射抜いた。
「ユリウス卿、先ほどはご冗談が少し過ぎたのではないでしょうか」
「……!」
ユリウスという男は、そこでやっと自分の立場に気が付いたらしい。びくり、と肩を跳ね上げ、その場で固まってしまった。
その目は、セシリアの気迫に押されて怯えているように揺れている。
よく見れば、手が震えているではないか。
(そんなに怯えるなら、最初から何も言わなければいいのに)
言いたいことは沢山あった。だが、ユリウスに恥をかかせすぎるのも、はしたないことである。
セシリアは大きく息を吸う。そして、なるべく凛とした声で言った。
「貴方は、男爵の令息。私は公爵夫人です。お忘れなきよう。それでは、失礼いたします」
アルフォンスの顔に泥を塗らないように。素敵な奥方を迎えましたね、と言ってもらえるように。
仮に、それがあと1か月間のことだとしても、彼に迷惑はかけられない。
最後に、小声でささやく。
「警告はいたしました。それでは」
手に籠を持ったまま、セシリアはその場を後にした。
市場のおばさまとおじさまは、『セシリア様、かっこいい!』と叫んでいる。周囲の人々も、セシリアを見直したかのような目で見つめてくる。
けれど。
(やめて、お願い。私、全然かっこよくなんてなかった……!)
セシリアの瞳からは、うっかりすれば涙が零れてしまいそうだった。
悔しかった。
自分がアルフォンスのことを知らないばかりに、ろくな反論もできなかったことが。
本当は、ユリウスに言い返したかった。
アルフォンスの素敵なところをひとつずつ挙げて、納得させたかった。
(旦那様は、こんなにすごい人なんだって)
セシリアはフードを被り直して、早足で立ち去る。
護衛もつけずに、1人で抜け出してきたのだ。昼間だし、エリオプスは治安が良いとはいえ、あまりに目立ち過ぎた。
早めに帰るに越したことはない。
と、ほぼ走るような恰好のセシリアの目の前に、黒いものが立ちふさがる。
「う……わ、失礼いたしました……?」
ぶつかりそうになって慌てて立ち止まる。よく見れば、それは黒い軍服だった。
そう。いつも見ている騎士団のものである。なんだか嫌な予感がセシリアの頭をよぎった。
(そうよ。そうそう。こんなちょうどいいタイミングで旦那様が現れるわけないじゃない!)
だが、事実は小説よりも奇なりとは、こういう時に使う言葉なのだろうか、と思った。
セシリアが見上げれば────それはもう、凄い顔をしたアルフォンスがいた。
「……おま、え」
羞恥と困惑、そして少しの嬉しさをごちゃ混ぜにしたような不思議な表情だった。その顔にセシリアは見覚えがあった。
弟の剣術大会にてセシリアが大声で応援した時、あるいは、妹のくれたプレゼントを領民に自慢して回った時、その時の彼らの表情といったら。
「だ、旦那様……」
「お、ま、え、はっ!」
肩を掴まれる。そして、目線を合わせるために彼は少しかがみ、ぐっと顔を近づける。
彼の赤く染まった頬が、さらに赤くなる。
震えるようにして、アルフォンスは声を絞り出した。
「お、俺のために、ああいう危険な真似をする必要はない!」
怒られている、のだろうか。
心配されている、のだろうか。
なんで、そんな表情をするのだろうか。
セシリアも困惑して、言葉を紡ぐことができない。2人の間に沈黙が落ちた。
行き交う人々の騒めきだけが、2人の空間を満たしていった。
「い、言い方が……悪かった」
沈黙を破ったのは、アルフォンスだった。彼は大きく息を吐き、再び口を開いた。まるで、重大な告白をするみたいに、少しもごもごとしながら言葉を続ける。
「……ありがとう。俺を、庇ってくれて、その、嬉しかった」
セシリアは、胸の奥がじわじわと熱くなっていく。
(私はユリウスに上手く言い返すことができなかったのに。それなのに、お礼を、言われるなんて……)
その言葉に驚いたのは、セシリアだけではない。周囲の行き交う人々もまた同様だった。
『あのアルフォンス・グレイブが礼を言っている。しかも、お飾りだと噂の妻に』と。
セシリアは、これ以上目立つのは耐えられなかった。
「旦那様、もうお仕事は終わりなのですか」
「まあ、このまま直帰しても問題はないが」
放っておくと、勝手に仕事をする彼のことだ。一旦、騎士団本部になんて戻らせるわけにはいかない。……というのは、その場を立ち去りたいセシリアの言い訳かもしれない。
「じゃあ、帰りましょうか。家に」
セシリアとアルフォンスは、並んで歩いた。今更隠しても仕方がないから、もう、フードは取った。
だから、視界の斜め上には、アルフォンスの金髪がちらちらと映る。
(どうして?)
セシリアは、街ゆく人を見ながら考える。
どうして、この人は優しくするのだろう。
どうして、自分は彼のことを庇いたくなってしまうのだろう。
(胸に溢れてくる、泣いてしまいそうな、この感情は、なに?)
家に着くまで、ついぞ、その答えは出なかった。