06.忘れ物をお届けに上がります-01-
その日のセシリアの目覚ましは、朝日ではなく、マリーのやかましい声だった。彼女の高い声は頭によく響く。
マリーには申し訳ないが、最悪の目覚めだった。
「奥様、奥様!」
セシリアの寝室の時計は、まだ5時を指している。外には、白い月が浮かび、まだ薄ぼんやりとしているではないか。
白目をむきそうになりながら、セシリアは起き上がる。
「おはよう、マリー……どうしたの?」
「それが……」
マリーは、おずおずと薄い封筒を差し出した。寝ぼけ眼をこすりながらみれば、それは騎士団の紋章が入った『いかにも重要そうな封筒』であった。
なぜ、そんなものをマリーが持っているのか、と彼女を見上げる。
「旦那様がお忘れになったものです。私が今朝お見送りをしたはずなのに、気が付かず……申し訳ございません」
マリーは申し訳なさそうに眉を下げた。
(ああ、執事のクルトがお休みだからか……)
普段は、クルトがアルフォンスを見送っているため、忘れ物などさせるはずがない。しかしながら、有能な執事は、ここ数日休んでいた。巷で風邪が流行しているからである。数日間拗らせる厄介なものであるため、使用人の数もここ数日は少なかった。
先日のアルフォンスの風邪も同じものだろうと思うが、一日で復活した彼は、やはり化け物である。
「いちメイドが騎士団本部に乗り込むわけにもいかず……」
「そうねぇ……」
起きたばかりの頭で、セシリアはぼんやりと考えた。
騎士団本部は、王城に隣接しており、身分の証明しようがない使用人は、基本的に中に入ることさえ叶わない。忘れ物を届けにいくとしても、執事クラスでないと難しい。それ以外となると──
「……つまり、そういうこと?」
「そういうことです、奥様」
きゅぴん、と暗号のように視線を交わす。
これは、公爵夫人として、初めての仕事かもしれない、とセシリアは思った。
◇
王都エリオプスは、大陸の都市の中で一番と言って良いほど治安が良く、貴族の女性が独り歩きすることもそこまで珍しいことではない。だが、セシリアはローブを被って、目立たないようにしていた。
早朝とはいえ、そこそこ人通りは多いのだ。
(ごめんね、マリー。せっかく綺麗に仕上げてくれたのに)
長い髪には、花の香りのするオイルを付け、三つ編みにして、後ろできっちりと纏めてくれた。どこから用意したのか、大きなリボンまで結っている。
『せっかく可愛く仕上げたのに、隠してしまわれるんですか!』と言われてしまったが、仕方がない。セシリアの淡い水色の髪は、どうしても街中では目立つのだ。
石畳の道を歩いて20分ほど。騎士団本部がやっと見えてきた。馬車で来るにしては、仰々しすぎる距離である。
セシリアは、足を止めて建物を見上げた。
堂々とそびえ立っている石造りの建物は、色あせながらも、ずっしりとした威厳を感じさせるものである。正面の大扉は、黒い鉄で縁取りされた木製の分厚いもので、その上には騎士団の紋章が大きく彫り込まれていた。
「……こんにちは。私、騎士団長アルフォンス・グレイブが妻。セシリア・グレイブでございます。彼に届け物がございまして」
セシリアはフードを取って、堂々とした姿勢を保ち、落ち着いた声で門番の騎士にそう言った。
だが、門番の騎士は、なぜか口をパクパクと開け閉めしている。彼の視線は宙を泳ぎ、なぜか周囲を慌ただしく見回していた。
「え、やば……え、中にどうぞ……」
彼は完全に動揺していた。セシリアは、封筒を差し出しながら告げる。
「あの、こちらをお渡ししていただければ、私はもう帰りますので……」
「いえ、そんなことしたら、大変なことになるんで、俺が! さあ、どうぞ!」
その言葉と共に、セシリアは半ば強引に中へ押し込まれる形となった。大扉を通り抜けると、石畳が敷き詰められた中庭が広がり、黒い制服に身を包んだ騎士たちが行き交っている。
だが、セシリアが現れた瞬間、騎士たちの動きはぴたりと止まり、驚いたように一斉にこちらを見た。
「だ、だ、団長の……」
門番が震える声で呟く。その言葉にセシリアは何を言われるのかと身構えたが──
「団長の奥さん、めっちゃ可愛い! うぉおお、ちょっとお前ら、来てみろって!」
(……えっ?)
拍子抜けした。張り詰めていた緊張の糸が、突然ぷつりと切れてしまった気分だ。
何が起こったのかわからないセシリアは、目を見開き、呆然と立ち尽くす。
騎士たちは、彼女を取り囲むように集まり始め、口々に騒ぎ立てる。
「え、マジ? うお、はじめて見た!」
「馬鹿、お前、不敬だぞ」
「不敬罪とか、今の世の中あってないようなもんじゃん!」
「ちゃんと、目に焼き付けとけ!」
ものすごい盛り上がりようである。その場がちょっとしたお祭りのような雰囲気になる中、セシリアは封筒をぎゅっと胸に抱きしめた。
騒がしさに圧倒されるが、負けじと彼女は勇気を出して声を上げる。
「あ、あのぉ……!」
だが、その声は騎士たちの盛り上がりに完全にかき消されてしまった。セシリアは決して人見知りではないが、今の状況では彼らの勢いに圧倒されるばかりだった。
それにしても、周りのテンションが異常に高い。騎士団員たちの騒ぎは次第にエスカレートし、彼女はその中で完全に埋もれてしまっていた。
そんな時、低く響く声が耳に届いた。
「お前ら、何事だ……って」
その声の主が現れると、周囲の騎士たちは一瞬で静まり返った。
人波をかき分けるように現れたのは、ひときわ背が高く、端正な顔立ちの男、騎士団長──アルフォンスだった。
早朝であるため、まだ制服は血まみれになっていない。金髪と漆黒の制服のコントラストが彼の美しさを一層引き立てている。
「おはようございます、旦那様」
アルフォンスの切れ長の瞳が一瞬驚きに見開かれる。ぱっちりとした二重が露わになり、そのままセシリアに視線を定めた。
「……な、なんで、いる」
その問いかけに、セシリアは少し戸惑いながらも封筒を差し出した。
「わ、忘れ物をお届けに参りました。本日、執事がおやすみでしたので……」
アルフォンスは封筒を手に取ると、表情を少し緩め、「ああ」と納得したように頷いた。
「わざわざ届けなくてもよかったのに。屋敷に忘れたと思って、今し方、同じものを作ったんだが……」
(同じものを作るって……一体どういうこと?)
セシリアは呆然としながらも、この旦那様なら書類の一字一句を覚えていても不思議ではない、と納得するしかなかった。彼の生態は、もはや人間の常識の範疇を超えている。
「それでは、失礼いたしま──」
「……なあ」
唐突に、セシリアの手首を掴んだのは、アルフォンスだった。その瞬間、彼の指先から伝わる熱がじんわりと彼女の肌に染み込んだ。彼はじっとセシリアの顔を見つめ、顔を少し赤くしたかと思うと、すぐに目を逸らす。
「来い」
「え、ちょっと、旦那、さま……!」
セシリアは驚きつつも、彼に引き寄せられるままに歩き出した。