05.トマトリゾットと甘えん坊の旦那様
セシリアがアルフォンスのために夜食を作り始めてから、1週間が経っただろうか。
遠征が終わった彼だが、相変わらず忙しそうである。
早朝から出ていったかと思うと、戻ってくるのは深夜。そして、一緒に居間で、夜食を食べ、彼は寝室へ。
普通の人間ならば、いつ倒れてもおかしくない生活である、とセシリアは思っていた。
そして、その日。
朝から屋敷が騒がしかった。
「なんだか今日は騒がしいのね?」
セシリアが話しかけたのは、メイドのマリーだった。彼女はシーツを抱えたまま、眉を下げて言った。
「公爵様が、熱を出されて……」
(アルフォンス・グレイブも熱を出すのか……)
セシリアは驚きのあまり固まってしまった。
けれども、しばしして、彼女はアルフォンスも人間であることを思い出した。
ならば、当然である。
どう考えても、彼の生活は、人間のそれではない。
「食欲もないようで、シュミットさんの料理も召し上がられなくて」
「あぁ……」
こだわりの強い料理長、シュミットの顔が頭に浮かんでくる。当然、彼の料理は美味しいのだが、いつだって彼の料理はフルコースなのだ。
一度セシリアが風邪を引いた時も、高級食材をふんだんに使ったフルコースを提供してきて、絶望したことを思い出した。
「まあ、それは食べたくならないかも……」
「はい、全くです……」
マリーも同意見なのか、複雑そうな顔をした。職人というのは、得てして変人であるものなのかもしれない。
「台所を借りても?」
「料理長は外に出られているので、大丈夫だと思いますよ」
マリーはトントンとセシリアの肩を叩くとウインクした。
「いつもの、ですか、奥様」
「そう、いつものよ、マリー」
暗号を伝えるかのように視線が交わる。
夜食を作ることを知っているのも、また、マリーだけであった。
◇
「旦那様、おはようございます」
「……お前か」
驚いたことに、アルフォンスはベッドではなく、ソファに腰掛けて書類に目を通していた。顔は少し赤く、目も充血している。
こんな時まで仕事をすることはないだろう。
「お前の帳簿、見させてもらった。別に、仕事なんてしなくてもいいと言っただろう」
彼が見ていたのは、彼の不在中にセシリアが付けた屋敷の帳簿である。とはいっても、執事に教えてもらいながら、独学で付けたものだ。
しかも、先日アフタヌーンティーを食べて放り出した箇所もばっちりとチェックされているではないか。
「あの、あまり、見ないでください。独学で付けたものなので……」
「は、これ、独学なのか」
驚いたように、アルフォンスが言う。そうして、まじまじとノートを見ながら、感心した様子で言った。
「お前はもったいないな。頭が良いのに。学校には通わないのか?」
その言葉に、セシリアはぐっと詰まった。
セシリアだって、学校に通いたいと思ったことは幾度となくある。だが、自分の家のことで奔走しているうちに、すっかり大人になってしまった。
両親は、好きに生きろというけれど、そういう訳にもいかない。それが、長女だ。
(頭がいいのに、なんて……)
けれど、アルフォンスに褒められると、少しだけ嬉しい気持ちになる。心がぽかぽかとして、頬が緩んでいく。
じんわりと染みていく言葉を噛みしめていたセシリアは、ハッとした。
彼女がここに来たのは、別に彼から褒めてもらうためではない。
彼に告げる。
「もう、ベッドに横になった方がよろしいのではないですか」
「は? 別に大丈夫だこれくらいの風邪。そもそも、俺はベッドで寝たことがない」
衝撃だった。ベッド以外どこで寝るというのか。
口をあんぐりと開けたまま、セシリアは彼に問うた。
「は! 普段はどこで寝てらっしゃるんですか」
「大体は、椅子で仮眠だ。寝ないこともある」
セシリアは呆れた。
公爵ともあろう人間が、自身の健康管理もできなくてどうするのか。
セシリアは彼を引っ張った。熱があるからなのか、特に抵抗されることもなく、ベッドに座らせることができた。
いつもとは違い、柔らかい素材のシャツを纏っている彼は、少しだけ幼く見える。
「いいですか。健康は十分な睡眠と食事からです。ベッドで寝ないとご飯抜きですよ」
「子ども扱いか」
「ご、は、ん、抜きですよ」
「…………」
不服そうな顔をしながらも、アルフォンスはベッドに潜り込んだ。
そして、セシリアの持っている皿をじっと見つめた。結局、食欲には勝てなかったということだろう。
「トマトの匂いがする」
「ええ、今日はトマトリゾットです。ちょっとだけチーズも入れました」
「……そうか」
アルフォンスの目は宝石のように輝いている。もっと美味しいものなんて世の中に沢山転がっているだろうに、セシリアの手料理を求めてくるのは、むず痒い。
しかし、同時に嬉しくもあるのだ。彼を見ていると、領地に残してきた下の子たちを思い出す。……なんて言ったら、怒られるだろうが。
セシリアは、リゾットをひと掬いして、ふーっと息を吹きかけた。そして、それを差し出した。
「どうぞ」
しかし、いつまで経っても、そのリゾットは食べられない。
セシリアがアルフォンスを見れば、彼は顔を真っ赤にして、こちらのことを睨みつけていた。
「……こ、子ども扱いか」
彼がそう言った瞬間、セシリアは自分がとんでもないことをしていることに気が付いた。
彼は決して、セシリアの弟ではない。公爵家当主、アルフォンス・グレイブ様である。
「はっ、失礼いたしました……!」
「いや、いい」
彼は、サラサラと流れる金色の髪を耳に掛けた。
そうして。相変わらず、セシリアから目線は逸らしたまま。
スプーンにかぷり、と食らいつく。そして、美味しそうに目を細めた。
「お前の料理は……ほっとする」
ぐらり、と心が動く音がした。
(不法侵入したご令嬢の気持ちが100分の1くらいわかった気がする……!)
セシリアは同じようにして、アルフォンスにスプーンを向けた。
2口目、3口目、4口目。彼は、ぱくぱくと食べ進めていく。
マリーの『食欲がない』と言った言葉が嘘かのようにトマトリゾットはあっという間に彼の口に吸い込まれていった。
「ああ、美味しかった」
お腹いっぱいになったからだろう。彼は横になって、目を閉じた。
ふさふさとしたまつ毛である。セシリアは、最近抜け始めている自分のまつ毛を思い、心の中で舌打ちをしておいた。
ふと、窓を見ると、しっとりと濡れている。
(そういえば、今日は天気が悪いんだ)
ぱらぱら、と水の音が聞こえだす。どうやら、雨が降り始めたらしい。今日は、外出は控えた方が良さそうだ。
食べ終わったスプーンをリゾットの入っていた皿の中に入れる。彼も寝たことだし、食器を洗って自室で読書でもするか、とベッドサイドの椅子から立ち上がった。
と、セシリアの手首がそっと掴まれた。驚いて、アルフォンスの方を見つめる。
彼は、不安げに唇を震わせていた。
「……少しだけでいい、ここにいてくれ」
雨音に消えてしまいそうなくらいの、か細い声だった。
とても騎士団長から投げかけられたとは思えない。
(こんな不安げな声を出すんだ……)
少しだけ困惑したけれど、セシリアは再び椅子に座った。
「何かお話しましょうか」
「俺は子どもじゃない」
彼は一瞬顔をしかめ、体を震わせて咳き込んだ。
それが収まると、顔をゆっくりと上げ、困ったような顔をして笑った。
「……俺は、寝るのが怖いんだ」
小さな声だった。ぽつり、と零したその声はすぐに雨音によって掻き消えた。
窓に打ち付ける雨の音が少しだけ強くなったのだ。まるで、彼の不安を代弁しているかのように、パラパラと雨音が響く。
「笑えるだろう」
アルフォンスは、苦笑いを浮かべて、ふうと息を吐く。
布団を握る手は、無意識のうちに力が入っているのか、指先がわずかに震えている。その震えが、風邪からくるものではないことくらいわかった。
セシリアは、ためらいながらも、彼に一歩近寄った。静かに手を伸ばすと、彼の前髪にそっと触れる。汗で少しだけ湿った前髪をゆっくりと撫でた。
セシリアのその行動に、アルフォンスは体をびくつかせた。
アルフォンスは、瞳をぱっちりと開いた後、いつもの悪い目つきに戻る。
「……子ども扱いか?」
「違います。旦那様扱い、でしょうか」
そう言うと、アルフォンスの表情がわずかに緩んだ。彼は再び、目を閉じた。
だから、セシリアも再び彼の前髪を撫でる。彼の中に渦巻く不安を取り除くように。
前髪を撫で続けていると、アルフォンスの唇は再びゆっくりと動き出す。途切れ途切れの声で、悪夢の中から言葉すくい上げるように告げる。
「……俺が寝ている間に、大切な人たちは死んだ」
「……!」
その言葉に、セシリアは息を飲んだ。
彼が言ったのは、貴族の間ではまことしやかにささやかれている、3年前の事件の話だろう、と思う。
彼が若くして当主になったのには、理由があった。
グレイブ家は、別荘に宿泊した際に強盗に押し入られた。
アルフォンス以外の家族────父、母、長男と使用人が全員殺された、という凄惨な事件は、田舎住まいのセシリアの耳にも入ってきていた。もちろん、『黒幕はアルフォンスである』という情報付きで。
その事件の後、彼は14歳で当主になった。
アルフォンスは、そこで押し黙ってしまった。
大切な人とは、家族のことだ、というわけでもなく。やったのは自分じゃないと弁明するわけでもなく。
ただ、悪夢に苦しんだ際の寝言を零すかのように、そう言っただけだ。
彼ならば演技の一つくらいできそうだが、その可能性は切り捨てた。
(だって、『白い結婚』の私に嘘を吐く必要なんてないもの)
セシリアには、彼の良い噂を広めるための人脈も、人を従わせる権力も無い。だからこそ、彼は心のうちを少しだけ吐露してくれたのかもしれないが。
「大丈夫です。貴方がもし目覚めたら、また何か作って持ってきます。だから、今は……ゆっくりとおやすみください」
彼は、何も言わなかった。その代わりに、セシリアの手を取る。そして、それを自身の頬に寄せた。
アルフォンスは、気持ちよさそうに目を瞑った。安心した子どものように、セシリアの温もりを確かめるように何度も頬に擦りつけた。
(えっ、えっ、これは……)
セシリアは驚きのあまり声が出なかった。
いつもの冷静な態度は嘘のように、今の彼は、どこか無防備で。子ども、というより、もはや猫だった。肌の温もりを求めるその行動に、セシリアは何とも言えない気持ちになった。
同情とは違う。それでも、彼の手を振り払うことはできなかった。
アルフォンスの抱え込んできた孤独や不安が、セシリアの手を介して伝わってくるようだったから。
しばらくの間、セシリアはアルフォンスにされるがままになっていた。
それから、しばらく経ってだろうか。
ふと、彼の様子を見たセシリアは目を見張った。
(え、寝てる……!)
すうすうと、穏やかな寝息を立てて。
いつもは不機嫌そうな彼が、気持ちよさそうに寝始めた。
17歳なのに、セシリアよりもずっと大人に見える彼は、もしかすると『大人にならざるを得なかった』だけのかもしれない。
「ずっと苦しかったんですね。もう少しだけ、貴方のことを早く知りたかったです。旦那様」
本人が起きている時には、口が裂けても言えないその言葉は、雨音に吸い込まれていった。
セシリアは、再び、彼の前髪をゆっくりと撫でる。強いように見えて、繊細な彼が、これ以上傷つくことがないように。祈りを込めて。




