番外編:幸せのオニオングラタンスープ(コミカライズ1巻発売記念)
コミカライズ発売記念の番外編です!
時間軸は結婚式後で、最終話からそのままお読みいただけます。
「グレイブ公爵夫人、こちらのレポート再提出です」
(がーん)
大学の研究室。書類を突き返してきた教授に、セシリアは思わず目を見開いた。
「内容は悪くない。ですが、引用文献の精査が甘い。グレイブ公爵夫人の名で提出するレポートですよ。もう少し、責任を持って書きなさい」
「は、はい……申し訳ございません」
教授からレポートを受け取って、セシリアは肩を落とした。
今回の課題は、『地方領地における小作料制度の変遷について』というもの。セシリアの実家であるウィンターズ伯爵家のような、地方の貧乏領地にとっては、まさに切実な問題である。
(うう……ちゃんと書いたつもりだったんだけどなぁ……)
ぱらぱらと、赤ペンで書き込まれたレポートを捲る。確かに、参考文献を読み込む時間が足りなかった部分があった。期限に追われて、つい急いでしまったのだ。
ずっと、学校で勉強してみたかった。アルフォンスがそんなセシリアの背を押してくれて、ようやく叶った夢である。
(公爵夫人が大学に通うなんて、ただでさえ目立っているんだから……しっかりしないと)
頬を、ぱしんと叩いた。アルフォンスの顔に泥を塗るような真似だけは、絶対にしたくない。
ただでさえ、最近は社交もお任せしてしまい、彼にはずいぶん迷惑をかけているのだ。
◇
屋敷に帰り着いたのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
書斎の机に教科書とレポートを広げ、ペンを握って、セシリアは黙々と作業を進めた。インクの匂いと、ランプの油が燃える音だけが、部屋を満たしていく。
時計の針が、十一時、十二時、と進んでいく。ふと気が付けば、すっかり日付が変わっていた。
(あれ……アルフォンス様、まだ、帰ってこない……?)
結婚式を挙げてからというもの仕事量をセーブしていたアルフォンスだが、最近の騎士団は隣国との合同演習があり、深夜まで業務に追われている。一方のセシリアも、課題に追われて深夜まで机に向かう日々。
二人は、すれ違い続けていた。
(……ぜんぜん、お話しできてないなぁ)
じわり、と寂しさが胸の奥に滲む。
夜食を作るのも、ここのところ、すっかりご無沙汰になっている。深夜の居間で、二人並んでもぐもぐと夜食を食べた日々が、まるで遠い昔のことのように感じられた。
(私、夜食作るの、好きだったのに……)
コンコンと書斎をノックする音がしたのは、深夜の一時を回った頃だった。
「……まだ起きていたのか」
「あっ、おかえりなさい、アルフォンス様」
「ああ、おはよう」
「ふふ、こんばんは、ですよ?」
「騎士団は、いつだって『おはよう』だ。夜勤の奴もいるからな」
そう言いながら、アルフォンスは机の傍に歩み寄ってくる。セシリアの広げた書類を覗き込んだ。
「レポートか」
「はい。教授に再提出を喰らっちゃって……」
「どれだ」
アルフォンスは、当然のようにセシリアの隣の椅子を引いた。コトリ、と椅子の脚が床を擦る音がする。
「えっと、小作料制度の論文なんですけど……」
「なるほど」
じっとレポートに目を落とすアルフォンス。エメラルドの瞳は、まっすぐに文字を追っている。長い睫毛がランプの灯りに照らされて、頬に美しい影が落ちる。
(うう……近い……)
セシリアは、頬がじわじわと熱くなるのを感じた。
並んで座っていると、アルフォンスの肩がすぐ隣にある。微かに鉄と汗の匂いがして。それが今日も訓練を頑張ってきた証なのだと、なんだか愛おしく思える。
「ここは、グルマンの著作よりも、後年のフィッツの論文を引いた方がいい。フィッツは、グルマンが見落としていた小作人側の視点を取り入れている。お前の論旨だと、フィッツの方が筋が通る」
「……ええっ、アルフォンス様、なんでそんなこと知ってるんですか?」
驚いたセシリアに、アルフォンスはしれっと答えた。
「俺は公爵家を継ぐ時に、領地経営の本はひととおり読んでいる」
(……うわぁ)
セシリアは、思わずアルフォンスから身を引いた。
(この人、何でも出来過ぎじゃない……? もはや、怖い!)
一体、多忙の彼にいつ本を読む時間があったというのだろうか。もはや、アルフォンスが三人に分裂していないと説明がつかない。
ペンを持って、すらすらと参考になる論文のタイトルを書き出していくアルフォンスを、セシリアはちょっと遠い目で見つめた。
「ほら、これを読んでみろ」
「は、はい……!」
差し出された紙には、几帳面な字で論文のタイトルがいくつも並んでいた。
(……すごい。本当に、すごい)
ドン引きの後にやってきたのは、じわじわとした感慨だった。
誇らしい、好きだ、頼もしい、もっと一緒にいたい――いろんな感情がぐるぐると胸の中で渦を巻く。最近、こうして並んで座る時間さえも、ほとんど取れていなかったのだと改めて思い知らされた。
「……アルフォンス様」
「ん」
「最近、夜食も作れず申し訳ございません」
ぽつりとこぼれた言葉に、アルフォンスはペンを止めた。
「なぜ謝る」
「だって、アルフォンス様とゆっくりお話しできる時間だったから」
言いながら、セシリアは目を伏せた。
(うう……我儘だってわかってるのに……)
セシリアはぐっと唇を噛んだ。
アルフォンスは少しの間、黙ってセシリアを見つめていた。それから、ふと立ち上がって書斎の扉に手をかけた。
「ちょっと待っていろ」
「えっ、あ、はい……?」
扉が閉まる音がして、セシリアはぽかんとした。
(……どうしたんだろう?)
残されたセシリアが、ぼんやりとペンを握ったままレポートに向き合っていると、扉の隙間から、ふわり、と何かが漂ってきた。
(あれ……? なんだか、いい匂い……)
甘く香ばしく、温かい匂い。バターと玉ねぎの優しい香り。
セシリアの腹の虫が、ぐうと鳴いた。
続いて、扉がコンコンとノックされる。
「セシリア、入るぞ」
「は、はい、どうぞ……?」
扉の向こうから現れたのは、エプロンをつけたアルフォンスだった。手に持った銀のトレイには湯気の立つ陶器の器が載せられていた。
「できた」
「これって……?」
トレイから漂う、たまらない香り。
とろりと溶けたチーズが、こんがりと焼き目をつけて器の縁に垂れている。その下からは飴色に煮込まれた玉ねぎが顔を覗かせ、まるで宝石箱を開けたかのように、ふつふつと湯気を立てている。
「オニオングラタンスープじゃないですか!」
「ああ」
差し出された器の乗った皿をセシリアは両手で受け取った。ずっしりと重い。
「でも、玉ねぎって飴色になるまで……すごく、時間がかかりますよね?」
セシリアの問いに、アルフォンスは、ふい、と目を逸らした。耳がほんのりと赤い。
「……夕方に玉ねぎだけ、炒めておいた」
「えっ……」
「ここのところ、お前が疲れているように見えたから」
セシリアは、息を呑んだ。
(じゃあ、私に作ろうと思って、わざわざ用意してくれてたってこと……?)
演習で疲れているはずなのに空き時間にわざわざ厨房に立ち寄って、玉ねぎを飴色になるまで炒めてくれていたのだろうか。
胸の奥が、じんと熱くなった。
「召し上がれ」
「……いただきます」
スプーンを差し入れれば、ぷつり、とチーズの膜が破れて、奥から琥珀色のスープが顔を出した。とろりと垂れるチーズが、また食欲をそそる。
ふー、ふー、と冷まして口の中に運べば、じっくり煮込まれた飴色の玉ねぎの甘さが口の中いっぱいに広がった。そこにブイヨンの深い旨味が絡み合って、舌の上で蕩けるようだ。
チーズの塩気と、ひたひたになったバゲットの食感。それらがひとつになって、お腹の奥にまでじんわりと染みていく。
「……っ、おいしい……っ」
セシリアの目に、じわりと涙が浮かんだ。
冷え切った身体の芯まで温かさが届いていく。レポートで強張った肩から力が抜けていった。
「なんで、こんな美味しいんですか……?」
「俺がつくったからだ」
しれっと冗談を言うアルフォンスに、セシリアは、思わず笑ってしまった。
「……ふふ、幸せってこういうことを言うのかもしれません」
思わずこぼれた言葉に、アルフォンスはふっと笑った。右の唇の端の方が上がる彼の癖。
(あぁ……)
目の前には、エプロン姿のままの夫がいて。
ランプの灯りに照らされた金色の髪は、相変わらず眩しいくらいに綺麗だ。
「アルフォンス様」
「ん」
「ありがとうございます」
「……ああ」
アルフォンスは、セシリアの隣に座り直すと、ぽん、と手を伸ばしてきた。大きな手がセシリアの頭に置かれて、ゆっくりと、ゆっくりと、撫でられる。
「これは、いつの日かのお返しだ」
その言葉に、セシリアはぱっと顔を上げた。
(いつの日かの……?)
頭の中に蘇るのは、トマトリゾットを作った日のこと。風邪を引いて寝込んだアルフォンスの頭を撫でて、子ども扱いしてしまった。
あの時、彼はリゾットを口に運んでこう言ったのだ。
──お前の料理は、ほっとする、と。
(あぁ……)
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
アルフォンスはちゃんと覚えてくれていて、こうして形にして返してくれているのだ。
「アルフォンス様」
「なんだ?」
「私、これからは、ちゃんと時間を作りますから。レポートも頑張りますから!」
「ああ」
「だから、また夜食を一緒に食べてくれますか?」
おずおずと聞けば、アルフォンスはふっと口角を上げた。
「ああ、いつでも」
頭を撫でる手の温もりが止まらない。
窓の外では夜が深まっていく。書斎の中は、オニオングラタンスープの香りと二人の声で満ちていた。
(……本当に、しあわせ)
セシリアは、もう一口スープを口に運んだ。
深夜の贅沢な時間が、ゆっくりと、ゆっくりと、過ぎていった。




