10.ジンジャーミルクと恋の予感
朝の4時から仕事をする執事なんて、自分以外にいるのだろうか。執事のクルトは溜息をついた。
クルトは、主人であるアルフォンスを見送るために玄関にいた。こんな早朝から仕事に向かう必要なんてどこにもないだろうに。
「いってらっしゃいませ」
「ああ、いってくる。というか、お前、もう体は大丈夫なのか」
「ええ、お陰様で」
クルトは、病み上がりだった。王都エリオプスで流行った風邪に、ばっちりかかってしまったらからである。グレイブ家の使用人に移さないようにと、ずっと療養所で寝ていたため、腰が痛い。
数日間働かなかっただけで、こんなにも体は鈍るものかとクルトは愕然とした。
「……無理はするなよ」
その言葉にクルトは目を見開いた。
この主人の心根が優しいことは、10年以上彼に仕えているため、よく知っている。だが、以前までの彼ならば、そんな言葉は言わない。
せいぜい、『もう二度としょうもない風邪などにかかるんじゃない』と怒っているのか心配しているのか分からない表情で、ぶっきらぼうに言い放つだけだ。
(なんか、最近、良いことでもあったのだろうか……?)
最近は、性格が少し丸くなったというか。彼の纏う雰囲気が柔らかいというか。
「……旦那様、最近はずいぶんとご機嫌がよろしいですね」
「最近、ちゃんと食事を摂っているからだろうか」
「あの、旦那様が!?」
失礼しました、とクルトは付け加える。
だが、クルトが驚くのも無理はない。『食事と睡眠なんて人生において一番無駄な行為である』と豪語していた、あのアルフォンスが。
料理界の革命児、シュミットの料理を前にしても、食事に一切の興味をみせず、軍事用の保存食を書類片手に齧っていた、あの、アルフォンスが。
食事を摂っている、とそう言った。
その顔は、アルフォンスらしくなく、口角が少し上がっていて。
(へぇ……?)
クルトは、不思議そうな顔をしながら、主人を見送った。そして、玄関でぽつりとつぶやく。
「執事の勘的には、恋愛の香りがするんだけどなぁ」
クルトが思い浮かべたのは、1年前にやってきた、お飾りの妻、セシリアであった。
ウィンターズ伯爵家は、クルトも知っているくらい歴史ある名家であるが、資金繰りが上手くいかず、金のために『白い結婚』を結んだという。
一体どんな悪女がやってくるのかと思っていたクルトだったが、現れたのは、飾らない性格の可愛らしい令嬢であった。
ぼんやりとセシリアのことを考えていると、ちょうど目の前に水色の髪が横切った。
「あ、クルトさんおはようございます」
「奥様、今日はずいぶんと早起きですね」
「……さすがに旦那様ほどではないですよ」
そう言った彼女の手には、なぜかハタキが握られている。クルトがじっと見つめていたのに気が付いたのか、セシリアは慌てた様子で弁明する。
「ほら、メイドさんも流行り病のせいで出勤人数が少ないじゃないですか。だから、ちょっとでもお手伝いしようと思って……! ああ、もちろん、帳簿もちゃんと確認しますから!」
「奥様、どうか、無理はなさいませんよう……」
「大丈夫です! 体力は自信がありますから」
1年間、セシリアはずっとこの調子である。明るく、気さくで、使用人に対しても分け隔てなく接してくれる。
(……なにせ契約結婚だし、旦那様と話しているのを見たことも無いですが。何かの間違いでくっついてくれないかなぁ)
クルトは、眼鏡をかけ直して、玄関のシャンデリアを見上げた。クルトは、この二人を密かに推していたのだ。
◇
午後三時過ぎ。少し眠くなる時間である。
セシリアは、じっとテキストと向き合っていた。そして、深い溜息をつく。
先日、アルフォンスが見ていた帳簿のチェックを完璧にしようとしていたのだが、途中で計算がわからなくなってしまったのだ。
「……ああっ、もう、わからん!」
セシリアは、シュミットが 持ってきたバウムクーヘンを口に入れた。しっとりとした甘さが口に広がっていく。
頭脳労働の際は甘い物に限る。だが、糖分の摂取量が、脳の労働量に追いついていない。
(結局、これもクルトさんにお願いすることになるんだな……)
セシリアは、テキストと帳簿を持って立ち上がった。
執事の部屋は、階段を上がってすぐにある。申し訳ないと思いつつ、コンコンとノックをすれば、中からクルトが顔を出した。
「クルトさん、助けてください……」
「奥様、どうされましたか」
扉の外から、部屋の中をちらりと覗いたセシリアはぎょっとした。
クルトの部屋は書類の山で溢れかえっていたのだ。
休んでいた分の仕事が溜まっていたのだろう。彼の机上は、手紙とインクとペンが散乱していた。
「忙しいときに申し訳ないのですが、帳簿のチェックをしてもらいたくて」
クルトの執務室に入ったセシリアは、ソファに腰掛ける。クルトは、帳簿の中身をパラパラと捲った。
「どうしても、計算が合わない所があって」
「……いや、もうこれだけやっていただけたら、我々は助かるどころの話じゃありませんよ。ありがとうございます」
にっこりと笑っていたが、そう言ったクルトの顔は、疲れが滲んでいた。
彼は、まだ30代前半であるはずなのに、一気に老け込んでしまったようだった。血色感が無く、唇は白っぽく見える。
そういえば、彼は病み上がりだったと思い出し、セシリアは、はっとした。
「……クルトさん、少し休憩しませんか」
「いえ、まだ仕事がありますので」
「いいですから!」
「ええ、ですが、しかし……」
まごまごと否定の言葉を紡ぎながら、クルトはセシリアから目線を逸らす。
どうして、アルフォンスを含め、この家の人間たちは、無理を突き通してしまおうとするのだろうか。
セシリアは、帳簿片手に立ったままのクルトをソファに座らせた。
「ちょっと待っててください! すぐに戻りますから!」
セシリアは、台所まで駆けて行った。
◇
マグカップからほんのりと湯気が立ち上がる。
甘い香りと少しスパイシーな香りが混ざり、セシリアはゴクリと喉を鳴らした。
「……ジンジャーホットミルクです。調子が悪い時は、これを飲むに限ります」
「私に、ですか?」
「そうです。クルトさんはちょっと働き過ぎです」
風邪を引いた際に、セシリアの母が良く作ってくれたものである。
ホットミルクに、はちみつ、シナモンとすりおろしたショウガが入っており、体がぽかぽかと温まるのだ。
マグカップを両手で持ったクルトは、遠慮がちに口を付けた。
「……! 美味しいです」
「そうでしょう!」
セシリアも、口を付ける。優しい甘みが口いっぱいに広がり、喉のあたりからじんわりとした温かさが広がっていった。
セシリアはマグカップを見つめながら言う。
「私が、もっと仕事ができればいいんですが……」
それは、セシリアがずっと思っていたことだった。周りは慌しく働いているのに、自分がろくな働きができないことがもどかしかった。
クルトはきょとんとした表情になり、セシリアを見つめた。
「奥様は、そもそも仕事をする必要などないのですよ」
「ええ、わかっています。私って所詮お飾りなので、あまり仕事をし過ぎるのも良くないって」
重要な仕事をお飾りの妻に任せたくない、という気持ちは痛いほどわかる。現に、公爵領の経営などは、アルフォンスの遠縁の親戚に任せているという。
けれども。
「少しでも、動かないと気がすまないというか……、あっ、今更ですが、帳簿を見るのもあまり良くなかったでしょうか。それなら、クリーンメイドの代わりに掃除でもしましょうか」
「ああ、奥様……」
クルトは、なぜか額に手を当てた。そして、ゆっくりと息を吐きだしながら言う。
「奥様。そういうことでは無いのです。我々は、奥様のおかげで本当に助かっているのですよ。働き過ぎなのは、奥様の方では──」
クルトの言葉に、セシリアは全力で首を横に振った。
「いや、いやいやいや。そんなことないです! 私は、旦那様にお金貰ってる身なので!」
「いや、それは私だって、そうなんですが……」
セシリアは立ち上がった。そうして、ごちゃごちゃと散乱している机に向かっていく。
クルトはきっと疲れている。心の様子は、机上に現れるものだ。
「こちらの書類は見ても良い物ですか?」
「ええ、公爵家に届くものは、奥様は目を通す権利がございます」
開封済みの手紙は、クルトによって仕分けがされているようだった。返信が必要なものとそうでないものだ。
見たところ、返信が必要なものは、もっぱら公爵家のサインが必要な形式的な申請書ばかりである。
「……これって、サインすればいいだけですよね」
「ええ、そうですが」
セシリアは、机に座ると、羽ペンを持った。そうして、一応中身に目を通し、サインを綴っていく。
クルトがすでに一度目を通しているため、流れ作業のようなものだ。インクの壺にペン先を付け、サラサラと紙に滑らせるだけの簡単なお仕事だ。
「お、奥様……」
「病み上がりの方は、そこでしばらくゆっくりされていてください! 命令ですからね!」
ぴしゃりと、セシリアが言い放ったことで、クルトは動けなくなった。グレイブ公爵夫人の『命令』ならば執事は断ることができないのだ。
セシリアは、少し強引だったかな、と反省したものの、すぐに書類に目線を落とす。意外にも量があるため、これは右手に頑張ってもらわないといけない。
(……よし、頑張るぞ!)
クルトは困ったような顔で笑った。執事の今日の仕事は、すべて公爵夫人が奪ってしまった。
◇
今日は、仕事で疲れることもなかったからだろうか。
クルトは、深夜に目を覚ましてしまった。すぐに寝付ける気もしなかったため、クルトは1階に降りて行った。
すると、ぼやぼやと人の話すような声が聞こえてくるではないか。
(……えっ、こんな夜中に?)
声はどうやら、居間から聞こえてくるらしい。近づいていくにつれ、何だか美味しそうな香りが漂ってきた。
クルトが扉の隙間から覗けば、そこにセシリアとアルフォンスが向かい合って座っていた。
「今日は、余りもので作ったオムレツですね」
「……そうか」
「タマネギとホウレンソウとベーコンを入れてます」
「ん、美味しい」
クルトは目をかっぴらいて、セシリアとアルフォンスを見つめた。そもそも、この二人が話しているところを見るのは、初めてだった。
クルトは、自分の都合のいい妄想をしているんじゃないかと不安になってきて、何度か目を擦った。
(……ど、どういう状況なんだろうか、これは)
『最近、ちゃんと食事を摂っているからだろうか』
今朝のアルフォンスの言葉を思い出し、それが夢でも妄想でもないことに気が付く。まさか、毎晩のようにこの2人は夜食を食べているとでもいうのだろうか。
「えっ、何それ、尊い……」
クルトは物音を立てないよう、そっと居間から離れていく。突然の推し2人の供給に、今までにないくらい、クルトの顔は緩んでいた。




