第九章 重陽の薬玉
いつも通りに帝の元で、いつも通りの執務をしていると、女房が仕事終わりの時を告げに来た。
女房の声かけに帝も蔵人たちも内侍司もほっとしていると、なにやら廊下が騒がしい。
「おや、どうしたのでしょうね」
帝が外に興味を示したので、摩利の蔵人がすかさず几帳をめくる。すると、その先には忙しなく摘んできた菊を運ぶ女房たちがいた。
「本日は重陽ですので」
摩利の蔵人がそう言うと、帝はころころと笑って女房たちを眺める。
「そうでしたね。
それにしても、花を持った女房たちのうつくしいこと」
また悪い癖を出しているな。と摩利の蔵人と新の蔵人、それに内侍司はいささか渋い顔をするけれども、いつものことなのでいちいち気にしていたら身が持たない。
今頃、女房たちは運び込まれた菊の花で薬玉を作るので忙しいのだろうなと摩利の蔵人は思う。今日中に、端午の節句に飾った蓬の薬玉をすべて菊の薬玉に変えなくてはいけないのだ。
できあがった薬玉を、真っ先に飾られるのは帝の寝所だ。きっと今頃きれいな色糸を纏った薬玉が飾られているか、その薬玉を作っているところなのだろう。
「どんな薬玉ができあがるか楽しみですね」
帝がにこにことそう言うと、内侍司が頭を下げて返す。
「女房たちももう薬玉を作り馴れています。
きっと一番良い薬玉が帝の寝所に飾られておりますでしょう」
その言葉に、帝は内侍司の肩に手を添えて、扇で口元を隠しながらささやく。
「それでしたら、今夜私の寝所で一緒に薬玉を眺めませんか?」
戸惑うように顔を赤くする内侍司を見てか、新の蔵人が鋭く一言口にする。
「帝」
「すいません」
内侍司からすっと身を引く帝を見て、ほんとうに一言だけで諫めてしまう新の蔵人はすごいなと摩利の蔵人は思う。
そんなことをしている間に女房たちの往来も減ってきた。
今日はこの後どうするのだろうと考えながら摩利の蔵人が几帳を元に戻そうとすると、帝がこんなことを言った。
「それにしても、私も薬玉を作ってみたいですねぇ」
その言葉に、摩利の蔵人はくすくすと笑って返す。
「なにをおっしゃるんですか。
薬玉作りは女房たちの仕事ですよ」
帝も好奇心が強いなと思ったその瞬間、めくったままの几帳からひとりの女房がのぞき込んできた。
「帝もお作りになられますか?」
いきなり無礼な。思わず驚いて女房の方を見ると、そこにいたのは摩利の蔵人の妹だ。手には薬玉に付ける色とりどりの糸を持っている。
「こら、百合。いきなりなにを言うんですか。
無礼ですよ」
小声で妹の百合の女房に摩利の蔵人がそう言うと、百合の女房はきょとんとした顔で返す。
「だって帝がやりたいっておっしゃったから」
「そうですけど……」
ふたりのやりとりを見ていた帝は、特に百合の女房を咎めることもなくころころと笑っている。
「おやおや、お誘いいただいてしまいましたね。
私もやっていいならやってみたいです」
帝の言葉に摩利の蔵人がどう返したものかと戸惑っていると、新の蔵人が渋々といったようすでこう言う。
「帝がしたいとおっしゃるのであれば、我々には強く止められませんね」
それもそうだな。と摩利の蔵人はなんとなく納得する。
兄の内心などいざ知らずといった風の百合の女房は、にっこりと笑って帝に言う。
「でしたら、中宮の所でも薬玉を作っておりますので、そちらにご案内いたします」
「おや、中宮のところででもですか。それはいいですね。
では行きましょうか」
帝が他の女房の所に行かなくてよかった。蔵人たちと内侍司は内心そう思う。
百合の女房に先導され、摩利の蔵人と新の蔵人、それに内侍司が帝に付き添って中宮の元へと向かう。
中宮がいるところへ着くと、そこには当然のように御簾が下ろされている。
「少々お待ちください」
百合の女房が帝たちにそう声をかけてから御簾の中に入ると、なにかを動かしている音が聞こえた。おそらく、中宮の顔を隠すために几帳を動かしているのだろう。
帝だけが来るのであればそのような手間はなかったのだろうけれども、今回薬玉作りということなので、なにかあったときのために蔵人たちが同伴しないわけにはいかないのでいたしかたない。
物音が止まり、準備ができたかと思った瞬間、勢いよく御簾が上がったので摩利の蔵人はもちろん、新の蔵人も内侍司も驚く。ただ帝だけがころころと笑っていた。
「おやおや、元気の良いこと」
そう言って帝が中へと入るので、摩利の蔵人たちもそれに続く。
帝が中宮の前に座り、摩利の蔵人もその場に座りながら御簾の側にいる百合の女房に小声で言う。
「こら、あんなに勢いよく御簾を上げてはいけませんよ」
「え? いつもだけど?」
「いつもあんななの?」
あれでよく百合の女房の立ち振る舞いが中宮から咎められないものだと摩利の蔵人は思わずひやひやする。
そんな摩利の蔵人をよそに、中宮は几帳の向こうから意外そうな声で帝に話しかける。
「突然どうなさったのですか?
蔵人たちまで連れていらっしゃって」
中宮の問いに、帝はにこにこと笑って返す。
「いえなに、女房たちが薬玉を作っていると聞いたので、私もやってみたいと思いましてね」
側にいる女房たちが明らかに戸惑っている。それを察してか、中宮はため息をついてこう言った。
「そうはおっしゃいましても、薬玉作りは女の仕事ですので、帝のすることではございません。
お引き取りください」
すると、帝は明らかにしゅんとした声で中宮にまた話しかける。
「どうしてもだめですか?
私はただ、あなたと同じことをしたかっただけなのに……」
いかにもいじましいその声色に、さすがの中宮も負けたのか、またため息をついて帝に言う。
「でしたら、几帳のこちら側においでください。
作り方の手ほどきをさせていただきます」
「ほんとうですか? ありがとうございます」
許可をもらった帝がいそいそと几帳の向こうにまわり、女房たちが薬玉作りの続きをはじめる。
女房たちが菊の花を綿で包んで糸で巻いているのを見て、なるほど、こうやって薬玉を作るのかと摩利の蔵人は感心する。
そして気がつけば、摩利の蔵人も新の蔵人も菊の花と綿を渡されて薬玉を作っていた。
そのことにはたと気づいて、摩利の蔵人と新の蔵人で顔を見合わせてきょとんとする。
一体なにをやらされているのだろうと思いながらも薬玉を作っていると、御簾の向こう側に誰かがやってきた。
その誰かは、厳しい声でこう言った。
「帝、中宮の所におられるのはかまわないのですが、なにをなさっておられるのですか。
薬玉作りは女の仕事ですよ」
この声は源氏の太政大臣だ。
さすがにこれは止めきれなかった自分が咎められるなと摩利の蔵人が身を固めていると、百合の女房がまた勢いよく御簾を上げた。
「だからもう少しゆっくり御簾を上げなさい」
慌てて摩利の蔵人がそう言うと、源氏の太政大臣はため息をついて百合の女房に言う。
「元気があるのは良いことですが、そのように御簾を上げるのははしたないですし、中宮の姿を他の男に見られたら大変ですよ」
源氏の太政大臣の忠告が聞こえているのかいないのか、百合の女房はにこにこと笑ってこう言う。
「それにしてもやはり帝はすごいですね。
はじめてなのに薬玉作りの手際もすごくよろしいです」
それを聞いた源氏の太政大臣は、先ほどのため息はどこへやら、すっかりしたり顔をしている。
妹が咎められなくて良かったと摩利の蔵人がほっとしていると、帝のころころとした笑い声が聞こえてきた。
「それにしても、摩利の蔵人の妹君は、はきはきとしていてすてきな方ですね」
それを中宮の側で言うか。
摩利の蔵人は帝の言葉にいろいろと嫌な予感がしたけれど、気にしないことにした。