第八章 天竺の歌
いつも通りの仕事が終わった後、摩利の蔵人と新の蔵人が蔵人の詰め所でぼんやりとしていると、なんとなく騒がしい気配がしてきた。
これはもしや。と思って廊下の方を見ると、早足で滑るようにやってきた藤棚の右大将が笛を握った手を見せてこう言ってきた。
「合奏しましょう!」
いつもながら突然だなと思いつつ見ていると、少し遅れて椿の中将もやってきた。椿の中将は琵琶を持っているようだった。
摩利の蔵人と新の蔵人はやってきたふたりを迎え入れ、座るようにと勧める。
摩利の蔵人がいつも持ち歩いている笛を取り出すと、椿の中将が琵琶を新の蔵人に差し出す。
「よろしければ、新の蔵人の琵琶を聞かせてくださいまし」
「かしこまりました」
琵琶を受け取った新の蔵人は、何度か琵琶の弦をはじくと、あきれたようにこう言った。
「相変わらず椿の中将の琵琶は調弦が甘いですね」
それから、新の蔵人は調弦をはじめる。
調弦が甘いと言われた椿の中将は、特に気まずそうにすることもなく、むしろ新の蔵人に調弦をしてもらえて満足そうだ。
新の蔵人が調弦を終え、弦をはじく。それに合わせて摩利の蔵人と藤棚の右大将が笛を吹きはじめた。
笛を吹きながら摩利の蔵人は思う。自分も藤棚の右大将も決して笛の演奏が下手なわけではないけれども、新の蔵人の琵琶の腕前にはかなわない。なんせ、新の蔵人は宮中でも指折りの琵琶の名手だと評判なのだ。
合奏をはじめてしばらくすると、ふと、椿の中将が廊下の方を向いた。
なにかと思って摩利の蔵人が笛から口を離すと、朗らかな声が聞こえてきた。
「おや、お邪魔してしまいましたか」
その声に、新の蔵人も藤棚の右大将も演奏をやめ、その場の四人が声のした方に平伏して礼をする。帝と源氏の太政大臣がやってきていたのだ。
「面を上げなさい」
帝の言葉に四人が顔を上げると、源氏の太政大臣が笛を取り出しながらこう言った。
「帝とふたりでいたら見事な演奏が聞こえてきたものだから、私も混ざってはどうかと言われましてね。
どうでしょう、私も混ぜてはくれないでしょうか」
その言葉に、摩利の蔵人は礼をして返す。
「ありがたいお言葉です。是非とも」
返事を聞いた源氏の太政大臣と帝が入ってきたので、四人は場所を広く空け、摩利の蔵人がそこに帝と源氏の太政大臣が座るように促した。
源氏の太政大臣が視線で新の蔵人に合図を送る。それから、新の蔵人の琵琶をきっかけに、源氏の太政大臣と藤棚の右大将、それに摩利の蔵人が笛を吹きはじめる。
笛を吹きながら、新の蔵人の琵琶にも劣らない演奏をできるのはやはり源氏の太政大臣だけではないかと摩利の蔵人は思う。
帝の箏の腕前もなかなかのものだけれども、なにごとにも秀でていると言われている源氏の太政大臣には一歩及ばないのだ。
ひとしきり合奏を終えると、帝も椿の中将も感心しきりといったようすだ。
満足そうな帝が、扇で藤棚の右大将を指して言う。
「素晴らしい合奏でしたが、藤棚の右大将の舞も素晴らしいものだと聞いておりますよ。
よければ見せてくれないでしょうか」
その言葉に、藤棚の右大将は頭を下げて返事をする。
「ありがたいお言葉です。
それでは早速」
早速やるのはいいけれど、なにを舞うのだろうか。青海波なら演奏ができるけれども。摩利の蔵人がそう思っていると、藤棚の右大将は立って少し開けた場所へと移動し、演奏もなしに腕を振り上げ歌い、踊りはじめた。
「あげとーすぱるたせのぷろいくーろい……」
その歌と踊りを見て、その場にいた全員が驚く。はじめて聞く旋律にはじめて見る踊り、それに、藤棚の右大将が口にしているその歌は、聞いたことがない言葉だったからだ。
歌いながら踊る藤棚の右大将を見て、摩利の蔵人は考えを巡らせる。あれは一体どこの言葉だろう。唐の言葉かもしれないと思ったけれども、それにしても違和感があった。
「……あららいあららいえー」
藤棚の右大将が歌と踊りを終え一礼をすると、帝が手を叩いて喝采を送る。
「なんとも不思議で素晴らしい歌と踊りでしたね。
藤棚の右大将はどこでそれを覚えてきたのですか?」
その問いに、藤棚の右大将はすこしだけはにかんでこう答える。
「実は、夢の中で天竺の姫君に教わったのです」
「天竺の姫君。それはなんと」
源氏の太政大臣が驚きの声を上げると、帝が興味深そうにまた訊ねる。
「天竺の姫君は、どのような方なのでしょう。やはり、天女のようにうつくしい方ですか?」
その言葉に、藤棚の右大将は少しうつむいて言葉を詰まらせている。おそらく、女の説明をどうやってしたらいいのかわからないのだろう。
そんな藤棚の右大将に、椿の中将がくすくすと笑って言う。
「それにしても、夢の中にまで会いに来るなんて、天竺の姫君も熱心ですね」
「……うん……」
消え入りそうな声で小さく返事をする藤棚の右大将を見ると、耳の先が赤くなっている。それを見た摩利の蔵人は、藤棚の右大将が女のことで照れるなんて珍しいなと意外に思った。
続けて新の蔵人が藤棚の右大将に訊ねる。
「それにしても、天竺の姫君なんてどこでお知り合いになったのですか?
まさか、藤棚の右大将が天竺に行ったわけでもないでしょうに」
その問いに藤棚の右大将は、すこしだけ夢見心地な声でこう答える。
「実は、夢の中でしか会ったことがないのです。
いつか、この身で会うことができたらとは思うのですが」
藤棚の右大将の言葉を聞いた帝が、ころころと笑ってこんなことを言う。
「藤棚の右大将がそのように女に興味を持つなんて珍しい。
ほんとうに、どのような姫君なのですか?
きっと、よほどうつくしい方なのでしょうね」
「う……」
帝の言葉に藤棚の右大将は、顔を真っ赤にして言葉を詰まらせる。それを見た摩利の蔵人は、双六以外に藤棚の右大将がこんなに入れ込むなんてほんとうに珍しいことだと意外だった。
期待に満ちた視線を帝から送られた藤棚の右大将は、少し黙り込んでからこう語る。
「天竺の姫君は、単衣や唐衣ではなく、ゆったりとした布をその身にまとっていて、顔を隠すこともなく夢の中に現れるのです。
私が幼い頃より、ずっとそうやって、会いに来てくれていて、それで……」
最後の方は聞き取れないほど小さな声になってしまっている藤棚の右大将の語りに、源氏の太政大臣は難しい顔をしてこう返す。
「幼い頃はともかく、大人になっても顔を隠さずにいる女なんてはしたない。
その姫君は、右大将の妻というわけではないのでしょう」
「そうですが……」
源氏の太政大臣の言葉に口をへの字に曲げてしまった藤棚の右大将をなだめるように、椿の中将が声をかける。
「たしかに、顔を隠そうとしない女ははしたないですが、顔を隠していないのは藤棚の右大将に会いに来るときだけなのでしょう?
それでしたら、その姫君は顔を見せてもいいと思うくらい右大将に思いを寄せているのではないでしょうか」
それを聞いて、夢で見た天竺の姫君の姫君のことを思い出しているのか、藤棚の右大将は顔を赤くしたまま口元を緩ませている。
先ほどからころころと表情を変えている藤棚の右大将のようすが面白いのか、帝が機嫌良く笑って言った。
「藤棚の右大将がそこまで入れ込む姫君に、私も会ってみたいですね」
「イッ……!」
驚いたような顔をして言葉を飲み込む藤棚の右大将を見て摩利の蔵人は、嫌だと言いそうになったのを我慢したのはえらい。と思う。
それから、少し話をそらすように藤棚の右大将にこう言う。
「それにしても、天竺の姫君がわざわざ会いに来るだなんて、藤棚の右大将も徳が高くていらっしゃる」
それを聞いた源氏の太政大臣も頷く。
「たしかに。仏の生まれ故郷である天竺の姫君が会いに来るなんて、よほど徳が高くなければあり得ないことでしょうし」
それから、ちらりと帝の方を見た。
「徳を積めば、私も姫君に会えますかね。
藤棚の右大将が夢中になるくらいの姫君ですし、ぜひ私もお相手願いたいです」
ころころと笑ってそう言う帝を見て、摩利の蔵人は、そういうところなんだよなぁ。と思ったけれども、あえて口にはしなかった。