第四十九章 人日の世はおだやかで
新年になって七日目のこと。今日は若菜を食べる日なので、帝に献上する若菜の粥を取りに行っていた摩利の蔵人は、ふと廊下から外の風景を見る。
青々とした松の葉に、しっとりとした雪が乗っていて、いかにも寒々しい。けれども、この寒さはどこか清浄な空気を湛えていて、白い息を吐いた後に胸いっぱいに冷たい風を吸い込むと、かすかな穢れや煩悩も消え去るような気がした。
手に持った台盤に乗っている粥は、ゆらゆらと湯気を立てている。これが冷めてしまう前に帝の元へ持って行かなければいけない。なんせ、こんなに冷える日なのだから、温かなものを食べてもらって、体を養ってもらわないといけないのだ。
すこし早足で宮中の廊下を歩き、見慣れた几帳の前に立つ。
「若菜の粥をお持ちしました」
摩利の蔵人がそう言いながら几帳をめくると、驚いた顔の新の内侍司と、その肩を抱いている帝が目に入った。
「あ、あの」
新の内侍司はしどろもどろにそう言いながら、顔を真っ赤にしてそそくさと帝から体を離す。
そういえばいつのことだったか。帝が、まだ未婚の新の内侍司こと新の蔵人にも相手ができたようだと言っていたけれども、こういうことだったのかと妙に納得してしまう。
悪い癖は謹んでもらわないとと思いながら、摩利の蔵人は別のことを訊ねる。
「帝、蔵人はどこへ?」
そう、若菜の粥を取りに行く前にはここにいたはずの、若手の蔵人の姿がないのだ。
摩利の蔵人の問いに、帝はにっこりと笑ってこう答える。
「源氏の太政大臣のところへ文を持って行ってもらっています」
「なるほど。どのようなご用件でしょうか。
差し支えなければ教えていただきたいのですが」
続け様に飛んでくる問いに、帝は視線を泳がせながらまた答える。
「あー、あの。季節の話ですよ。
兄弟なのですから、そういったたわいもない話をしてもいいでしょう?」
体のいい人払いをしていたのだな。そう察した摩利の蔵人が、黙ってにっこりと笑うと、帝もぎこちない笑みを返す。
お互いすこしの間無言でいて、一方で新の内侍司は恥ずかしそうに扇で顔を隠している。これ以上帝を問い詰めるようなことをすると、無礼になるだけでなく新の内侍司もいたたまれないだろうと、摩利の蔵人はまた話を変えた。
「ところで帝。百合との間の子はどうしていますか?」
その問いには、帝も表情を明るくして嬉しそうに答える。
「はい。あの子も元気にしていますよ。
百合の女御も相変わらずです」
「そうですか。それは良かったです」
いい報告が聞けて安心したのもつかの間。摩利の蔵人は帝の言葉がすこしだけ気になった。
「あの、百合も相変わらず……というのは、その」
「はい。相変わらず元気な方ですね」
そう言ってころころと笑う帝の言葉に、今度は摩利の蔵人の笑みがぎこちなくなる番だ。帝のこのようすだと、百合の女御は相変わらず、宮中でやんちゃをしているのだろう。
「母子ともに元気ですが、今のところ私の子供はあの子だけですからね。大切にしないといけません」
「そ、そうですね……」
なんとなく摩利の蔵人がいたたまれなくなっていると、扇をすこし下にずらした新の内侍司が控えめにこう言った。
「しかし、百合の女御のお子は姫君でしょう。
今後、なんとか男児を作らねばいけません」
それを聞いた帝は、新の内侍司の方へ体を傾け、閉じた扇で新の内侍司の顎を軽く持ち上げる。
「ふふふ。あなたががんばってくれますか?」
「私ではなく、中宮との間に、その」
まったくもって新の内侍司の言うとおりである。帝は新の内侍司に手を出している場合ではない。
摩利の蔵人が思わず苦笑いしていると、はたとあることを思いだした。
「そうです。若菜の粥をお持ちしています。
少々冷めてしまっているかもしれませんが、お召し上がりください」
そう言って帝の前に粥の乗った台盤を置くと、帝は早速、挨拶をしてから匙と粥の入った器を持って口に運ぶ。
「そうですね。少々冷めてはいますが、ちょうどいい温かさです。
これならやけどをする心配もありませんね」
上機嫌で粥を口に運ぶ帝を見て、摩利の蔵人はほっとする。機嫌を損なわなくてよかった。もっとも、帝はそう簡単に機嫌を損ねるような人でもないのだけれど。
帝がゆっくりと粥を食べているのを見守っていると、几帳の外に人の気配がした。
「ただいま戻りました」
そう言って几帳の中に膝をついて入ってきたのは、源氏の太政大臣に手紙を渡しに行っていた若手の蔵人だ。
その姿を見て、帝が訊ねる。
「ご苦労様です。
源氏の太政大臣はどうしていましたか?」
すると、若手の蔵人は不思議そうな顔をしてこう答える。
「なぜか陰陽寮にいらっしゃったのです。
晴明殿と話していたので、なにか占ってもらっているのかと思ったのですが、どうにもそうではない、難しい話をなさっておられました。
ふたりとも、妙に楽しげでしたね……」
源氏の太政大臣は源氏の太政大臣で悪い癖を出しているのか。そう察した摩利の蔵人はなんとも言えない気持ちになる。
しかし、源氏の太政大臣の悪い癖はせいぜいいきなり難解な算術の話をするくらいなので、晴明が嫌がっていないのなら好きにさせておいて問題はないだろう。
ふと、新の内侍司が微笑んで若手の蔵人に言う。
「それにしても、ずいぶんと清々しい顔をしていますが、なにかいいことでもありましたか?」
すると、若手の蔵人は珍しく表情を明るくしてこう答えた。
「いいことがあったのではなく、悪いことがないのです。
今日は人日ですし、刑の執行がないでしょう?
どこにも穢れがなくて、空気がきれいな気がします」
その言葉を聞いて、帝も新の内侍司も、摩利の蔵人もつい笑顔になる。若手の蔵人の無邪気さが、なんとなく温かく感じられるのだ。
新の内侍司が扇をたたんで、微笑みながらこう続ける。
「そうですね。人日ともなれば椿の中将の出番もありませんしね」
突然出てきた椿の中将の名に、摩利の蔵人は椿の中将が一太刀で罪人の首を落としているところを思い出す。
普段はなよなかで優しげな椿の中将の印象と、罪人を処刑するときのあの気迫がどうにもいまだに結びつかない。
しかし、それはそれとして、椿の中将に働いてもらわないと困ることもあるし、なんとか受け入れるしかないのだ。
つい物思いにふけってしまった摩利の蔵人が、はたと気づいて若手の蔵人の顔を見ると、明らかに怯えた表情をしていた。
「あの、椿の中将というのは、あの椿の中将……ですよね?」
「他にいないでしょう」
きょとんとしたようすでそう返す新の内侍司の言葉に、若手の蔵人は身を固めてしまう。きっと、椿の中将の恐ろしい姿ばかりが印象に残っているのだろう。
摩利の蔵人は、固まってしまっている若手の蔵人にそっと近づいて、優しく背中をなでる。
「大丈夫です。今日は人日ですから、椿の中将も大人しくしていますよ。
それに、普段はそんなに荒々しい方でもありませんから」
「ひんっ……でも……」
すっかり怯えきってしまっている若手の蔵人を落ち着かせるのにどうしたものかと摩利の蔵人が頭を悩ませていると、帝がころころと笑ってこう言った。
「不安なようですね。
でしたら、今度あなたも歌合に同席させましょう。
椿の中将の見事な歌を聞いたら、そんな恐れなどどこかへ行ってしまいますよ」
帝の言葉に、若手の蔵人はただただ平伏するばかりだ。
一方の摩利の蔵人は、歌合に同席したら藤棚の右大将の歌も聞くことになるけれど、そちらはそちらで追いつけるのだろうかとすこし心配になった。
そんななか、冷たい風が几帳をゆらす。外の雪が陽に照らされて光る。
風でめくれた几帳の外に目をやると、世界は光であふれていた。




