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第四十八章 落ち着かない一日

 冬も深まった頃、今日も帝の元で仕事をしている。新しく帝の側に仕える新任の蔵人も、摩利の蔵人と新の内侍司で決めてしまっていいとのことだったので速やかに決まった。

 帝の側に侍るようになってまだ間もない若い蔵人は、緊張しているのか帝の言葉を書き取る手がかすかに震えている。

 一方、もはや帝の側にいることには慣れているはずの摩利の蔵人も、どうにもそわそわと落ち着かない。

 若手の蔵人がいることに慣れないのではなく、かといって、新の内侍司が女の姿であることに慣れないわけでもない。ただ、摩利の蔵人にはどうしても落ち着けない理由があった。

 けれども、その理由を聞かれもしないのに話していいものかということで、なんとかごまかそうとしているのだけれども、どうやらその態度は隠せてもいないしごまかせてもいなかったようだ。

 巻物を区切りのいいところまで読んだ新の内侍司が鋭い目つきで摩利の蔵人を見て言う。

「摩利の蔵人、落ち着かないようすですが、なにかあったのですか?」

 いかにも苛ついているといったその声に、摩利の蔵人の心臓は飛び跳ねるし、若手の蔵人は怯えてしまった。

 文机に隠れる位置で、助けを求めるように袖を握ってくる若手の蔵人の手をなでながら、摩利の蔵人は思いきって落ち着かない理由を話す。

「実は、昨夜のうちから妻が産気づいていると聞いておりまして……

きっと今頃、子供を産むためにがんばっているのだろうなと思うと、どうしても落ち着かなくて」

 それを聞いた帝は、ころころと笑って摩利の蔵人に言う。

「それでしたら、聖なり阿闍梨なり呼んで祈祷させればいいでしょう。

摩利の蔵人のことですから、きっともう呼んであるのでしょうけれど」

「は、はい。阿闍梨を呼んで、今朝方から祈祷させております。

産婆もすでに側につけているのですが、それでもどうしても、落ち着けなくて……」

 帝の言葉に答える摩利の蔵人を見てか、新の内侍司は、前にもこんなことがあったな。という顔をしている。

 新の内侍司がなにかを言おうとしている。摩利の蔵人がそれを察知したその瞬間、几帳の外から凜とした声が聞こえてきた。

「摩利の蔵人、なにをしているのです。

今すぐ妻の側に行ってやりなさい」

 その声に驚いていると、同じく驚いた顔をしている帝が、若手の蔵人に几帳をめくるよう指示を出す。几帳をめくると、そこにいたのはいささか興奮したようすの源氏の太政大臣だった。

 なぜ源氏の太政大臣がここに?

 摩利の蔵人がそう疑問に思っていると、帝も扇で摩利の蔵人を指してこう言った。

「源氏の太政大臣の言うとおりです。

今日の仕事はここまでにして、今すぐ妻のところに向かいなさい。

あなたが不安なのなら、なおさらです」

 その言葉に、摩利の蔵人は頭を下げながら返す。

「し、しかし、産穢に触れてしまうと、穢れが落ちるまで参内できないので……」

 摩利の蔵人の言い分に、源氏の太政大臣と新の内侍司が口を揃えて言う。

「参内より妻と子供の方が大事でしょう」

 その気迫に押されてか、若手の蔵人も摩利の蔵人の腕に捕まりながら震える声で言う。

「そ、そうです。そうですよ。

なんなら穢れは、そのまま阿闍梨に払ってもらえばいいですし」

 明らかに怯えたようすを見せる若手の蔵人に、慣れないうちに新の内侍司と源氏の太政大臣の圧を同時に食らったらこうもなるよな。と、摩利の蔵人はすこしだけ申し訳なく思う。

 若手の蔵人の背中をぽんぽんと叩いて落ち着かせていると、帝がころころと笑う。

「おやおや、その蔵人には怖い思いをさせてしまいましたね。

なにはともあれ、みなが言っているのですし、摩利の蔵人は遠慮なく妻の元へと行ってください。

穢れが落ちるまでの間、家で休んでいてもいいですし」

 続いて、新の内侍司が圧を下げないまま口を開く。

「帝のおっしゃるとおりです。妻と子供の命がかかっているときなのですから、側にいてあげてください。

それになにより、そわそわしたまま仕事をされてもこちらの気が散ります」

 ふたりの言い分を聞いてから若手の蔵人の顔を見ると、涙目になってこう言った。

「どうぞ行ってください。

大丈夫です。仕事でわからないことがあったら、内侍司に訊きますから」

 若手の蔵人のようすを見て、これ以上まごまごしていてもなにもならないし、この蔵人にもっと怖い思いをさせてしまうと摩利の蔵人は思う。

 意を決して、摩利の蔵人帝に平伏してからこう言った。

「お言葉に甘えて、妻の元へ向かわせていただきます」


 大内裏を抜け出して、摩利の蔵人は一路妻の家へと向かった。

 家について女房に案内されるけれども、どうにも阿闍梨の祈祷の声が聞こえない。

 護摩を焚いた匂いはするので、祈祷が行われなかったということはないだろう。そこまで考えて、最悪の事態が頭をよぎる。

 もしかしたら、死産だったのかもしれない。

 胸が潰れそうになりながら、女房を急かして妻の元へと急ぐ。すると、途中で泣き声が聞こえてきた。

 妻の泣き声ではない。元気な赤ん坊の泣き声だ。

 それを聞いて、摩利の蔵人は一安心する。子供は無事に生きて産まれて来られたのだ。

 けれども、子供が元気だからと言って母親が元気だとは限らない。喜びと緊張を抱えながら、ようやく妻の元にたどり着くと、布団の上で身を起こしている睡蓮の君と、それに寄り添っている沙羅双樹の君、それに、赤ん坊を産湯につけている産婆がいる。そのようすを、女房達が心配そうに見守っていた。

 全員無事だった。そのことに感極まってこぼれそうになる涙をこらえながら、摩利の蔵人は出産を終えた睡蓮の君の側により、手を取る。

「ああ、あなたも子供も無事でよかったです。

沙羅双樹も、よく睡蓮を支えてくれましたね」

 摩利の蔵人が来たことで安心したのか、睡蓮の君がぽろぽろと泣きながら、摩利の蔵人にしがみつく。

「ほんとうに、ほんとうによかった……

あの子、なかなか泣かなかったから、もうだめかと思ったんです……」

 それから、沙羅双樹の君が興奮したようすで摩利の蔵人に言う。

「でも、元気ですから。

早く顔を見せてあげてください」

「そうですね。早く父親の顔を見せなくては」

 摩利の蔵人は睡蓮の君から産婆の方に向き直り、産湯の中をのぞき込む。ほのかに湯気が立つ産湯に浸かった赤ん坊は顔をくしゃくしゃにして泣いているけれども、どうしようもなくかわいくて愛おしかった。

 産婆が摩利の蔵人に言う。

「すこし体は小さいですが、元気な姫君ですよ」

 それから、赤ん坊を産湯から出して柔らかな布で拭き、おくるみに包む。

 真っ白なおくるみに包まれた赤ん坊を渡された摩利の蔵人は、すでに亡くなった息子が赤ん坊だったときのことを思い出しながら、首があさっての方向を向かないように支えて抱える。確かに、息子が産まれたときに比べると、だいぶ軽くて小さい気がした。

 赤ん坊を抱いたまま、また睡蓮の君の方へ向き直り、訊ねる。

「睡蓮、この子を抱っこできそうですか?」

 すると、睡蓮の君ははにかんで腕を差し出してきた。

 睡蓮の君の腕に赤ん坊を預けて、摩利の蔵人は産婆をねぎらってから沙羅双樹の君に訊ねる。

「沙羅双樹も、この子をかわいがってくれますか?」

 その問いに、沙羅双樹の君はにっと笑って返す。

「もちろんです。あなたの子なのですから」

 沙羅双樹の君は、きっとまだ亡くした息子のことを忘れていないだろう。それでも、この赤ん坊のことをかわいがってくれるとなんとなく思えたし、そのことで安心した。

 ふと、摩利の蔵人の耳に、背後で囁き合っている女房の声が入ってきた。

「姫君なら、ゆくゆくは入内させて帝のところへやれるかしら?」

 それを聞いた摩利の蔵人は、帝がころころと笑っている様を思い出して、それはちょっとやだな。と思った。

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― 新着の感想 ―
上司にお義父さんと呼ばれるのはなぁ…
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