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第四十五章 愛しさと恋しさと

 摩利の蔵人の妹、百合の女房に子供ができたことを受け、帝が源氏の太政大臣からも少々怒られながらも百合の女房が女御になることが決まった。

 そのせいもあって、摩利の蔵人は他の殿上人から祝いの言葉と妬みの言葉を半々に受けながら過ごしているのだけれども、そんなこともつゆ知らず。といったようすで帝はいつも通りだ。

 百合の女房が女御になるという話を新の蔵人が聞いたとき、このように言われた。

「おめでとうございます。

そしてご愁傷様です」

 どうやら新の蔵人は、摩利の蔵人の複雑な気持ちをよく読み取ってくれているようだった。そんな新の蔵人の態度は、気持ちをすこし楽にしてくれた。

 摩利の蔵人の家がばたばたと忙しくしている間にも。日々の仕事はこなさなくてはいけない。とりあえず、家のことは両親と妻ふたりに任せ、摩利の蔵人は宮中での仕事に専念することにしている。

 そしていつも通りに仕事が終わり、帝が気の知れた面子で歌合をしたいと言ったので、内侍司は源氏の太政大臣を、新の蔵人は椿の中将を、摩利の蔵人は藤棚の右大将を呼びに出た。

 藤棚の右大将は武士たちの訓練の後、気持ちが高ぶっているのか近衛府で備品の点検をしていることが多いので近衛府の方へと向かうと、その途中で藤棚の右大将が廊下の端にぼんやりとっているのを見つけた。

 訓練の後にぼんやりしているのは珍しい。そう思ってすこし様子を見ていると、藤棚の右大将は小声でこうつぶやいていた。

「南無成就須弥功徳王如来……」

 それを聞いて、摩利の蔵人はすこし驚く。藤棚の右大将が夢で見たことを現実にするまじないをしているところははじめて見たし、そういったまじないを普段しないことを知っているからだ。

 珍しく隙だらけになっている藤棚の右大将にそっと近づき、小声で訊ねる。

「なにか、良い夢でも見たのですか?」

 すると、藤棚の右大将は飛び上がって真っ赤な顔で摩利の蔵人を見る。

 こんなようすの藤棚の右大将は久しぶりに見た気がする。前に見たのは、どのようなときだったか。それを思いだそうと摩利の蔵人が考えを巡らせていると、藤棚の右大将はすこしうつむいて、袍の袖をぎゅっと握ってこう言った。

「実は昨夜、昔から何度も夢に見ている姫君が夢に出たのです」

 それを聞いて摩利の蔵人は思い出す。いつか話していた天竺の姫君を夢に見たのだろう。

 摩利の蔵人は微笑んで、藤棚の右大将に返す。

「なるほど、夢で会いに来るほど天竺の姫君は藤棚の右大将のことを慕っておいでなのですね。

右大将の方から迎えに行ければ良いのですけれど」

 すると、藤棚の右大将は泣きそうな顔をしてこう言った。

「迎えに行きたいのです。

けれども、姫君がどこにいるのかわからないし、わかったとしてもほんとうに私が姫君のところまでたどり着けるかもわからないのです」

 それから、涙を一粒落としてつぶやいた。

「こんなに会いたいのに」

 あまりにも思い詰めたようすの藤棚の右大将を見て、摩利の蔵人はいろいろと思いを巡らせる。もしかしたら、藤棚の右大将が言っている天竺の姫君は、案外近くにいるのかもしれないと思ったのだ。

「その、天竺の姫君は、藤棚の右大将の妻のうち誰かの化身ということはありませんでしょうか。

右大将は妻たちと会う日を決めていらっしゃるようですし、会えない日に寂しがった妻が姿を変えて訴えてきているのではないでしょうか」

 すると、藤棚の右大将は頭を振ってその言葉を否定する。

「きっとそれはないでしょう。

だって姫君は、この国では見たこともないくらい大きな、石造りの宮で暮らしているのですから」

 石造りの宮というのはどういったものだろう。摩利の蔵人がそれを想像しようとしてもうまく思い浮かべられない。

 摩利の蔵人があれこれと想像を試みている間にも、藤棚の右大将はその切ない心情を語り続ける。

「きっと、姫君には夢でしか会えないんです。

今までに何度も、夢の中で姫君と結ばれるよう、姫君の家の外の萩の葉を結んだのに、それなのに……

私は、天竺の歌と踊りを教えてくれた姫君に、こんなにも側にいてほしいのに」

 声を震わせてそう言った藤棚の右大将は、ついにはぼろぼろと泣き出してしまった。

 普段しわしわすることはあっても、このように泣いているところは見もしないし聞きもしない藤棚の右大将の涙に、摩利の蔵人は戸惑うしかない。それと同時に、藤棚の右大将はほんとうに、天竺の姫君のことを恋しいと思っているのだなと感じた。

 藤棚の右大将の涙を袖で拭って、摩利の蔵人があやすように言う。

「天竺の姫君は、昔から夢に出てきているのですよね?

それならきっと、藤棚の右大将と堅い宿縁で結ばれているでしょう。

いつかきっと、もしかしたら今生ではないかもしれませんが、姫君と会えるでしょう」

 それを聞いた藤棚の右大将は、自分でも目を擦って鼻をすする。

「私は、夢の中が現実なのか、今いるこの世が夢なのかがわからないのです」

 震える声で、涙をこらえることもせずに、藤棚の右大将は吐き出すように言う。

「まるで胡蝶の夢のようだ」

 きっと、藤棚の右大将は天竺の姫君が恋しすぎて、夢の中こそ現実であってほしいと願ってしまうのだろう。

 けれども、それは今生きているこの世のすべてを否定することになる。宮中での勤めも、仲睦まじくしている妻たちも、全部。

 摩利の蔵人には、どう声をかけるべきかがわからない。愛しい人に会いたくても会えないという経験をしたことがないからだ。

 宿縁で結ばれた睡蓮の君と沙羅双樹の君は、会いに行こうと思えばそこで待っていてくれるし、そうでなくとも手紙のやりとりはできる。

 けれども、藤棚の右大将は? 会いに行くこともできず、手紙のやりとりもできず、朝が来れば消えてしまう夢の中でしか、恋しくて愛おしい天竺の姫君に会うことができない。

 摩利の蔵人がなにも言えずにいると、藤棚の右大将がぽつりとこう言った。

「天竺の姫君のこの話は、誰にもしないでください」

 その言葉に、摩利の蔵人はじっと藤棚の右大将の目を見返す。

「私がこんなに恋しがっていると知られたら、きっと姫君を探し出して横取りしようとする輩がいるでしょうから」

 藤棚の右大将の必死の言葉に、摩利の蔵人は問いかける。

「どうして、私には話してもいいと思ったのですか?」

 すると、藤棚の右大将は鼻をすすってからこう答える。

「摩利の蔵人なら絶対横取りしないって思った」

「それはそうですね」

 正直言えば、藤棚の右大将に天竺の歌と踊りを教えたという、天竺の姫君がどんな人なのかという興味はある。

 けれども、それはあくまでも人として興味があるだけで、娶りたいとかそういったつもりは一切ないのだ。

 ふと、摩利の蔵人は藤棚の右大将を探していた用件を思い出した。

「話の腰を折るようで申し訳ないのですが、帝がお呼びです。

いつものみなで歌合がしたいと」

 それを聞いた藤棚の右大将は摩利の蔵人の袖をつかんでこう言った。

「歌合の前に、私の歌を聞いてくれませんか」

 藤棚の右大将が自ら歌を詠むなどと言うのもはじめてのことだ。

 摩利の蔵人が微笑んで頷くと、藤棚の右大将は涙を拭って口を開いた。


 君が住む 石造りの宮恋しくて

 胡蝶の姫は夢か現か


 この歌を歌合で詠めば、きっと他のみなも驚いて、藤棚の右大将もまともな歌が詠めるのだと見直しただろう。

 けれども、この歌は誰にでも聞かせていいものではないものだと摩利の蔵人は思った。

 藤棚の右大将が胸に秘めている恋しさは、きっと誰にも聞かせないと、摩利の蔵人は心に決めた。

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ひぇっ…若干藤棚の右大将にヤンデレの気が…
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