第四十四章 受胎告知
羅嗷が去った後、特に悪いことが起こることもなく平穏な日々を過ごしていた。
仕事も終わり、帝がすこしゆっくりしたいというので、今日は特に誰を呼ぶこともなく、摩利の蔵人が何を言うでもなく側についている。新の蔵人は休みを取っているし、内侍司は他の仕事をしに行っているので他には誰もいない。
日頃の疲れが溜まっているのか、帝は目を閉じて船をこいでいる。このまま眠るのであれば、どこかに寄りかからせるか横たわらせるかしないとと摩利の蔵人が思っていると、突然帝がぱちりと目を開いた。
目が覚めたのだろうかと思っていると、几帳の外から足音が聞こえてくる。その足音は几帳の前で止まり、こう声がかかった。
「摩利の蔵人はおられますか?」
静かな女房の声に帝の方を見ると、帝が頷いたので几帳をめくって返事をする。
「はい、おります。何かご用ですか?」
すると、女房は手紙を手渡してきてこう言った。
「百合の女房からの文でございます」
「百合からの?」
突然どうしたのだろうと思いながら手紙を受け取り、女房に一礼をしてから帝の側へと戻る。
「おや、妹君からですか」
興味津々といったようすの帝に、摩利の蔵人は苦笑いを返す。だいぶ前に帝が、妹の百合の女房に興味を示していたことを覚えているのだ。
早く読んで返事を返してやれと帝が言うので手紙を開くと、そこには驚くべきことが書かれていた。
なんと、百合の女房に子供ができたというのだ。
これには摩利の蔵人も混乱する。なんせ、百合の女房が結婚したという話は聞いていないし、養子をとる許しが両親から出ているとも思えない。いったいどういうことなのだろう。
思わず手紙を取り落としそうになってふと、思い当たる節があった。摩利の蔵人はそろりそろりと帝を見て、こう訊ねる。
「帝、妹の百合の女房にややができたそうなのですが、心当たりはございませんか?」
すると、帝はにっこりと笑ってこう答える。
「おや、それはめでたいことです」
「心当たりは?」
摩利の蔵人が圧をかけるようにさらに問うと、帝は口元を扇で隠してこう言った。
「百合の女房も、ずいぶんとかわいらしい人ですよね」
それを聞いて摩利の蔵人はくずおれる。まさか、自分の知らぬ間に百合の女房と帝が逢い引きをしているなどとはつゆにも思っていなかったのだ。
くずおれていると、帝が扇でつついてくる。摩利の蔵人は、失礼だとはわかっていながらも、そのまま帝に言う。
「帝、中宮との間にも子供がいらっしゃらないのに、どうなさるおつもりですか」
すると、帝はころころと笑ってこう返す。
「子供がひとりもいないよりは良いでしょう」
「それはそうですが……」
突然押し寄せてくる衝撃の事実に摩利の蔵人がしおしおとしていると、帝は上機嫌に話し続ける。
「こんなおめでたいことがあったのですから、百合の女房を女御にして良いかどうか、源氏の太政大臣と相談してみましょう。
兄のあなたが四位なのですから、大丈夫でしょうし」
帝はそう言うけれども、四位は殿上人とはいえ、なんとか参内できるといった程度の地位だ。蔵人なら六位から参内できるはできるけれども、それはそれとしてなんにせよ、宮中では言うほど位は高くない。
なので、妹の百合の女房が女御になるとしたら、周りからのやっかみや摩擦が不安なところだ。
とにかくもういっぱいいっぱいになった摩利の蔵人は、なんとか起き上がり帝に訊ねる。
「帝、百合のところへようすをうかがいに行ってもよろしいでしょうか」
行かせないとは言わせないといった気迫を出して言うと、帝は頷きながら答える。
「もちろんですとも。
兄なのですから、妹の具合が心配なのはわかります」
心配なのは具合だけではないのだけれども、とりあえず許可を得ることはできたので、急いで几帳の外に出て房へ向かう。
慌ただしく房に向かう途中、他の女房や殿上人が、なんだなんだといったようすで見てきたけれども、かまっている場合ではない。
房について、いつもの場所に百合の女房がいるのを確認した摩利の蔵人は、声を潜めて話しかける。
「百合、文を読みましたがほんとうですか?」
その問いに、百合の女房はあっけからんと答える。
「うん。ちょっとおなかも出てきた」
「あ……ああ~……」
子供ができておなかが出てくる頃となると、もうだいぶ経っている。こうなるまでにつわりなどでたいへんなはずだったのだけれども、百合の女房は未婚なこともあり、その経験が今までなかったので、ただの体調不良としてやり過ごしてしまっていたのだろう。
またくずおれそうになるのを耐えながら、摩利の蔵人はさらに訊ねる。
「いつから帝と?」
その問いに、百合の女房はきょとんとした声で返す。
「二年くらい前から?」
逢い引きをはじめてからだいぶ経っている。この間、帝の側にずっと仕えていたのにどうして気がつかなかったのだろう。
思わず頭を抱えながら、摩利の蔵人は心配そうに百合の女房に言う。
「中宮はいかがなさっておられますか?
その、百合が中宮から怒られていないかとか、そういう……」
すると、百合の女房はしれっとこんなことを言う。
「私は特に怒られてないけど、帝は怒られやろなぁ」
「ですよね」
帝の手癖の悪さは中宮もよくわかっている。その上で、手を出された女たちも相手が帝ともなれば逆らえないのも中宮はわかっているので、怒りを向ける先となれば帝になるだろう。
もっとも、これも帝が中宮をひときわ大切にしているという事実があるからこそ、怒りを帝に向けられるのだけれども。
摩利の蔵人はため息をついてから、百合の女房に言う。
「とりあえず、ややができたとなれば家に帰っていろいろと準備をしないといけないでしょう。
そのことは中宮には伝えてありますか?」
「そろそろ家に帰って出産準備しないと怒るよ。とは中宮に言われてる」
「そっちの怒られですか」
中宮もなんだかんだで百合の女房のことを気遣ってくれているのだなとありがたく思っていると、百合の女房がすんっとした声で続ける。
「中宮の側にいられないのは心配だけど、明日から家に帰ってお休みすることになってる」
百合の女房はずいぶんと中宮になついているから、中宮の側にいられないことに不満があるのだろう。しかしそれはそれとして、出産するまでは家にいてもらわないと困る。
摩利の蔵人がそう思っていると、突然背後から声が聞こえた。
「百合の女房は明日から家に帰ってしまうのですか。寂しくなりますね」
その声にぎょっとして振り返ると、そこにはいつの間に来たのか帝が立っていた。
「帝、いつの間に?」
摩利の蔵人がうろたえていると、帝はころころと笑っているし、百合の女房はこう言う。
「兄上が来たときからずっといらっしゃったよ?」
それだと怒られ云々の話も聞かれていたことになる。
ずいぶんと失礼な話を聞かせてしまったと摩利の蔵人があわあわしていると、百合の女房はいつも通りのあっけからんした声で言う。
「帝も、気軽にうちにいらしてくださいよ」
「おや、いいのですか?」
帝に気軽に来られたら親がたいへんだ。
「帝、そう気軽に内裏から出てはなりません」
摩利の蔵人がなんとか帝が家に来るのを踏みとどまらせようとしていると、帝はころころと笑う。
「そう言わずに。私も、自分の子供に会うのが楽しみなのですよ」
困った。どうにも話がかみ合わない。
ふと、横から他の女房がやってきて帝に手紙を差し出した。
「帝、中宮からの文でございます」
「おや、どうしたのでしょうね」
手紙を受け取った帝は早速開いて読み、気まずそうな顔をする。
「あの、中宮が呼んでいるので私はそろそろお暇しますね」
そう言って、そそくさと房の奥の方へと歩いて行く帝を見て、ああ、これは怒られが出たんだなと察した摩利の蔵人だった。




