第四十三章 羅嗷が来る
このところにわかに忙しい。
理由は単純で、先月源氏の太政大臣に姫が産まれたのでそのお祝いがせわしなく行われているのだ。
産まれてからまだ一ヶ月。けれどもその一ヶ月の間、姫は元気に過ごしているようで、源氏の太政大臣はだれかれかまわず自慢話を聞かせている。
先日産まれた姫の上の子供たちが産まれたときも、半年はこうだったなとしみじみしつつも、やることが多いことには変わりがない。
忙しい上に、最近はすっかり暑くなった。なるべく無理はしないようにしないとと摩利の蔵人が汗を拭うと、几帳の外から声が聞こえてきた。
「お仕事中失礼します。
陰陽寮の方からお伝えしたいことがあるそうです」
聞こえてきた女房の言葉に、帝が摩利の蔵人の方をちらりと見る。
「陰陽寮から文はあずかっていませんか?」
摩利の蔵人がそう訊ねると女房は、文には書ききれないことらしいので。と答える。
それを聞いて帝の方を見ると、小さく頷いたので、摩利の蔵人は女房にこう返す。
「直ちに陰陽寮へ向かいます」
帝に一礼をしてから几帳の外に出て、摩利の蔵人は陰陽寮へと向かった。
陰陽寮に着くと、どうにも中が騒がしい。
今度はいったいなにがあったのだろうと思いながら、とりあえず陰陽博士のもとへと行く。
「伝えたいことがあると聞いて来たのですが、用事があるのはどなたでしょうか」
摩利の蔵人が御簾越しにそう訊ねると、天文博士が緊迫した表情で御簾をめくり、こう言った。
「今、陰陽博士にも伝えたのですが、晴明が蝕を予言したのです」
「蝕ですか? それは、どちらの」
「羅嗷が来るそうです」
それを聞いて、摩利の蔵人は顔を青くする。羅嗷といえば、日輪を食べてしまう恐ろしいものだ。凶兆以外のなにものでもない。
「羅嗷は、いつごろ来るのでしょうか」
声が震えるのを押さえながら天文博士に訊ねると、天文博士も緊張した面持ちで答える。
「三日後の昼頃現れると、晴明は言っておりました」
「三日後……」
今から対策をすれば羅嗷の厄を防げる。そう思った摩利の蔵人は、天文博士と陰陽博士に一礼をする。
「わかりました。帝にお伝えします。
それと」
摩利の蔵人の言葉を、天文博士と陰陽博士は固唾を飲んで待つ。続けた言葉はこうだ。
「晴明殿は、羅嗷についてなにか言っていましたか?」
その問いに、天文博士は神妙な顔をする。
「嬉しそうに、見張っていると意気込んでおりました」
「ですよね」
凶兆が現れるのにもかかわらず嬉しそうにしていることは不謹慎だとは思うけれども、晴明が深刻そうにしていないのであれば、今回も無事に乗り切れるような気がしてすこしだけ安心した。
帝の元に戻り、羅嗷が現れる旨を伝えると、帝は険しい顔をしてこう言った。
「すぐに御所包みをするよう手配をしてください。
神祇官に文を」
摩利の蔵人と新の蔵人は礼をしてすぐさまに神祇官への手紙を書く。それぞれに違う内容のものを書き終えて女房に託したところでふと、摩利の蔵人が新の蔵人の顔を見ると、ぐっと口を結んで今にも泣きそうな顔をしていた。
こんなようすの新の蔵人を見るのははじめてなので、摩利の蔵人思わず慌てる。
「どうしました。なにか不安なことでも……ありますよね。
大丈夫ですよ。今、御所包みをするよう指示を出したでしょう」
「で、でも……」
震える声を出す新の蔵人に、帝が手招きをしてみせる。誘われるままに新の蔵人が帝の側に行くと、帝は優しく新の蔵人の背中を抱いてこう言った。
「そんなに不安なのなら、羅嗷が去るまで私と一緒に寝ますか?
あなたは独り身ですし、夜中ひとりでいるのも怖いでしょう」
この非常事態でも帝は悪い癖を出すのか。さすがにこれには新の蔵人も呆れるだろうと摩利の蔵人が思っていたら、新の蔵人は意外にも嫌がらず、帝にそのまますがりついている。
なりふり構っていられないほど羅嗷が恐ろしいのかと、摩利の蔵人は意外に思う。
正直言えば、摩利の蔵人も羅嗷は恐ろしい。けれども、普段あれだけ気丈に振る舞っている新の蔵人が、自分よりも羅嗷を恐れるとは思っていなかったのだ。
しかし、どれだけ意外でも怖いものは怖いで仕方がない。悪い癖を出されるのは困るけれども、帝の側にいると安心する気持ちは摩利の蔵人にもわかるし、帝が側にいることを許しているのなら、ここは甘えさせておいた方が新の蔵人のためだろう。
すこし混乱しながら帝が新の蔵人をあやしているところを眺めていると、なんとなく、帝の手つきが艶めかしく見えた。
そして、羅嗷が現れるという予言の日。御所はすっかり藁や板で包まれ、神祇官たちは羅嗷を払うための祈祷の準備をしていた。
晴明が予言したという羅嗷が現れる時刻まで、もう少し。帝に付き添って、摩利の蔵人と新の蔵人も神祇官の元で祈祷がはじまるのを待っていた。
これから祈祷をはじめると、神祇官の樹良が神棚の前に立つ。
そのとき、外から元気な声が聞こえてきた。
「ねえねえ、あのね!」
晴明の声だ。
このまま晴明を放っておいて祈祷の最中邪魔をされたらかなわない。摩利の蔵人がそう思って樹良の方を見ると、樹良も同じ考えのようで、御簾の外を指さしている。
摩利の蔵人が樹良と共に御簾の外に出ると、そこにはきょとんとした顔の晴明が立っていた。
「どうしました、晴明殿。
これから羅嗷を払う祈祷をするのですが」
いかにも苛立ったようすで樹良がそう言うと、晴明は空を指さしてこう言った。
「もうすぐ雨が降るよ」
そう言われて空を見ると、大きな入道雲は浮かんでいるけれども、真っ青に晴れ渡っていて、雨が降る気配など感じられない。
けれども晴明はこう続ける。
「羅嗷が来る頃にねぇ、お空が真っ暗になって、ザーッて雨が降るわよ」
羅嗷が現れると言われたり、その羅嗷を覆い隠す雨が降ると言われたりで頭が追いつかない。摩利の蔵人が額を押さえていると、樹良はきつい口調でこう言う。
「なんですか、神祇官の祈祷など必要ないというのですか」
すると、晴明は泣きそうな顔でぐっと口を結んでからこう返す。
「そうじゃないけど、でも、今日は雨が降るのよぉ……」
その瞬間、冷たい風が吹いた。
瞬く間に空が暗くなっていき、黒い雲が日輪を覆い隠した。その瞬間、かすかに羅嗷が日輪を喰っているのが見えたけれども、それもすぐに見えなくなった。
ぽつり。と音がしたのもつかの間、瞬く間に地面を叩きつけるような雨が降りだしたので、摩利の蔵人は樹良と晴明に声をかけて御簾の中へと入る。
中にいた神祇官と帝、それに新の蔵人は先ほどのやりとりを聞いていたようで、みな晴明のことを見ている。
「……晴明殿、羅嗷を払うまじないをしたのですか?」
帝がそう訊ねると、晴明は頭を左右に振ってこう答える。
「私はなにもしてないよ。
あのね、雨が降るってわかったのは今朝になってからなの」
しょんぼりとしてしまっている晴明に、樹良が先ほどの無礼を詫びてから声をかける。
「晴明殿、よくやりました」
神祇官から陰陽師にかける褒め言葉としては精一杯のものなのだろう。けれども、晴明はしょんぼりしたままこうつぶやく。
「羅嗷が見えないよぉ……」
それは見えなくていいやつだ。晴明以外のその場にいる全員がそう思ったけれども、口には出さない。
ふと、新の蔵人が帝に訊ねた。
「どうしてこれだけ予言を当てられる晴明殿が、天文博士でないのですか?」
その問いに、帝は曖昧に笑う。
「晴明殿はその、予言はできても吉凶がわからないので」
「なるほど」
吉凶のわからない晴明が予言した雨雲は、その日の夜まで空を覆っていた。
翌日には日輪もいつも通りで、無事に御所包みは解かれたのだった。




