第四十二章 吉か凶か
あの日現れた客星は未だ消えていない。
客星の吉凶は結局陰陽師だけでは占うことができず、審神者に神を降ろさせてお告げを聞くこととなった。
結果として、良いことも悪いことも大きなことが起きる。ということがわかっただけで、吉兆なのか凶兆なのかはわからない。
そのようなわけで、もしもの時に備え、いつもの仕事風景に帝の側に控える勝鬨の左大将を加えて、なんとか日常を送っている。
良いことも悪いことも大きなことが起きる。そのことに、摩利の蔵人はひとつ心当たりがあった。なにかというと、源氏の太政大臣の妻、花散里の君が身重になってそろそろ十ヶ月が経とうとしているのだ。
帝は源氏の太政大臣の子供が生まれることを楽しみにしているけれども、源氏の太政大臣の子供が将来、帝やこれから生まれるであろうその子供に、どのような影響を及ぼすかはまだ全くわからない。
父親の源氏の太政大臣のように、帝に忠誠を誓ってくれればいいけれども、反乱の火種になってもらっては困る。それを考えると、源氏の太政大臣の子供が生まれるというのは、良いことでもあるし悪いことでもある。しかも大きなことだ。
摩利の蔵人が悶々としながら帝の言葉を書き留めていると、几帳の向こうからずっと足音が聞こえてきている。
風が吹いたはずみで几帳がめくれたときに見た限りでは、源氏の太政大臣が落ち着きもなく廊下を右往左往しているようだ。
はじめのうちは帝の、源氏の太政大臣も客星のことで不安なのだろう。という言葉で納得していたけれども、それにしても仕事中にこんなにうろうろされていては気になって仕方がない。
どうしたものかと摩利の蔵人がちらちらと几帳の方を見ていると、新の蔵人が几帳の方を向いて口を開いた。
「源氏の太政大臣、どうなさったのですか」
かなりきつい口調だ。もしかしたら仕事中にうろつかれて、気が立ってしまったのかもしれない。
帝が扇で几帳の方を指すので、新の蔵人が几帳をめくると源氏の太政大臣が膝をついて中へと入ってくる。しかし、その途中で体勢を崩して転んでしまうなどしていて、ほんとうに落ち着かないようすだ。
「兄上落ち着いて。どうしたのですか?」
帝がおっとりとそう訊ねると、源氏の太政大臣は両手の指を絡みつかせながらこう答える。
「実は、花散里が今朝方産気づいて、今出産中なのです。
それでどうしても落ち着かなくて……」
それを聞いた帝は。心底心配そうに声をかける。
「それなら、花散里の君の側にいてやるのがいいでしょうに」
気遣いの言葉を聞いた源氏の太政大臣は、それでもと首を横に振る。
「そういうわけにはいきません。
産穢に触れたら参内できなくなってしまいます」
産穢に触れて参内できなくなると困るというのは、摩利の蔵人にもよくわかる。けれども、ここで落ち着かずに不安がられていてもどうしようもないのだ。
とりあえず落ち着いてもらおうと、摩利の蔵人は源氏の太政大臣にこう提案する。
「源氏の太政大臣、無事に生まれるよう、聖や阿闍梨に祈祷させるのはどうでしょう。
そうすれば、きっと花散里の君も安心なさるでしょう」
その言葉に、源氏の太政大臣涙目になってこう返す。
「聖や阿闍梨はすでに呼んであるのです」
「なら、他に打つ手はないので安心してお待ちになってはどうでしょう」
「他に打つ手がないのはわかっていますが、それはそれとして不安なのです!」
めんどくさいなぁ。摩利の蔵人が口に出さずにそう思うと、新の蔵人もあきらかにめんどくさそうな顔をしている。それはそう。
「それでしたら兄上、やはり花散里の君の側にいたほうが花散里の君も兄上も安心するのではないですか?
しばらく休みを取ってもかまいませんから」
「帝、しかし……」
どうにも煮え切らない態度の源氏の太政大臣に、帝の側にいる勝鬨の左大将が険しい表情で言う。
「なにを優柔不断なことをしておられるのです。
こういうときは妻を守るのが男の勤めです。
帝からの許しがあるのですから、なにを迷う必要がありますか」
続けて、新の蔵人も言う。
「勝鬨の左大将の言うとおりです。
太政大臣は女ひとり守れない方ではないでしょう?」
それを聞いた源氏の太政大臣は、ぐっと口を結んでから背筋を伸ばす。
「わかりました。
これから花散里の元へと向かいます」
それから、帝に深々と礼をして几帳の外へ向かおうとしたとき、几帳の向こうから女房の声が聞こえた。
「源氏の太政大臣、こちらにおられると伺ったのですが」
女房の声に、源氏の太政大臣は訝しみながら返す。
「いますが、何の用ですか?」
「末摘花の君からの文をあずかっております」
源氏の太政大臣の表情が、喜びともおそれともつかないものになる。これが吉報なのかそうでないのか。手紙を見るまではわからない。
そっと几帳をめくって手紙を受け取った源氏の太政大臣は、帝に断りを入れてから早速手紙を開く。緊張していた表情が緩んで、涙をぼろぼろとこぼしはじめた。
「いかがしましたか?」
摩利の蔵人が簡潔に訊ねると、源氏の太政大臣は鼻をすすりながらこう答えた。
「花散里が無事に子供を産んだそうです。
元気な……元気な姫だと……」
その場にいる全員の表情が明るくなる。
「兄上、お急ぎになってください!」
帝がそう言うと、勝鬨の左大将も勢いよく言う。
「その通りです。一刻も早く花散里の君と姫君に顔見せなさってください」
摩利の蔵人も、礼をして口を開く。
「姫君も早く父君にお会いしたいでしょう。
もう産穢の心配もありませんし、お急ぎを」
三人の言葉に、源氏の太政大臣は力強く頷いて涙を拭い、末摘花の君からの手紙を握る。
「それでは、お言葉に甘えて花散里の元へと行かせていただきます。
お騒がせしました」
大急ぎで几帳の外に出て廊下を走っていく足音を聞きながら、ほんとうにお騒がせだったなぁ。と摩利の蔵人は思う。
摩利の蔵人と新の蔵人が落ち着いた顔をしたところで、内侍司が帝に話しかけた。
「帝、源氏の太政大臣に姫君が産まれたとなると、祝いの品を贈らねばなりませんが、どうなさいますか?」
その言葉に、帝はころころと笑って答える。
「できればおもちゃなど贈りたいところですが、姫君がどんなもので喜ぶかはまだわかりませんからね。
それよりも、寒さで凍えないよう絹を贈りましょう」
「かしこまりました」
深々と礼をする内侍司にちらりと視線を送られた摩利の蔵人と新の蔵人も、源氏の太政大臣に贈る祝いの品を用意しなければとはっとする。
蔵人ふたりのようすに気づいたのか、帝はころころと笑いながらこんなことを言う。
「こんなおめでたいことがあったのでは、仕事どころではありませんね。
お祝いの準備をしなくては」
それを聞いた新の蔵人が、にっこりと笑ってこう返す。
「そうですね、大変おめでたいことです。
早く仕事を終わらせて、祝い事の準備をしましょう」
あくまでも仕事を後回しにしないという姿勢を崩さない。
この強さ、見習いたい。と摩利の蔵人が思っていると、内侍司も新の蔵人の言葉に乗って粛々と仕事を再開している。
流されるように帝も仕事を再開し、摩利の蔵人も筆を手に取った。
それにしても、源氏の太政大臣の子供は姫だったか。姫となると、ゆくゆくは入内させて源氏の太政大臣が政権を握るということもできなくはないし、考えられない可能性ではない。
けれども、源氏の太政大臣はそれをしないだろう。根拠はないけれども、その確信だけがあった。
源氏の太政大臣のように、帝にも早く子供が産まれればとは摩利の蔵人も思う。けれども、こればかりは周りの者がどうこうしようとなんともならないものなのだ。
ふと、もう思い出になってしまった息子のことを思い出す。
源氏の太政大臣の姫君は、息子のようになってほしくない。健やかに育ってほしい。
仮に帝の脅威になる存在だったとしても、子供にはまだ罪はないのだから。




