第四十章 人の顔
ある日の仕事終わりに、帝がふとこう訊ねた。
「ところで、このところなにかおもしろい話はありませんか?
宮中の噂は、どうにも私の耳には入らないのですよ」
帝の言うとおり、宮中にいる殿上人も女房も、そしておそらくは中宮も、根も葉もない噂は帝の耳にはなるべく入れないようにしている。
それはひとえに、帝のことをいいように利用しようとする者から守るためなのだけれども、噂を聞けない側である帝からすれば、どんなことが人々の間で話題になっているのかがわからないのは退屈だし、不安な気持ちもあるだろう。
しかし、帝に話をしようにも、実際のところ摩利の蔵人も噂には疎い。新の蔵人や内侍司なら、帝の耳に入れても当たり障りのない噂を知らないだろうか。
そう思った摩利の蔵人が、新の蔵人と内侍司に目配せをすると、新の蔵人がわざとらしくため息をついて口を開いた。
「実は、源氏の太政大臣の妻たちについて不名誉な噂が立っております」
それを聞いた帝は、かすかに眉を寄せて小声で訊ねる。
「それはいったいどのような?
場合によっては私が口を出さなくてはなりません」
帝の言葉に、新の蔵人はそっと袖で口元を隠して、いかにも心を痛めているといった風に答える。
「いえ、花散里の君や末摘花の君が不義を働いてるとか、そういったものではありません。
ただ……あの方々は不美人だという噂が絶えなくて……
太政大臣の妻ともあろう方が、そうやすやすと顔を見せるはずがありません。なのにこう言った根も葉もない噂が広まるのはどうしたものかと」
たしかに、この噂は聞いていて気持ちのいいものではないし、なにより源氏の太政大臣の耳に入るとまずい。ここで帝が否定してくれれば、源氏の太政大臣の耳に入る前にこの噂を消す切り札として使えると新の蔵人は考えたのだろう。
なるほど、よく考えたものだと摩利の蔵人が感心していると、それを知って知らずか帝がころころと笑ってこう言う。
「そんな噂を真に受けている人たちは、女というものをよくわかっていないようですね。
女の美点は顔だけではないのですよ」
ほぼ予想通りの反応が返ってきた。
とりあえず、この言葉だけでも噂を消すのには使えるだろうけれども、それはそれとして帝にはもう少し自重してもらいたい。摩利の蔵人はそう思った。
そのとき、突然几帳の外から声が聞こえた。
「失礼ですが、誰が不美人だと?」
それを聞いて、その場の全員の表情が固まる。源氏の太政大臣の声だ。
多少のことでは動じない新の蔵人が動揺している。帝も、口元に引きつった笑みを浮かべている。もちろん、摩利の蔵人も内侍司もまずいことになったと思っている。
「お邪魔してもよろしいですか?」
源氏の太政大臣の威圧的な声に、帝が声をひっくり返して返す。
「どうぞ兄上、入ってください。
摩利の蔵人、几帳を」
帝の指示通り、摩利の蔵人が几帳により、さっとめくると源氏の太政大臣が膝をついて中へと入ってくる。その表情は遺憾の意といったようすだ。
これはさすがに源氏の太政大臣も怒っているだろう。摩利の蔵人がそう思って新の蔵人の方を見ると、すでに覚悟を決めた顔をしている。
いったいどのように怒りを買うのか。そんな空気の中、源氏の太政大臣が言ったのはこんなことだった。
「以前より疑問なのですが、不美人というのはいったいどういうものなのですか?」
意外にもこういったところの感覚は兄弟である帝に似ているのか。摩利の蔵人はそう思いながら、源氏の太政大臣の問いに返す。
「そうですね。どういったものを……というのは難しい話です。
なにせ、顔の作りは人それぞれ好みがありますから」
曖昧になんとかごまかそうとする摩利の蔵人の言葉に、源氏の太政大臣は難しい顔をしてさらに言う。
「好みもなにも、人の顔なんてみな似たようなものでしょう」
「え?」
それを聞いて、摩利の蔵人は改めてその場にいる全員の顔を見る。源氏の太政大臣、帝、新の蔵人、内侍司。内侍司の顔はまじまじと見ると失礼なのでちらりと見ただけだけれども、明らかに全員が違う造作だ。あえて言うなら、帝と源氏の太政大臣の鼻筋の通り方が似ているくらいだろうか。
「似たような、というのはいったい……?」
摩利の蔵人が源氏の太政大臣に訊ねると、源氏の太政大臣は当然といった顔でこう返す。
「鼻と口がひとつずつで、目と耳がふたつずつ。みな同じでしょう」
ざっくりすぎでは? 摩利の蔵人は訝しんだ。
源氏の太政大臣の言葉に戸惑っているのは摩利の蔵人だけではない、新の蔵人も、内侍司も、帝も同様だ。
「その、鼻と口と目と耳のつくりが、人それぞれ違うのですが」
新の蔵人が珍しく歯切れの悪いようすでそう言うと、源氏の太政大臣は眉根を寄せて難しい顔をする。
「そうなのですか?
私には人の顔はすべて同じに見えるのですが……」
それを聞いて、摩利の蔵人は驚きを隠せない。
「あの、それでしたら、源氏の太政大臣はどのようにして人を見分けているのですか?」
そう、人の顔がみな同じに見えるのなら、見分けることなどできないと思ったのだ。
摩利の蔵人の疑問に、源氏の太政大臣は当然と言ったように返す。
「服の作りや着方、それに身のこなしや声で見分けませんか?」
ずっとそんな方法で見分けていたのかと摩利の蔵人はさらに驚く。
たしかに、摩利の蔵人が蔵人頭になったばかりの頃、源氏の太政大臣にはよく前任の蔵人頭と間違われていた。
今になってそのことを思い出して、なるほど、そういうことだったのかと納得する。
そこへ、帝が興味津々といったようすで源氏の太政大臣にこう訊ねた。
「それでは源氏の太政大臣、私が黒い袍を着たら摩利の蔵人と見分けがつかなくなるのでしょうか」
なにかを期待しているかのような帝の問いに、源氏の太政大臣は澄ました顔で釘を刺すように言う。
「帝と摩利の蔵人では背丈が全然違いますから、わかりますよ。
なにより、帝の身のこなしは気品がありますから」
それを聞いた帝はすこしがっかりした顔をしている。おそらく、いざとなったら摩利の蔵人になりすまして女のところに忍ぼうとでも思っていたのだろう。
濡れ衣はかぶせられなさそうで良かったと摩利の蔵人が安心していると、新の蔵人がそっと摩利の蔵人の袖を引く。
なにかと思って視線を返しそっと耳をそちらに向けると、新の蔵人が小声でこう囁いた。
「これはまずいです。
源氏の太政大臣がほんとうに人の顔の見分けがつかないとなると、それを利用して不届き者がだまそうとするかもしれません。
くれぐれもこの話は他には漏れないように気を払ってください」
摩利の蔵人は小さく頷き、内侍司の方をちらりとみやる。それから、唇だけを動かして、このことは内密に。と伝える。内侍司も小さく頷いた。
帝にはいつどうやってこのことを伝えるか。できれば源氏の太政大臣に悟られないように伝えたい。摩利の蔵人がそう考えていると、新の蔵人がまた小声で囁く。
「帝には私が」
どのように隙を見て伝えるつもりなのかはわからないけれども、新の蔵人に策があるなら任せた方がいいだろう。
帝と源氏の太政大臣が気づかないところでそういったやりとりをしていると、帝はいつものようにころころと笑って源氏の太政大臣に言う。
「いやはや、どんなに顔を似せても兄上にはお見通しというわけですか。
困りました。これは一筋縄ではいきませんね」
「そうなのですか?」
機嫌良く笑う帝を前に、源氏の太政大臣はきょとんとしている。気がつけば、妻ふたりを不美人だと言われた怒りも収まったようだった。
とりあえずこの場は丸く収まったけれども、懸念材料がひとつ増えてしまった。
摩利の蔵人はちらりと新の蔵人に視線をやって、頼みましたよ。と唇を動かした。




