第四章 花の灌仏会
この日、宮中は大忙しだった。
摩利の蔵人と新の蔵人は、女房たちとともに内裏の中に花御堂をしつらえている。
今日は灌仏会ということで、山寺から高名な聖を呼んでいるのだ。
花御堂の準備ができるまでの間、聖の相手は源氏の太政大臣が務めてくれているけれども、あまり聖を待たせるわけにもいかないし、陰陽師が占った吉時にも間に合わせたかった。
誕生仏を安置する花御堂を組み立てるのは力仕事だ。いつもなら雑事はおおむね女房に任せるものだけれども、こればかりは細腕の女房がやるのではつらいだろうという帝の思し召しで、摩利の蔵人と新の蔵人がこの仕事を任された。
摩利の蔵人としては帝の言い分に異論はないし、そこまで負担が大きい仕事ではないのだけれども、花御堂の組み立てで力を使った新の蔵人は、顔を赤くして息を切らせていた。
「新の蔵人、大丈夫ですか?」
思わず心配になった摩利の蔵人がそう訊ねると、新の蔵人は深く息を吐いてからこう返した。
「大丈夫です。こういった仕事を女房にやらせるわけにもいかないですし」
花御堂の組み立てで擦れてしまったのか、新の蔵人が赤くなっている手のひらを隠しているのを見て、摩利の蔵人はやはり心配になる。
なんせ、月に何日もまとめて休まないといけないほどか弱いのだ。もしかしたら、花御堂の組み立ては新の蔵人にもだいぶ負担かもしれない。
とはいえ、なんだかんだで花御堂は組み立て終わってしまった。新の蔵人にも花御堂の組み立てをやらせるかどうかは、来年以降の帝の判断に任せることにした。
花御堂に花を供えるのを女房たちに任せ、蔵人たちはその場を離れる。
摩利の蔵人は誕生仏を取ってくるために宝物庫に向かい、新の蔵人は源氏の太政大臣のところにいる聖を呼びに行った。
薄暗い宝物庫の中にある厨子を開くと、その中には右手を掲げている、金属製の人型の像が納められている。これが誕生仏だ。
もう長いこと丁寧に手入れされ続けてきたせいか、ところどころ擦れて減っている仏の像は、見る度に心が安らぐ。なんとなく、仏の救いは必ず自分にも施されると思えてしまうのだ。
その誕生仏を絹の布でくるんで花御堂へと運んで行く。花御堂のあるところに戻ると、すでに新の蔵人と、頭をつるりとそり上げた聖がそこにいた。
「こちらをよろしくお願いします」
摩利の蔵人は、いかにも威厳のある表情の聖に恭しく誕生仏を両手で差し出す。
一礼をして絹の布ごと誕生仏を受け取った聖は、布を丁寧にほどいて誕生仏を花御堂の中央に据えた。
それを確認した摩利の蔵人は、新の蔵人に声をかける。
「私が甘茶を持ってきますから、新の蔵人は帝をお連れしてください」
「私がですか? わかりました」
それからまた、蔵人たちは二手に分かれた。
花御堂から離れた厨で、用意された甘茶を銚子にたっぷりとそそぎ、摩利の蔵人が厨から運び出す。
金属製で、しかもなみなみと甘茶が注がれた銚子は、大臣大饗の時の徳利ほどではないけれどもずいぶんと重い。
本来なら帝を呼びに行くのは蔵人頭である摩利の蔵人の役割なのだけれども、新の蔵人のあの、花御堂の組み立てで擦れて赤くなった手を見てしまうと、こんなに重い物を持たせるのは気が引けたのだ。
そのことを帝に咎められる可能性はある。けれども、事情を話せば少なくとも、新の蔵人には悪いようにはしないだろうと摩利の蔵人は思っている。なんせ帝は、あれだけ新の蔵人のことを気遣っていたのだから。
ぼんやりと宮中を歩いているうちに、朗々とした声が聞こえてくる。これは聖がお経を上げる声だ。摩利の蔵人はまた花御堂の所へと戻ってきていた。
そこの手前はすでに、帝を連れてきたようすの新の蔵人が控えている。新の蔵人が視線を花御堂のほうへとやるのでそちらをのぞき込むと、花御堂の前に聖が、聖の手前には帝が座っていた。
摩利の蔵人は膝をついて帝の側へと進み寄り、重い銚子を帝へと捧げる。それを見た帝は立ち上がり、銚子を受け取って、花御堂の中に据えられた誕生仏の頭から、あたたかい甘茶をたっぷりと注いだ。
香の煙に混じって、甘茶独特の甘く、枯れたような匂いが漂う。
聖の上げるお経に、香と甘茶の匂い。それに、花御堂に供えられた花に彩られた帝は、まさに人々の平安を祈ってくれているのだと、摩利の蔵人はしみじみと感じた。
ほんとうは、帝も自分の身のことを祈っているのかもしれない。人々の平安を祈っているだろうというのは、摩利の蔵人の勝手な思い込みだ。
けれども、帝はそういった思い込みを咎めることはしない。違ったのなら違ったで、いつものようにころころと笑って、やさしく否定するだけだ。そしてきっとこう言うのだろう。あなたはあなたのことを祈りなさい。と。
帝が銚子から甘茶を注ぎ終わり聖の前に座り直した後、源氏の太政大臣とその他の公卿や上達部たちが、柄杓を使って甘茶をすくって誕生仏に注いでいく。
みな、どのような祈りを持っているのだろうと思いながらぼんやりとそのようすを眺めていく。
そうしているうちに、五位以上の上達部たちが甘茶を注ぎ終わったので、摩利の蔵人も立ち上がって花御堂に寄り、柄杓を持って丁寧に甘茶を誕生仏に注ぐ。
なにを祈ろうとしていたのだろう。思い出せない。そうだ、帝ならきっと、自分のことを祈れと言うだろう。ぼんやりとそう思った摩利の蔵人は、柄杓を置いてから誕生仏に手を合わせ、自分の家族と、家族を取り巻く人々と、そしてその人たちと関わりのあるこの世の人々の心が、みな平安であるようにと祈った。
摩利の蔵人が花御堂から下がった後には、新の蔵人が甘茶を注ぎ、他の蔵人たちがそれに続く。
蔵人たちが甘茶を注ぎ祈り終わったら、この後は中宮と女房たちが甘茶を注ぎに来るので、帝以下男たちはその場から退出した。
みなちりぢりになっていく中、帝が摩利の蔵人と新の蔵人に言う。
「このあと、いつものみなさんを集めてくれませんか」
「かしこまりました」
「直ちに」
摩利の蔵人と新の蔵人が返事を返し、目配せをする。摩利の蔵人はすぐさまに周囲を見回し、帝の側に源氏の太政大臣がいるのを確認してから藤棚の右大将の後を追い、新の蔵人はすでに姿を消している椿の中将を探しに行った。
藤棚の右大将はすぐに捕まえることができたので、帝がいる場所へと向かう。風で揺れる几帳を少しめくると、中では帝と源氏の太政大臣が談笑している。
「藤棚の右大将をお連れしました」
摩利の蔵人がそう声をかけると、入るようにと返事が来る。摩利の蔵人と藤棚の右大将は膝をつき、そのまま帝の側へと寄る。
そして少し経ったところで、几帳の外から声が聞こえた。新の蔵人が椿の中将を連れてきたようだった。
几帳をめくり、膝をついて帝の前に進んでくる新の蔵人と椿の中将。そのふたりに、足を崩して楽にするようにと帝が言う。
帝が希望したので、しばらくみなで談笑していると、聖の弟子が甘茶を持ってきた。それを飲みながらみな仏のありがたさを噛みしめているようだった。
ふと、帝がつぶやく。
「こんな時、中宮も一緒にいられるといいのですが」
灌仏会などというめでたい日なのだ。大切な人と一緒に過ごしたいという気持ちは摩利の蔵人にもわかる。
けれども、源氏の太政大臣はたしなめるようにこう言った。
「まさか中宮が帝以外の男たちに顔を見せるわけにもいかないでしょう。
帝も、中宮の顔を他の男に見られるのはいやでしょう」
「それは、嫌ですが。
でも、せっかくの灌仏会なのですし」
すこしだけしょんぼりしてしまった帝のようすを見て、摩利の蔵人はなんとなく微笑ましくなってしまう。なんだかんだで、帝は中宮のことを大切にしているのだ。
仲良く話している帝と源氏の太政大臣を見て、摩利の蔵人は今頃妻たちも潅仏会を行っているだろうかと思う。
あとで手紙をしたためて訊いてみるかと考えていると、新の蔵人が肘でつついて小声でこう言った。
「妻に会いに行けばよろしいのでは?」
「……そうですね」
なんでも見透かしてしまう新の蔵人の勘の鋭さはたいしたものだ。そう感心しながらも、今夜は妻の元へ行こうかと、摩利の蔵人は思いを巡らせた。




