第三十九章 宮中の子供
「摩利の蔵人、これを中宮に届けてくれませんか?」
いつも通りの仕事の後、いつになくもじもじしたようすの帝から手紙を渡された。
摩利の蔵人はきょとんとして帝に訊ねる。
「中宮に渡す手紙なら、ご自分でお届けになった方が中宮も喜ばれるのではないでしょうか」
すると、帝は袖で顔を隠してこう返す。
「直接渡すのは恥ずかしいのです。
その、目の前で読まれてしまうと……」
このようすだと、中宮に対するのろけをこの手紙にしたためているのだなと察した摩利の蔵人は、一礼をして返事をする。
「かしこまりました。中宮付きの女房に渡して参ります」
「くれぐれも、くれぐれもよろしく頼みますよ」
帝の側に新の蔵人だけを残して、摩利の蔵人は几帳の外へ出て行く。
ほんとうは内侍司も帝の側にいてくれた方が安心なのだけれども、内侍司は先ほど帝から言いつかって院のところへと行っている。
けれども、このところは不届き者も現れていないし、いざとなったら新の蔵人も多少は戦える。なんとかなるだろう。
内裏の中を歩き、房へと向かう。帝からの手紙を託すなら、妹の百合の女房か慎み深い石蕗の君がいいだろうかと考える。
そんなことを考えながら房にたどり着き、まずは百合の女房の様子をうかがう。どうやら中にはいないようなので、今は中宮のところにいるのだろう。
それならばとすこし進み、石蕗の君の房の前に立つ。降ろされた御簾の前でじっと耳を澄ませると、かすかに紙の音がした。
石蕗の君は物語を書いているところなのだろうか。だとしたら、今話しかけると機嫌を損ねるかもしれない。そんなことを椿の中将を思い出しながら考える。
けれども、帝から託された手紙をいつまでも持っているわけにもいかないので、摩利の蔵人は御簾の向こうに声をかけた。
「石蕗、いますか?
帝からの文を中宮にお届けしてほしいのですが」
すると、衣擦れの音がして御簾越しに声が聞こえてきた。
「かしこまりました。少々お待ちください」
布が揺れる音が聞こえたので、裳をつけて唐衣を着て、中宮の元へ行く準備をしているのだろう。間に御簾があるとはいえ、あまりじっと見ているのはよくないなと思った摩利の蔵人は御簾に背を向ける。
すこし待っていると、御簾を上げる音がして、中から石蕗の君が出てきた。扇で顔を隠してはいるけれども、扇で隠しきれていない髪は、しっとりとしたつややかさがある。
摩利の蔵人は帝からの手紙を石蕗の君に渡し、軽く挨拶をして戻ろうとした。
「あの、摩利の蔵人」
突然、石蕗の君の方から声をかけられて足を止める。
「どうしました?」
石蕗の君が物語を書くことと仕事のこと以外で人と関わることは珍しいので思わず驚くと、石蕗の君が戸惑ったような声でこう言った。
「このところ、宮中で誰とも知らない子供を見かけるという噂があるのです。
私も、ここにいてたしかに子供の声と足音を聞いております。
気に留めるほどのことでもないかもしれませんが、よからぬことが続いた後ですので、もしものために帝にこのことを申し上げておいてください」
それを聞いた摩利の蔵人は、わかりました。と返して廊下を歩き出す。
誰とも知らない子供。いったい誰の子供だろうか。殿上童であるならなにも問題はないけれども、そうでないなら殿上人の誰かが自分の子供を連れてきているのかもしれない。
そうだとしたら、少々まずい。子供に宮中のようすを探らせるということもあるだろう。殿上童はきっと、その知らない子供のことを疑わない。宮中の話を誰かわからない子供に話してしまう可能性があるのだ。
そう、それが外に漏れたらまずい話であっても。
困ったことになったと思いながら内裏の廊下を歩いていると、向こうから小さな足音が聞こえてきた。どうやら子供が走っているようだ。
宮中で走るなんて、殿上童としてはしたない。そう思った瞬間、見知らぬ子供が姿を現した。
この子供は殿上童ではない。おそらく、石蕗の君が話していた子供だ。
すぐさまに殿上童全員の顔を思い浮かべてそう確信した摩利の蔵人は、声を上げて走ってくる子供を捕獲しようと腰を落として待ち構えたけれども、子供は軽い身のこなしで摩利の蔵人を避けて通り過ぎていく。
すぐさまに子供の方を振り向き、摩利の蔵人はその後を追う。
走って追っているのに、子供に追いつけない。どういうことだと思っていると、子供が廊下の角を曲がった。
あの先には房がある。誰か女房が捕まえていてくれればいいのだけれど。
そう思いながら角を曲がると、そこには誰もなかった。
御簾を上げた音もしなかったし、御簾を降ろした音もしなかった。それになにより、あの子供の声がどこからも聞こえてこない。あの子供は、たちまちのうちに姿を消してしまった。
あの子供はいったいなんだったのだろう。そう思って立ち尽くしていると、急に聞き慣れない声が耳に入る。
「こら、人間のすみかに行ってはいけないよ」
明らかに男の声だ。自分以外の男が房のどこかに潜んでいるのだろうか。それにしては、それらしき女房の話し声は聞こえない。
それに、言葉の内容も気にかかる。あの声も、あの子供も、あやかしかなにかなのだろうか。
狐につままれたような心地で、摩利の蔵人は帝の元へと戻る。それから、帝に先ほどの子供の話をした。
驚いたような顔をする帝の横で、新の蔵人が難しい顔をしている。
「いったい何者でしょう。
また不届き者があやしい動きをしていなければいいのですが」
新の蔵人の言葉に頷き、帝が言う。
「その子供が何者か、神祇官に占わせましょう。
今回は私も行きます」
帝が立ち上がって几帳の外へ出るので、摩利の蔵人と新の蔵人もそれに続く。
いつもは柔らかい帝の雰囲気が堅くなっている。例の子供が何者かの差し金ではないかと危惧しているのだろう。
神祇官の元へ行き、あの子供のことを占うよう指示を出すと、神祇官たちは直ちに亀卜の準備をはじめた。帝がこの場にいるからだろうか、いつもよりも手際がいい。
準備が整い、神祇官が占いをはじめる。摩利の蔵人と新の蔵人は、帝の両脇を固めて座っている。
亀の甲を焼く匂いを感じていることしばらく、占っていた神祇官が占いの締めをして向き直り、礼をしてこう言った。
「あの子供には触れてはならないと出ました」
いったいどういうことだろう。誰かもわからない子供を宮中で遊ばせておくわけにはいかないのに。
摩利の蔵人が疑問に思っていると、神祇官はこう続けた。
「あの子供に害をなせば、また大きな災いが起こるでしょう」
それを聞いた帝は、いつになく固い声で問いかける。
「それはなぜか」
いつもよりも威圧的な帝の声を聞いて、摩利の蔵人が不届き者が乱を起こしたときのことを思い出して冷や汗をかいていると、神祇官はこう答えた。
「あの子供はどうやら、まだ幼い神のようです。
きっと、宮中が珍しくて駆け回っているのでしょう」
それを聞いて、摩利の蔵人は驚きを隠せない。まさか、神が宮中にいるなどということは想像もしていなかったからだ。
それは帝も同じようで、目をまるくしてぽかんとしている。
それから、いつものようにころころと笑う。
「なるほど。そういうことでしたか。
それなら、その子供の神が宮中に飽きないよう、いつでも食べられるお菓子など用意しておきましょうか」
その言葉に、新の蔵人が即座に返す。
「でしたら、長持ちする唐果物などがいいでしょう。
神はいつおわすかわかりませんから」
帝は満足そうに頷いて、女房に用意させようと言った。
そうして、宮中の何カ所かに台盤に乗せた唐果物が置かれるようになった。
時々唐果物入れ変えているのだけれども、そのときにたしかに数が減っていることがあった。
神が食べているのか、それとも他の殿上童が食べているのかはわからないけれども。




