第三十八章 上賀茂神社へ
忙しかった一月も終わり、今日も帝の元で仕事をする。
今日の分の書類の確認が一通り終わったところで、内侍司が帝に訊ねた。
「帝、今年の上賀茂神社への参拝はどうなさいますか?」
その問いに、帝はころころと笑って答える。
「もちろん行きますよ。堂々と大内裏を出られる数少ない機会ですからね」
帝はその立場上、大内裏どころか内裏を出ることすら難しい。周りのみなはそれが当たり前だと思っているけれども、冷静に考えてみれば、そこまで広くない内裏から満足に出ることもできない生活というのは窮屈なものだろう。
それに思い至った摩利の蔵人は、是非とも帝が上賀茂神社に参拝できるよう手配したいと考えたけれども、あることに気がついた。
「帝、上賀茂神社に参拝なさるのはいいのですが、今まで行幸の時に随身をしていた者が去年受領になって筑紫へと行っております。
その後他の随身を指名した記録がないのですが、どうなさいますか?」
それを聞いた帝はきょとんとした顔をして訊ね返す。
「随身の任命をしていませんでしたっけ?」
「そうですね。こちらの確認漏れで帝に申し上げ忘れていたようで……」
摩利の蔵人が申し訳なさそうに平伏すると、新の蔵人と内侍司も続けて平伏した。まさか三人がかりで確認をして、今更不手際があったことに気がつくなどというのはとんでもない失態だ。
これはさすがに帝も怒るだろう。摩利の蔵人がそう思っていると、帝はころころと笑ってこう言った。
「なるほど。それですと、今随身がいないのは摩利の蔵人の責任ですね」
「は、はい。申し訳ありません……」
「でしたら、摩利の蔵人に責任をとってもらいましょう」
責任をとるとなると、良くて降格、悪くて椿の中将の出番だ。どうなるのだろうと摩利の蔵人が背中に冷や汗をかいていると、帝が閉じた扇で摩利の蔵人の額をつついて続ける。
「今度の上賀茂神社への参拝の際は、摩利の蔵人に随身をしてもらいます」
「はい?」
随身といえば、近衛府の者が担当するものだ。帝の護衛をしなくてはいけないのだから、ある程度腕に覚えのある者でないと務まらない。それを、蔵人である摩利の蔵人にやれと帝は言っているのだ。
「責任をとる気がないのですか?」
意地悪そうに笑う帝に、摩利の蔵人は戸惑いを隠せない。
「そういうわけではなく、私に随身が務まるかどうか……」
はっきりと返事を返せない摩利の蔵人に、帝はまたころころと笑う。
「大丈夫ですよ。
去年私を狙っていた不届き者に対する一太刀、しっかりと見せてもらいました。
それに」
「それに、なんでしょう」
「あなたは背が高くてすっとしているから、見ていて清々しいですしね」
たしかに、随身には背の高い男が選ばれることが多い。それはひとえに見栄えがいい方がいいということなのだけれども、突然あのように褒められて摩利の蔵人は恐縮するほかない。こうなってくると、随身をしろという帝の言葉も断れない。
「謹んで、随身を勤めさせていただきます」
摩利の蔵人がまた平伏してそう返すと、新の蔵人の困ったような声が聞こえてきた。
「そうなると、参拝の日までにいろいろと用意しないといけませんよね。
着るものはともかく、装具は揃えられますか?」
その言葉に、摩利の蔵人はこう返す。
「近衛府から借ります」
「ですよね」
ふと、摩利の蔵人が帝に訊ねる。
「ところで帝、新の蔵人にも随身をさせるということはありませんか?」
その問いに、帝は少し驚いた顔をしてから、すこし目を細めて新の蔵人を見る。
「そうですね。新の蔵人にも着いてきてほしいところですが、新の蔵人は随身にするには小柄すぎるでしょう。
なので、内裏に控えていてもらいます」
とりあえず、新の蔵人は危険な任務には就かなくていいようだ。そのことに安心した摩利の蔵人は、妻たちにどう説明して袍を縫ってもらうかを考えた。
仕事が終わった後、急ぎで妻の元へ行った摩利の蔵人は、素直にいきさつを説明して睡蓮の君と沙羅双樹の君に袍を縫ってもらうことになった。
沙羅双樹の君には、なんでそんな失態をしたのだと軽く怒られたけれども、そこはまた謝るほかない。
睡蓮の君が早速女房に白い絹を用意させ、染めるように指示を出している。その様子を見ている摩利の蔵人は、いつ見ても服を作るのはたいへんだなとしみじみと思った。
そして帝の上賀茂神社参拝当日。なんとか袍も縫い上がり、背負う装具を体格の近い藤棚の右大将に借りられた摩利の蔵人は、随身として帝の乗る輿の側を歩いていた。
上賀茂神社までの道中、帝の行幸を一目見ようと都中から人が集まっているのが見えた。道の横にはいくつも車が連なり、それに乗っている女が御簾から袖をはみ出させているのが華やかだ。
普段は静かな道なのだろうけれども、帝の行幸ともなれば、こうなるのはしかたがない。とにかく、今はこの人だかりの中から不届き者が飛び出してきたらすぐに動けるよう気を払っておかなくては。
緊張したまま上賀茂神社までの道のりを歩き、たどり着く。帝が輿を降りて参拝する際にも、当然のように摩利の蔵人は付き添う。
帝が神社を参拝する際には、このようにするのかと、物珍しく周囲を目だけで見回す。
参拝の後、神主にもてなされて帝は上機嫌のまま帰路についた。帰り道も人と車でごった返していて、思わず苦笑いしてしまう。普段なら、自分もあの人々に紛れているのかもしれないのにもかかわらず。
そして、帝と共に内裏へ戻り、近衛府で装具を外したところで、摩利の蔵人はようやく緊張の糸が解けた。
それから数日後、仕事終わりに帝が蹴鞠をしたいというのでいつも通りの面々を呼びに行っていると、途中何度も呼び止められて、手紙を渡された。
とりあえず今は帝に言われたとおり、蹴鞠をするために藤棚の右大将を呼びに行かなくてはいけないので、手紙を懐に入れて後ほど読むことにする。
藤棚の右大将をなんとか見つけ、懸に行くと、そこにはすでに帝と源氏の太政大臣と椿の中将、それに新の蔵人が待っていた。
少しの間その面々で閑談して、蹴鞠をはじめる。はじめに鞠を蹴るのは藤棚の右大将だ。
鞠は新の蔵人の方へ飛んでいき、うまいこと蹴り上げられる。続いて源氏の太政大臣が鞠を蹴り、よりにもよって帝の方へと飛ばしてしまう。帝が鞠をあさっての方向へ蹴り飛ばした瞬間、摩利の蔵人は鞠を追って走り出す。なんとか鞠に追いついたら、力一杯円陣に向かって蹴り返すのだけれども、今回はどうにも加減がうまくいかなかった。弧を描いて椿の中将の頭をめがけて飛んでいった鞠を、椿の中将がすんでのところで避ける。それを見て、帝はころころと笑った。
「おやおや、今回は誰が負けなのでしょうか。
ところで摩利の蔵人」
「はい、なんでございましょう」
突然呼ばれたことに摩利の蔵人が驚いていると、帝が赤い手紙を手に持ってこう言った。
「さきほど、あなたの懐から落ちてきたのですが、これは誰からの文ですか?」
それを見て、摩利の蔵人は思い出したように懐にしまっていた手紙を全部取り出す。
「実はまだ開けていないのです。
他にもこのようにたくさん文をいただいていまして」
「おや。それだと早く読まないといけませんね」
なんとなく急かしているようすの帝の言葉に、摩利の蔵人は許可を得て手紙を開いていく。それらを一枚ずつ目を通して、摩利の蔵人はため息をついた。
「……困りました。全部恋文です。
私にはもう妻がいるのに……」
そう、手紙の中には、行幸の時のすてきな随身と懇意にしたいという旨が書かれていて、差出人が全部どこかの姫君か女房なのだ。
困り果てる摩利の蔵人を見て、帝は楽しそうにころころと笑う。
「おやおや。摩利の蔵人にもずいぶんと宿縁があったのですね。
また何人か娶ってもいいのではないですか?」
その言葉に、摩利の蔵人は苦笑いする。
「いえ、これ以上妻を娶ると体が持ちませんので」
摩利の蔵人の言葉を聞いて、帝は満足そうに頷いた。




