第三十七章 居待ち月の夜に
今年も年が明けた。
一月は何かと行事や儀式の多い月なので、帝はもちろんその補佐をする蔵人たちも大忙しだ。蔵人たちというのは、いつも帝の側に控えている摩利の蔵人と新の蔵人だけでなく、他の蔵人も含めた全員のことだ。とにかくやることがおおい。
今日も行事をひとつ終え、帝の側に控えたままひといきついていると、帝からこう声をかけられた。
「ご苦労様です。今日は新の蔵人も休みをとっていますし、疲れたでしょう」
「……そうですね。少々堪えてはおります」
帝に言われて改めて新の蔵人が休みだったことを思い出したのだが、これは特に言う必要もないだろう。
火鉢の中で炭が燃える音がかすかに聞こえる。冬の空気は冷たくて清浄だ。こんな時期に、国全体の平安を占ったり祈祷したりする儀式をやるのは納得できるけれども、それはそれとして疲れるものは疲れる。摩利の蔵人がそう思っていると、帝がふと几帳の方へ目をやってこう言った。
「今夜は居待ち月ですね。
ゆっくりと眺めたいものですが、あなたも付き合ってはくれませんか?」
その言葉に、摩利の蔵人は平伏して返す。
「今夜はちょうど宿直をすることになっておりますので、ありがたくご一緒させていただきます」
宿直をするならするでやることはあるのだけれども、帝の誘いは断れない。なにより、ここ最近の激務で疲れているので、帝の側でとはいえすこし気を休めたかった。
「では、ここで日が暮れるまで待ちましょう。
お茶などあるといいですね」
帝の言葉に摩利の蔵人は一礼をして、女房に茶器と餅茶を持ってくるよう言いつける。
几帳の隙間から射す光を見ると、少しずつ日が傾いてきていた。
陽が落ちきる前に火鉢の炭も換え、帝と共に食事もする。帝の料理は台盤の上に乗っているけれども、摩利の蔵人の料理はお盆の上に乗っているだけで、お盆ごと床に置かれている。
帝の食事が終わってから、摩利の蔵人も床に伏すようにしながら食事をする。普段家で食べるときやひとりで食べるときなどは台盤の上に乗せられた料理を食べているので少々慣れないが、貴人の前で食事をするときはこうするのが礼儀なのでなんとかがんばる。
食事が終わったら台盤と食器を女房に下げさせて、そのときにちらりと几帳の外を見る。空はもう茜色で、太陽が山の中に沈もうとしていた。
「そろそろでしょうか」
摩利の蔵人はそう帝に言って、几帳をどけていく。すると、廊下越しに赤い空が広がった。
冷たい風が吹き込んでくる。火鉢の炭が赤くなる。陽が落ちきる前に、夜が来る準備をする。灯台に火を灯すと、周囲のものの影がふわりと広がり、ゆっくりと揺れた。
帝の側に座り、空をじっと見る。山際から白い月が徐々に昇ってきて、空はすっかり藍色になった。
白い息を吐いて帝が言う。
「月がきれいですね」
その言葉に、摩利の蔵人は帝の表情をちらりと見てから返す。
「まことに」
帝が心なしか悩んでいるような表情をしているのは気のせいだろうか。摩利の蔵人がそう思っていると、帝が突然こう訊ねてきた。
「ところで、摩利の蔵人は近頃妻たちとの仲はどうですか?」
その問いに、摩利の蔵人は妻たちのことを思い出しながら答える。
「たまにしか会えませんが、おかげさまで仲睦まじくしております」
「なるほど。それはいいことですね」
いつものようにころころと笑ってから、帝はすこし落ち込んだような声でこう言った。
「夫婦睦まじくするのがいいことなのはわかるのですが、私はほんとうに、中宮のことを愛せているのでしょうか。わからないのです」
たしかに、帝は浮気性だし相手にしている女も多い。けれども、そんな中でもいつでも一番は中宮だと言っているし、そのように振る舞っている。その帝が、こんなことを言うなんて摩利の蔵人には予想外だった。
帝はため息交じりに言葉を続ける。
「私にとって中宮が一番だというのは事実ですし、そう思っています。
中宮が大切な人だという気持ちも真実です。
けれども、この世には愛しい人が多すぎるのですよ」
帝が言う、愛しい人が多すぎるという気持ちは摩利の蔵人にはわからない。摩利の蔵人にとって女として愛するべき相手は睡蓮の君と沙羅双樹の君のふたりだけだからだ。
どう返せばいいかわからず黙っていると、帝はじっと月を見ながらつぶやく。
「こんなにもたくさんの宿縁があるのは、いったいどうしてなのでしょう」
それは、帝が前世から徳を積んできたからではないかと摩利の蔵人は思ったけれども、そう口にするのははばかられた。いくら徳のなしたこととはいえ、少なくとも今、帝は多すぎる宿縁に悩んでいるのだ。
帝がふと、摩利の蔵人のことを見る。
「妻ふたりだけを愛している、兄上とあなたがうらやましい」
その声はあまりにも切実で、帝も軽い気持ちで女に手を出しているわけではないのだなとなんとなく思う。
きっと、ほんとうに心の奥から気持ちを動かされて、相手を求めずにいられないのだろう。ただ、その相手の数が多すぎるだけで。
どう言葉を返すかいろいろと考えた末に、摩利の蔵人は帝の悩みに答えず、こう言った。
「せっかくの居待ち月なのですから、私ではなく中宮とご覧になればよろしかったのに」
すると、帝は困ったように笑って言う。
「中宮は今頃、女房の書いた物語に夢中ですよ。邪魔してはいけないでしょう」
それから、少し間を置いて戸惑うように続ける。
「それとも、それを遮ってでも一緒の方がいいのでしょうか」
帝の言葉に、摩利の蔵人の頭に浮かんだのは椿の中将の妻、石蕗の君だ。石蕗の君だったら、きっと物語をたのしんでいるところを遮られたら静かに怒るだろう。そして、石蕗の君を気に入っている中宮もそういった気質である可能性はある。
それならばと摩利の蔵人はこう提案する。
「でしたら、一緒に物語をたのしむのはいかがでしょう。
共通の話題も増えますし、帝も物語に興味がおありでしたら、それも悪くないかと」
すこしの間沈黙が降りる。灯台の明かりで影が揺れる。炭が小さくはぜる音が聞こえた。
考え込んでいたようすの帝がはにかむ。
「そうですね。それもいいかもしれません。
今度中宮に聞いてみましょう」
それから、手をさすって視線を落とし、帝がつぶやく。
「でも、なんとなく中宮の側にはいづらいのです」
中宮の側にいづらいというのは、帝がたくさんの女と関係を持っているからだろう。
中宮と一緒に居る時間を作るのが難しいというよりは、他の女とあれだけ懇意にしている帝が、中宮の側に居ていいのかという、罪悪感混じりの戸惑いのように摩利の蔵人には思えた。
中宮も、帝の手癖の悪さには呆れることもあるし怒ることもあると噂では聞いている。
けれども、中宮が帝を慕っていないなどということは考えられなかった。なぜなら、行事や儀式の時、帝の隣にいる中宮はいつもかすかに微笑んでいるからだ。
あの表情は、睡蓮の君と沙羅双樹の君が自分に向けるものと似ていると摩利の蔵人は思っている。
たくさんの女と関係を持つことに罪悪感を感じるのであればやめればいい。ただそれだけのことだけれども、それは帝には難しいことなのだろう。
帝は、女に向けるものだけでなく、血縁に向ける愛情にもあまりにも素直だ。自分が抱いた愛情を疑うことを知らないし、それを表現することこそが正しいことだと思っているのだろう。
しばらく、なにも言わないまま月を眺める。
そうしていると、雲が月を隠し始めた。
雲がすっかり月を隠してしまったところで、摩利の蔵人は帝に声をかける。
「そろそろお休みになられた方がよろしいかと」
その言葉に帝が頷いたので、摩利の蔵人は昼間は几帳を置いているところに御簾を降ろす。
帝の寝支度を手伝っているところで、ぽつりと聞こえる。
「あなたは、優しいですね」
摩利の蔵人は小さく返事を返して、帝を床に入れる。それから、灯台の明かりを消して帝が眠るのを待つ。
帝が眠ったのを確認したら、そのまま帝に背を向けて廊下の方を向き、床に座る。今夜はここで帝の安全を守るのだ。
あのように弱みを見せるほど信頼されているのだから、その信頼に応えられるよう。




