第三十五章 餅を贈る
藤棚の右大将狙撃事件があってしばらく。あの時の不届き者はまだ牢の中にいるけれども、ついに帝から椿の中将に手紙を届けるよう命じられた。
いくら不届き者とはいえ、殺せばその場は穢れてしまう。もちろん、処刑人も下手をすれば穢れに晒されるのだ。
穢れに触れるのは好ましくない。それは、殿上人だけでなく昇殿できない地下の者たちもそう考えているくらい一般的な考えなのだけれども、ただひとり、椿の中将だけは穢れを恐れない。
穢れを撥ね除ける方法を知っているのか、それともよほど高位な聖や阿闍梨と懇意にしているのか。それはわからないけれども、椿の中将は、自ら罪人の首を落とすことを一切ためらわない。そのような理由で、現在罪人の処刑は椿の中将に一任されている。
あのなよやかで細腕の椿の中将が罪人の首を落とすことに違和感はあるけれども、誰かがやらねばならないことなのでとりあえず宮中のみなは納得することにしているようだ。
そんなことを考えながら、帝に託された手紙を持って椿の中将の姿を探していると、近衛府の方からちょうどよく椿の中将がやってきた。
「椿の中将、探しておりました」
摩利の蔵人がそう声をかけ手紙を差し出すと、椿の中将は一瞬鋭い目で手紙を見て受け取り、中を開く。
素早く目を通した椿の中将は粛々と頭を下げ、こう言う。
「承知しましたと帝にお伝えください」
摩利の蔵人も軽く頭を下げてその場を去ろうとすると、椿の中将が突然こんなことを口にした。
「ところで、摩利の蔵人はこの噂をご存じですか?」
「ん? どんな噂ですか?」
宮中の噂に疎い自覚のある摩利の蔵人は、場合によっては帝の耳に入れなくてはいけないだろうと思いながら椿の中将の話を聞く。
「なんでも、源氏の太政大臣が新しい妻を娶ったそうですよ」
それを聞いて、一瞬何のことだかわからなかった。
あの堅物で愛妻家の源氏の太政大臣が、いまさら新たに妻を娶るとは思えない。
「いや、まさかそんな。
どんな噂が立つかわからないものですね」
摩利の蔵人がそう言うと、椿の中将はたのしそうにくすくすと笑っている。あくまでも噂は噂としてたのしんでいるのだろう。
それから、お互い軽く挨拶をして摩利の蔵人は帝の元へと戻る。椿の中将は早速、牢の方へ向かっていった。
帝の元に戻り、椿の中将に命を伝えた旨と、そのときに聞いた源氏の太政大臣の噂を伝えると、帝はいかにも愉快そうにころころと笑う。
「源氏の太政大臣が新しい妻をですか?
まさかそんなはずないでしょう。おもしろい噂が立つものですね。
そういうことは、あまり気にしてはいけませんよ」
それから、帝が内侍司にこう言う。
「すぐに源氏の太政大臣を呼んでください」
すごく気にしてるな。摩利の蔵人がそう思っていると、内侍司も困ったように笑いながら源氏の太政大臣を呼びに行く。きっと同じことを思っているのだろう。
内侍司を見送った新の蔵人がぽつりとつぶやく。
「源氏の太政大臣が、ほんとうに新しい妻を娶っていればいいのですが」
ため息交じりのその言葉に、帝はくすくすと笑って新の蔵人の手を取る。
「そうですね。あなたも相手が見つかったことですし」
「えっ? あの、えっと……」
帝の言葉に新の蔵人は真っ赤になっているけれど、新の蔵人が妻を娶ったという話はまだ聞いていない。
もしかしたら、まだ手紙のやりとりしかしていないのかもしれないと思った摩利の蔵人は、自分と妻たちの時のことを思い出して、なんとなく微笑ましいような、くすぐったいような気持ちになる。
なんとなく和やかな空気になっているところに、内侍司が源氏の太政大臣を連れて戻ってきた。
「どのようなご用件でしょうか」
源氏の太政大臣が膝をついて几帳の中に入ってくるなり、帝は興味津々といったようすでこう訊ねる。
「源氏の太政大臣、新しい妻を娶ったというのはほんとうですか?」
いきなり訊くなぁ。と思いながら摩利の蔵人がようすを見ていると、みるみるうちに源氏の太政大臣の顔が赤くなっていく。それから、蚊の鳴くような声で源氏の太政大臣がこう答えた。
「……花散里には許可をもらっています……」
まさかあの噂がほんとうだっただなんて。
摩利の蔵人だけでなく、さすがの新の蔵人も目をまるくしている中、帝はどんどん源氏の太政大臣を問い詰めていく。
「それはめでたいことです。
どこの姫君を娶ったのですか?
いったいいつからのお付き合いなのですか?
兄上にどんな心境の変化があったのでしょう」
気分が盛り上がっているようすの帝に、源氏の太政大臣はもじもじしながら答えていく。
「あの、相手は末摘花です。
はじめのうちは、あのひとにふさわしい男を捜していたんです。ほんとうです。
なのですが、一緒に過ごしているうちに手放したくなくなってしまって、それで……」
そういえば、以前そのような素振りを見せていたなと摩利の蔵人が思い出していると、源氏の太政大臣慌てたように言葉を続ける。
「わかっているんです。ほんとうは他にふさわしい男を捜した方がいいのはわかっているんです。
わかっているのですが、でも」
許可を取ったとはいえ、花散里の君以外の妻を迎えることにまだ罪悪感があるのか、源氏の太政大臣は落ち着かないようすだ。
それを見た帝は、ころころと笑う。
「そんなことを言わずに。
末摘花の君も、兄上の妻となるのなら安心でしょう」
その言葉には摩利の蔵人も同意だ。源氏の太政大臣なら不必要に浮気をすることもなく、末摘花の君のことも大切にするだろう。
ふと、摩利の蔵人は帝のことをちらりと見る。すると、帝は口元を扇で隠してこう言った。
「しかし、末摘花の君に一度でいいから会いたかったものです」
「なりません」
源氏の太政大臣が間髪入れずに否定すると、帝がすこしすねた顔をする。
帝も、源氏の太政大臣くらい貞淑であったらなと、摩利の蔵人は思わず苦笑いをしてしまう。
その後、しばらくの間源氏の太政大臣が帝に遊ばれた後、他の人と会う用事があると言って帝の前から退出していった。
しばらく帝は機嫌よさそうにしていたけれども、ふと思い出したように摩利の蔵人に一通の手紙を手渡す。
「そういえば、これを百合の女房に渡してくれませんか」
「百合にですか? かしこまりました」
帝が摩利の蔵人の妹に何の用があるのだろうと不思議に思いながら手紙を受け取り、廊下へと出る。
妹の百合の女房がいるとしたら、今頃は房だろう。内裏の中を歩き、房に近づくと女房たちとすれ違うことも多くなり、御簾の向こうにいる女房同士の話し声も聞こえてくる。
ふと、誰かわからない女房の言葉が耳に入った。
「どうして源氏の太政大臣は不美人ばかりを娶るのかしら」
「ほんとうに。
言葉は悪いけれど、末摘花の君の噂もそうだし、花散里の君も、気立てはいいと聞くけれども見た目はそれほどねぇ」
「そうでしょうそうでしょう。
太政大臣自身はあんなに美丈夫でおられるのに、まったく釣り合わないこと」
できれば聞きたくない噂だったな。摩利の蔵人は思わずげんなりする。
たしかに、末摘花の君は噂に聞く限りは不美人だという話の方が多いし、花散里の君も美人だという話は聞かない。実際のところどうなのかを摩利の蔵人が知ることはないけれど、そもそも知る必要もないのだ。なんせ、あのふたりは源氏の太政大臣の妻で、大切にされることがわかりきっているから。
こういった噂を流してあわよくばを狙う女房もいるのだろうなと摩利の蔵人は思う。
狙われている源氏の太政大臣でないにしろ、こういう性根の女はご勘弁願いたい。
正直言えば、摩利の蔵人自身もこの手の女から色目を使われることはある。蔵人頭である自分ですらこの状態なのだから、位の高い源氏の太政大臣はもっと大変だろう。
先ほどまでめでたい気持ちだったのに、急に気分が下がってしまった。
気持ちを落ち着かせるために、すこし余分に百合の女房と話していこうと思った摩利の蔵人だった。




