第三十四章 不動明王のお守り札
源氏の太政大臣にかけられた呪いとその穢れを、神祇官と陰陽師、それに聖たちの力ですっかりと祓い終わった頃。さすがにもうこれでしばらくは安心して過ごせるだろうと摩利の蔵人はせわしなく仕事をしていた。
安心できていなくても仕事はしなくてはいけないのだけれども、それはそれとして安心できる要因がひとつ増えた。それはなにかというと、藤棚の右大将と勝鬨の左大将の関係が以前より良好になったという噂があるのだ。
噂の出所はわからないけれども、時折仕事の後にふたりで碁を打っている姿を見たという話もあるくらいだ。
これもきっと、あのふたりで協力し合って帝を守れたからだろうと摩利の蔵人は思っている。
あのとき、武士たちを率いて賊を討つように帝が命じていたとしたら、関係は以前と同じだったかもしれない。けれどもあの時、藤棚の右大将が武士を率いることを自ら申し出て、帝を勝鬨の左大将に任せたのが良かったのだろう。
きっとあの判断は、勝鬨の左大将へ藤棚の右大将が信頼を寄せているようにも感じられたのだろうなと、帝もころころと笑いながら話していた。
そんなことを思い返しながら、摩利の蔵人は帝の言葉を書き留めていく。そうしているうちに女房が仕事終わりの時を告げに来た。
帝に一礼をして仕事道具を片付けながら、摩利の蔵人は帝に訊ねる。
「今日はこの後、どうなさいますか?」
すると帝は、にっこりと笑ってこう言った。
「藤棚の右大将と勝鬨の左大将を呼んで歌合でもしましょう。
あのふたりもずいぶんと打ち解けたようですし、これを機に勝鬨の左大将とも交流を深めたいです」
歌合と聞いて、摩利の蔵人の頭にしわしわになった藤棚の右大将の顔が浮かぶ。
しかし、しわしわになっても歌には慣れてもらわないといけないので、新の蔵人と共に藤棚の右大将と勝鬨の左大将を呼びに行くと帝に返事をした。
歌合がはじまり、案の定藤棚の右大将はしわしわしている。そのようなようすだから藤棚の右大将から歌を詠むなどということはできず、まずは帝が、続いて摩利の蔵人が歌を詠むことになった。
帝が詠んだ柔らかで風流な歌の後に来るのは緊張するけれども、藤棚の右大将が助けを求めるような目で見てくるので、出来すぎず、しかし帝の不興を買わない程度の歌を詠まなくてはいけない。
これも毎度のことかと思いながらも、摩利の蔵人が一首詠む。
山覆う もみぢのあかね 降り積もり
我が子その手で ひろうはうつくし
なにともなしに詠んだ歌だけれども、ずいぶんと前に亡くした息子のことをふと思い出す。あの子はもう、思い出になったのだろうか。
そんな摩利の蔵人の内心も知らず、帝はころころと笑って藤棚の右大将を指名する。
藤棚の右大将はなんとか気力を振り絞ってというようすで歌を詠む。
どんぐりを 山盛り拾ってもちもちに
おやつがこれだととてもうれしい
それを聞いて、藤棚の右大将以外の全員が、どこかでどんぐりを拾ってきたんだな。という顔をする。よく見てみてみると、腰からぱんぱんになった袋を下げているので、あの中にどんぐりが入っているのだろう。
藤棚の右大将の歌を聞いて、帝はご機嫌だ。
「いいですね。非常に藤棚の右大将らしく元気な歌です。
では、次は勝鬨の左大将のお手並み拝見と行きましょうか」
次に指名された勝鬨の左大将は、一礼をしてからすぐさまに歌を詠む。
枯れ知らず 松が恵みしあたたかさ
昼間の炭もまたおかしなり
たしかに、藤棚の右大将は松ぼっくりも好きそうだな。摩利の蔵人は妙に納得してしまったのだけれども、自分の後に即座にそつの無い歌を詠まれた藤棚の右大将は唇をとがらせている。
それでも、険悪な雰囲気になることはなく和やかな雰囲気だ。
「勝鬨の左大将は、私が松ぼっくりも好きなのをなぜ知っているのですか」
口をとがらせた藤棚の右大将がそう言うけれども、周りからすれば、わかるだろうなぁ。という感じだ。
この雰囲気が心地いいのか帝がころころと笑っていると、突然勝鬨の左大将が鋭い声で叫んだ。
「みなさん、伏せてください!」
疑問に思うまもなく、摩利の蔵人と新の蔵人は帝に覆い被さってその場に伏せる。
その直後、何かが飛んでくる音が聞こえ、伏せるのが遅れてしまっていた藤棚の右大将が倒れ込んだ。胸には矢が立っている。
摩利の蔵人の下から帝が言う。
「勝鬨の左大将、やつを追いなさい」
勝鬨の左大将はすぐさまに立ち上がり几帳の外へと走り出す。
その足音が小さくなるのを聞きながら、摩利の蔵人と新の蔵人が帝を助け起こし藤棚の右大将を見る。
「まさか、藤棚の右大将がやられるとは……」
呆然と新の蔵人がつぶやくと、帝がいかにも意気消沈した声で言う。
「このような矢を受けたとあっては助からないでしょう。
とりあえず、ご家族に文を送って、穢れを祓うために神祇官を呼んでください」
蔵人ふたりが返事をして手紙をしたためる準備を始めようとしたそのとき、藤棚の右大将がむくりと起き上がった。
「あー、びっくりした」
それを見て、摩利の蔵人は目を丸くする。
「え? 藤棚の右大将、どうしてそんな矢を受けて平気な顔をしておられるのですか?」
そう。見る限りでは、飛んできた矢は確実に藤棚の右大将の心臓を射貫いているのだ。
戸惑う摩利の蔵人の疑問に答えるように、藤棚の右大将は矢を引き抜き、袍の中に手を入れてなにかを取り出した。
「胸に入れていた不動明王の身代わり札が守ってくれました」
藤棚の右大将の手には、険しい顔をした不動明王が描かれた札が握られている。
いや、これはもう札とはいえない。札というにはあまりにも大きく、分厚く、大雑把すぎた。どちらかというとそれは角材だった。
へたりと座り込んだ帝が、気の抜けた声で口を開く。
「ずいぶんと立派な身代わり札ですね。
そんなものをいつも持ち歩いているのですか?」
その言葉に、藤棚の右大将はしたり顔をして答える。
「大きい方が効果があるかなと思いまして」
「そうですね」
藤棚の右大将の力こそ力。といった考えは、普段ならたしなめるべきものなのだろうけれども、今回ばかりはその考え方に助けられた。
ようやく安心できた摩利の蔵人も、その場にへたりと座り込む。新の蔵人は先ほどの件で緊張しすぎて姿勢を保てないのか、帝の体にもたれかかって肩を抱かれている。
藤棚の右大将が無事だったことには安心したけれども、安心しすぎてなにもできないでいるところに足音が聞こえてきた。
「捕らえて参りました」
勝鬨の左大将の声だ。
摩利の蔵人はなんとか几帳をめくって、帝から勝鬨の左大将と不届き者が見えるようにする。
帝は新の蔵人の肩を抱いたまま姿勢を正し、いつも通りのおっとりとした声でこう言った。
「勝鬨の左大将、ご苦労様です。
して、その者は私を狙って矢を射かけたのですよね? 答えなさい」
後ろ手に縛られた不届き者は、怯えた顔つきで答える。
「滅相もございません。
穢れを起こそうとしたことはお詫び申し上げます。
ただ、帝を狙うなどと言うことは決して……
私は藤棚の右大将を……」
しどろもどろに答える不届き者の言葉を遮り、帝はなおも言う。
「いいえ、あなたは私を狙ったのです。
覚悟はできていますね」
摩利の蔵人が見ていた限りでは、藤棚の右大将は、帝からよほど狙いを外さないと矢が当たらないような位置にいた。なので、この不届き者が藤棚の右大将を狙ったというのはほんとうだろう。
けれども、帝はあくまでも自分を狙ったということにして、この者に重罰を与えるつもりだ。
勝鬨の左大将に命じて、不届き者を牢へと連れて行かせる。
遠からず、椿の中将の出番となるだろう。




