第三十三章 呪詛
帝の命を狙う不届き者を全員処罰してからしばらく。ようやく宮中が落ち着いてきたかと摩利の蔵人は安心していたのだけれども、ひとつだけ心配事があった。このところ、源氏の太政大臣の体調が優れないのだ。
帝もそのことが気にかかっているらしく、仕事中も上の空になることが増えた。
巻物を読み上げる内侍司の言葉を遮って、帝がぽつりとつぶやく。
「ああ、兄上は今頃どうしているのでしょう……」
以前帝が瘧で臥せっていたときに、源氏の太政大臣がいろいろと尽くしてくれたことを思い出しているのだろう。心底心配そうにしている帝に、摩利の蔵人はいったん仕事を中断することを前提とした上でこう提案する。
「瘧にしてもおかしい時期ですし、源氏の太政大臣の体調不良の原因を神祇官か陰陽師に占わせてはいかがでしょう」
それを聞いた帝は、ちらりと空の方を見てからかすかに目を伏せ、こう返す。
「そうですね。神祇官に原因を占わせましょう。
摩利の蔵人、行ってきてくれますか?」
「かしこまりました。直ちに」
摩利の蔵人は一礼をして、几帳をめくって廊下に出る。そしてそのまま神祇官の元へと向かった。
帝の体のことでもないのなら、体調不良の原因は陰陽師に占わせるのが一般的だ。けれども、あえて神祇官を指名したのは、先日大きな凶兆を見つけた陰陽師から、すこし距離をとりたいのだろう。
あの騒ぎは陰陽師のせいではないけれども、それを予言したとあっては、原因と予言した者を結びつけてしまう人の気持ちはわからないでもない。
そんなことを考えているうちに神祇官の元に着いたので、用件を伝える。帝の命であることを聞いた神祇官たちは、直ちに亀卜の準備をはじめた。
これから結果が出るまでは、神祇官たちの邪魔をしてはいけない。摩利の蔵人は廊下でぽつんと、少しの不安を抱えながら亀卜が終わるのを待つ。
ふと、突然のんびりした声をかけられた。
「摩利の蔵人、あのねぇ」
なにかと思ったら、こんなところまで晴明がてくてくと歩いてきている。
にこにこしている晴明につられて、摩利の蔵人もにこりと笑って返す。
「なんですか、晴明殿。
ここには神祇官がいますから、またいじめられるかもしれませんよ」
陰陽師と神祇官の仲が悪いのを言い聞かせるように晴明に言うと、晴明は袖の中からなにかを出して摩利の蔵人に見せる。
「あのね、こんなのがあったよって摩利の蔵人に言っておいてねって預かったの。
これ、源氏の太政大臣のお名前が書いてあるけど、太政大臣のやつなの?」
そう言っている晴明が手に握っているのは、木でできた木偶人形だ。
思わずぞっとした。摩利の蔵人のような素人でも、見るからに呪物だとわかったからだ。
「晴明殿、それはどこにあったものですか?」
確認するように摩利の蔵人が訊ねると、晴明は懸の方を指さして答える。
「なんかねぇ、お庭に埋めてあったって持ってきた人が言ってたよ」
摩利の蔵人は咄嗟に周囲を伺う。すると、今の話が聞こえていたのだろう、亀卜に加わっていなかった樹良がすぐさまに側へとやってきた。
「晴明殿、その人形が埋められているところへ案内してくれませんか?」
「いいよ。一緒に行こう」
緊迫した表情の樹良とは対照的に、晴明は相変わらずのんびりしたままだ。
摩利の蔵人と樹良は沓を履いて、歩きはじめた晴明の後をついて行く。
懸につくと、松の木の根元が一カ所掘り起こされていて、そこをのぞき込むと、大量の木偶人形が埋められていた。
「うわ……」
「これは……」
樹良と摩利の蔵人は思わずうめくような声を上げる。そのようすを不思議そうに見ながら、晴明が木偶人形をいくつか拾い上げながらこう言った。
「全部源氏の太政大臣のお名前が書いてあるねぇ。
太政大臣がここにナイナイしたのかなぁ」
これは明らかに、源氏の太政大臣を呪う呪物だ。それを確信した樹良は、晴明から木偶人形をすべてひったくってこう言う。
「これは穢れた呪物です。
源氏の太政大臣を呪うために、誰かがここに埋めたものでしょう」
それを聞いて、晴明はようやく顔を青くする。
「……キャァァ……」
ことの重大さにようやく気づいたのか、晴明が小さく悲鳴を上げた。
晴明が納得したところで、摩利の蔵人は樹良と晴明に指示を出す。
「樹良殿はその呪物を他の神祇官の元へ。
晴明殿は呪物が見つかった旨を源氏の太政大臣に伝えてください。
私はこれから、帝にこのことをお伝えします」
それからすぐさまに三人ともそれぞれに動き出す。一刻を争う事態だ。
摩利の蔵人が帝に呪物のことを伝えると、帝はいつになく険しい顔をし、心なしか荒れた口調でこう命じた。
「神祇官には誰が兄上を呪っているのか占わせなさい。
それから、兄上の元に聖を派遣して呪詛返しをするように」
摩利の蔵人と新の蔵人はすぐさまに返事をし、神祇官と聖の手配に入る。
そのとき、摩利の蔵人の耳にかすかに声が入る。
「兄上を呪ったやつは、絶対に許さない」
一瞬誰のものかわからないほどの怒りに満ちている。帝をここまで怒らせるだなんて、そんな不届き者を野放しにはしておけないなと思った。
呪物の一部を神祇官に託し占わせる一方で、呼び出した聖に残りの呪物を任せ、呪詛返しの儀式をはじめた。
摩利の蔵人だけでなく、新の蔵人も、帝までもが、身をやつしてお忍びで源氏の太政大臣の元へと訪れていた。
聖がお経を唱えて儀式をしている中、源氏の太政大臣はぼんやりとした顔で帝を見ている。
「帝……わざわざ……」
「無理に話さなくていいのですよ、兄上。
今は少しでも楽にしてください」
手をぎゅうと握って、帝はじっと源氏の太政大臣の顔を見つめている。きっと、ひどく不安なのだろう。
「それにしても、誰がこのようなことを」
落ち込んでいるのか怒っているのかわからない帝の言葉に、摩利の蔵人はどう返したらいいかわからない。
代わりに、言葉を返したのは新の蔵人だった。
「おそらく、先日の賊騒ぎの時に捕らえ損ねた不届き者がいるのでしょう。
源氏の太政大臣を思い通りに動かせないことに逆恨みをしているものと思われます」
なるほど。不届き者は全員処刑したものと思っていたけれども、残党がいたのであれば納得はできる。
それにしても、なんて身勝手なやつなのだろう。こんなに慕いあっている兄弟の仲を引き裂こうだなんて。
摩利の蔵人がそう思いを巡らせていると、何かがはぜる音がした。なにかと思ったら、源氏の太政大臣の名が書かれた木偶人形がすべて真っ二つに割れていた。
聖が息をついて言う。
「呪詛返しは成功しました」
その言葉に、帝が源氏の太政大臣にしがみついて泣き崩れる。
源氏の太政大臣の顔色は、だいぶ良くなっていた。
源氏の太政大臣の邸宅から内裏に戻ると、樹良からの手紙を内侍司が預かっていた。どうやら呪いをかけていた相手を占えたらしい。
手紙に書かれた名を見て、帝が摩利の蔵人に言う。
「すぐにこの者を引っ立ててきなさい」
すると、内侍司がすぐさまに返す。
「それには及びません。
この者は、突然朱雀大路で事切れたとのことです」
それを聞いてか、帝は少しだけ落ち着きを取り戻す。
「そうですか……では」
いつものように落ち着いた声で、帝がもう一度摩利の蔵人に命じる。
「椿の中将に、この者の首を刎ねて晒すよう伝えなさい」
「かしこまりました」
帝がここまで怒るのは珍しい。しかし、やつはそれだけのことをしたのだと摩利の蔵人は思う。
宮中に呪いという穢れを持ち込んだだけではなく、尊い兄弟の仲を引き裂こうとしたのだから。




