第三十二章 宮中の乱
あの日、太白が逆向きに動くという晴明の予言が当たってからというもの、摩利の蔵人と新の蔵人は周りを警戒してずっと帝の側に控えていた。
あの日から今までの間に、毎月のように新の蔵人が体調を崩し数日執務を休みはしたけれども、家に戻るのではなく帝から場所を借り受け、内裏を離れることなく帝の側にいた。
もちろん、都の中の警備も厚くしてある。いったん武士たちの訓練は中断し、藤棚の右大将の指揮の下、何部隊かに分かれて毎日、一日中、洛中と洛外を見張らせていた。
藤棚の右大将はその報告を昼と夜の一日に二回、帝へと伝えている。その報告を聞く限りでは、洛外の者はもちろん、洛中の者も乱を起こすような動きは今のところないとのことだった。
もっとも、太白が逆に動いている時こそが乱を起こしやすい時だということを知らない者も多いだろうし、そもそも太白が逆向きに動いていることにも気づいていないのかもしれない。少なくとも、五位以下の者たちは。
一方、勝鬨の左大将がにらみをきかせている大内裏の中では、太白が逆向きに動いているということが知れ渡っているようだ。
これを凶兆として恐れている者も多いけれど、よからぬことを考えている者がいつ、どのように動くかは油断ならない。
勝鬨の左大将の報告では、今のところ源氏の太政大臣の周りで怪しい動きは無いようだけれども、人ひとりを欺くくらい上達部なら簡単にできるだろう。これも油断はできない。
とりあえずは勝鬨の左大将を帝側の人間として手駒にしておかなくてはいけないのだ。
今日も夜が来る。摩利の蔵人と新の蔵人はずっと帝の側に控えている。
そろそろ帝の寝支度をするかという頃になって、御簾の外から足音が聞こえてきた。
「洛外から、洛中へと賊が入り込んだとのことです」
その声に、摩利の蔵人は帝の表情をちらりと見てからこう返す。
「藤棚の右大将と勝鬨の左大将を呼んでください。すぐにです」
声の主は短く返事をしてから慌ただしく去って行く。
来るべき時が来たか。緊張が走る中、摩利の蔵人と新の蔵人は腰に差した刀がしっかりとそこにあることを確認する。
程なくして、藤棚の右大将と勝鬨の左大将がやってきた。
御簾越しに帝がふたりに言う。
「話は聞いていますね?」
藤棚の右大将と勝鬨の左大将は短く返事をする。それから、藤棚の右大将が迷い無くこう言った。
「私はこれから武士を連れて賊を討ちに行きます。
勝鬨の左大将は私がだめだったときに備えて、帝の側に」
勝鬨の左大将も迷い無く返す。
「だめではなく、残さず討ちなさい」
それからひとり分の足音が遠ざかる音がした。離れたところから藤棚の右大将が武士たちを集める声が響く。
新の蔵人が御簾を上げ、帝が勝鬨の左大将を招き入れ、こう訊ねた。
「兄上は無事ですか?」
その問いに、勝鬨の左大将はこう答える。
「今夜は源氏の太政大臣もここに招いた方がよろしいかと存じます。
お恥ずかしながら今日の夕方になって、ようやく源氏の太政大臣を帝にしようとしている動きのある者たちがいるということを知ったのです」
床に頭をこすりつけるようにしてそう言う勝鬨の左大将に、帝は穏やかな声で言う。
「あなたはなにも恥じなくていいのです。狡猾なやつらにだまされてしまったのは、あなたが正直者だからでしょう。それを利用するやつが悪いのです。
それよりも、あなたは私と兄上の味方でいてくれますよね」
「はい。もちろんでございます」
そのやりとりを聞いていた摩利の蔵人は思いを巡らせる。洛中に乗り込んできた賊たちは、源氏の太政大臣を担ごうとしている者たちの手引きで来たのではないだろうか。
兄を信頼しきっている帝の手前、あまり考えたくはないけれども、源氏の太政大臣自身も今は信用していいかどうか判断しかねる。
もっとも、これはほんとうに最悪の場合だろうけれども。
源氏の太政大臣をここに呼ぶか呼ぶまいか考えていると、また足音が聞こえてきた。ずいぶんと急いでいる。
「帝、ご無事ですか!」
いつになく焦ったようすで聞こえてきたのは、源氏の太政大臣の声だ。
それを聞いた新の蔵人は一瞬摩利の蔵人と目配せをしてから、黙って御簾を上げる。すると、源氏の太政大臣が膝をついて中へと入ってきた。
「兄上も無事でしたか」
安心したような帝の言葉に、源氏の太政大臣は震える声でこう言った。
「大変なことになりました。
どうやら乱を起こそうとしている者が宮中にいるようなのです。
どうして今まで気がつかなかったのか……」
取り乱したようすの源氏の太政大臣に、摩利の蔵人が声をかける。
「源氏の太政大臣がその者たちの動きに気づかなかったのでしたら、勝鬨の左大将が気づかないのも無理はありません。
ところで太政大臣、その腰の刀を下ろしてはくださいませんか?」
その言葉を聞いて、自分も疑われているということを察したようで、源氏の太政大臣は刀を下ろし、帝の方へと差し出す。
「私は、帝に終生お仕えすると決めております」
帝は黙って刀を受け取り、源氏の太政大臣に言う。
「目星はついていますか?」
源氏の太政大臣は、何人か近しい者の名を上げることで応える。確かにその名を聞く限り、以前より源氏の太政大臣に取り入っている上達部ばかりだ。
帝は今名前が挙がった者たちを捕らえるよう勝鬨の左大将に指示を出す。それと同時に、警護のために椿の中将を呼ぶようにとも伝えた。
慌ただしく勝鬨の左大将が出て行く中、摩利の蔵人が誰ともなしに訊ねる。
「椿の中将は戦えるのですか?」
その問いに答えたのは新の蔵人だ。
「戦えなくとも、必要となることもあるでしょう」
そう話していると、程なくして椿の中将がやってきた。
「お話は伺っております」
御簾の外から聞こえた声に、新の蔵人が御簾を上げ、椿の中将を中へと招き入れる。
帝と源氏の太政大臣を一番奥にし、中程に摩利の蔵人と新の蔵人、一番廊下側に椿の中将を配置し周りを固める。
かすかに喧噪が聞こえる。勝鬨の左大将が不届き者を捕らえているのだろう。
緊張が高まる中、廊下がきしむ音がした。誰かが走ってきている。
摩利の蔵人と新の蔵人、それに椿の中将が刀を抜いて構えると、それと同時に何者かが御簾を刀で切り裂いて押し入ってきた。
暗くて誰なのかはわからないけれど、その誰かと椿の中将が刀を交わす。しかし、椿の中将の細腕では太刀打ちできず床に転がされてしまった。
誰かが迫ってくる。新の蔵人が刀で刃を受ける。
その間に、誰かの後ろに回った摩利の蔵人は大声でこう叫んだ。
「みなさん、お立ちください!」
その一声で帝を含めた全員が立ち上がり、その隙に摩利の蔵人は膝をつかないようしゃがんで誰かの足首をめがけて刀を振るう。
手応えがあった。骨までいかずとも腱は切れているだろう。
倒れ込む音が聞こえ、血のにおいが漂う。
摩利の蔵人は膝をつかないよう注意を払いながら立ち上がる。
うめき声が聞こえる中、帝が凜とした声で椿の中将に命じる。
「椿の中将、その者の首を刎ねよ」
ここで死人を出したら内裏が穢れる。しかし、すでに血で穢れてしまっているし、穢れが移らないよう全員立っている。下手に禍根を残すよりはこの場で首を刎ねて、穢れを陰陽師や神祇官に祓わせた方がいいだろう。
摩利の蔵人がそう思っていると、誰かが源氏の太政大臣に手を伸ばしてこう言った。
「なぜこのような仕打ちをなさるのです。
源氏の太政大臣の命でしょうに」
その言葉を聞いて、摩利の蔵人は咄嗟に源氏の太政大臣のことを見る。暗くて表情はわからないけれど、帝の腕にすがりついて怯えているようだった。
しかし、実際はどうなのか。摩利の蔵人が新の蔵人と目配せをしていると、椿の中将があざ笑うようにこう言った。
「あなた、つまらない嘘をつきますね」
一瞬、椿の中将の右目が青く光ったように見えた。
そして、椿の中将の刀は振り下ろされ、一刀のもとに首が刎ねられた。相変わらずの腕前だ。
新の蔵人が言ったとおり、椿の中将はこの場に必要だったのだ。




